アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

盆を送る 日本人の死生観を求めて アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
イメージ 1
残照のなかに佇つ雲の墓標

 柳田国男に『先祖の話』と云う、日本人の死生観を説いた有名な本がある。柳田は、先の大戦で戦没した夥しい死者たちの魂の行方を想って、日本人は死後故郷の山河に帰って、杜の陰から子孫を見守る氏神となる、と美しくも優しい死生観を語っている。
 柳田の言説が明らかにしていることは、日本人の他界観、すなわち地の国、根の国、あるいは折口の場合は海の彼方の妣(はは)の国と云いながら、仏教の説く地獄や極楽の死生観は、あるいは完全な形では根付かなかったのではないのか、それよりも氏神や祖先崇拝の土着的な習俗や信仰と習合する形で生き延びてきたのではないのか、と云う思いである。
 いま一つは、先の大戦時の中支や南海の戦地に死んだ、名もなき膨大な死者たちの霊魂をおもんばかりながら、名もなきものたちの弔い方に思いを致すことであった。それは戦争だったからという特殊な出来事ではなく、平和な世の中に於いてすらも、膨大で無縁化された死者たちを生み出しつつある現代社会の病理と重なりつつあることをもってしても、柳田の問題提起は現代的であった。
 
 さて、盆休みの間に過年、話題になった島田裕巳『葬式は、要らない』一条真也、『葬式は必要』、田代尚嗣『葬式にお坊さんは要らない』、などを読んだ。それぞれに面白かったが、考えたのはまるで別のことだった。
 盛大な葬儀が必要か否か、葬儀や供養の場にお坊さんを呼ぶべきかいなか、と云う議論以前に、死は当該の本人にとって一切の終わりであるのか否か、と問うことが日本人の死生観を考える場合には大事なことのように思われた。
 葬儀の必要不必要を越えて両者に共通するのは、死と云う事態が持つ、その人なりの人生としての完結性、である。宗教とは、畢竟、死に逝くものにとっても見送る側にとっても、無記性の時間の表情を欠いた流れのなかに、一個の有為な、結界 を結ぶことではあるまいか。それで日本人の死生観は、生きている間は「結び」(産霊)としての神社崇拝と、死後の観念としては「解き」そしてみ「送り」の思想を旨とした寺院礼拝を通じて、本来的に神仏混淆的な在り方を自然な成り行きとして選択してきたのではなかろうか。もしそうであるとするならば、明治の神仏分離廃仏毀釈以降の近代日本人の死生観は、日本人の生き方の自然を踏まえ、歴史的自然に違えた、民族の不自然な在り方を示すと云うことになる。
 これは、最近、寺社巡りを頻繁に行う形で各地を訪れるにつけて、破壊された神仏混交の遺跡の無残さを眼にするにつけて、思うことであった。ここに、神仏混淆を形成する過半の一部を成す神の道とは、明治以降に体系化された伊勢神宮国家神道のことでは勿論ない。
 話しは、先の柳田の『先祖の話』に戻るのだが、そもそも死者を顕彰し、その業績を追憶としてこの世に留めるものとしてのメモリアルとしての営為は、日本の古き神々の道、すなわち名もなき死者たちの行方を訪ねると云う日本人の死生観の自然に叶うものなのだろうか。このような観点からすれば、毎年今ごろになると、靖国参拝の賛否が喧しく論議されるのであるが、議論する以前に、自ずからの論理として考えれば分かることである。
 
 先に、葬式の是非と可否についての賛否両論を越えて両者に共通する認識として、死を、当該の本人にとって完結したものと捉える死生観が前提されているらしいことに言及したのであった。
 さて、これからがわたくしの推測なのであるが、死をそれなりの完結したものと捉える死生観は、実を言うとあらゆる宗教の前提条件となっているものなのではないのか。先に、葬儀を無記性の表情を欠いた時間の流れのなかに、一条の結界、を引くことと定義したのであったが、一個の人格としての人の死を完結したものとして捉えるか否かは、あらゆる宗教が成立するための前提条件であるとともに、宗教が導き出してくる結論部分にも当たると云う意味で、循環構造を成しているのである。ある意味で未完のプロジェクトである人生に、象徴的な結界を引くことで、引導を渡す、あるいは天国に導くと云う、各宗教・宗派独特の、宗教に固有の働きが導き出されてくるのである。
 以上の事態を、宗教の側から捉えれば治世学的に、ひとの死生観を制することによって、あの世に秩序と序列をもたらし、死後の世界を支配することで、生の世界をも支配しうると云う、ヘーゲルが『精神現象学』で言及しているような、権力への意志の問題があることも書き添えておきたい。宗教とは、なんと尤もらしく云おうと、一方では死後の世界平安と安寧を語りながら、他方では現世の人が人を支配すると云う技術だと云う冷徹な認識を、われわれは何と云おうと一方に措いて持たなければならない。
 
 人の死とは、柳田が『先祖の話』で控えめに述べているように、夥しい未完結の死者たちの霊魂の繋がりである。一個の生と死は、必ずしも、惜しまれて敬慕の対象となる死ばかりではない。むしろ、無念の思いを『赤穂浪士』はじめ日本人は様々な民間芸能の形を借りて語ってきた。これら現代の著者たちが、日本人の死生観を語るに、能楽万葉集について語らないと云うのは、当該の書物が学術書や研究書ではないと云う理由をもってしても理解しがたい点である。何となれば、それらの著者はふんだんにそれ以外の出典に積極的に言及し、中にはドイツの哲学者ヘーゲルについてまで語っているのであるから。
 能楽隅田川』は、日本人は死者の形を探し求めずにはいられない、というお話である。しかし形あるものにはついには辿り着けない。『海女』は、面影すら不確かな死別した伝説の母を幻想の海原に幻視すると云うお話である。死者にかくあれかし!と願う弔うものの願いは、この世をかくも荘厳なものにする、葬儀とはしめやかな悲嘆の場であるとともに、晴れやかな晴れがましさ場であることがこの舞台を見ればわかることである。
 ところで、万葉の時代には、殯と云う儀式があった。古代日本人の死生観においては、この世とあの世との間には近現代世界で観るような隔絶した断絶感があるわけではなく、また、人為的に生と死との間に 結界 を引くべき宗教も必要とはされていなかった。ここに、国家神道以前の神の道があったのではなかろうか。
 古代万葉人にとっては、生理的な死が到来すると、そのまま葬儀の場には移行せずに、殯と云う、生と死の中間域に移行される。肉体的には死んでも、死者は死に切ったわけではなく、死者に成るために、死者の死を生きる、そして死者の死を死ぬ、それは死者の傍に常時待機する喪主との、言葉なき共‐時間性のなかで演じられる。演じられると不謹慎にも書いたのは、両者の関係はは、どこか演ずるものと演ぜられるものとの関係に似ているからである。演劇の起源は葬儀と葬送にあったと、わたくしは確信している。
 同様の過程が、見送る側の喪主から見れば、未完に終わった一個の実存としての死者の生を生き切ると云う行為において、憑依の現象となって現れる。喪主の定義とは憑依されたものと云う意味である。ここに不全の生があって、荒魂となった死者を死後の世界に放逐することを古代の日本人は忌んだ。非常に危険な行為であるが、死者の死を荒魂から解放させるために、弔い主は荒魂を自らに憑依させ、第一段階においては、死者を荒魂から解放する。第二段階においては、自らに憑依した荒魂を自らの実存的な行為のなかで浄化し、和魂に転位、転生させることによって、死者の最終的な成仏は完結するのである。殯の期間が十数年をも超える複数年間に及び、何時とは定めなき未完の祭祀と儀式であるのには理由があったのである。
 ただ憑依と云う行為が、大変危険な行為であることも事実である。例えば三島由紀夫は、2・26や5・15の死者たちが英霊としては祀られていいないと云う、荒魂の状態から彼らを開放すべく、自らに事態を憑依として受け止めたのである。死せる将校たちの荒魂は和魂となりえたのかどうか、わたくしは確信が持てない。荒魂を自らの身体に憑依を受け、和魂となるべく三島の営為は果たされたのか。市谷でのバルコニーでの風景を思い起こすにしても、三島の企てが成功したとは思えないのである。
 にもかかわらず、三島の試みが古来の日本人の死生観を体現したものであったことは間違いのないことである。
 
 父の死から十年以上が過ぎた。その間に母をも失った。平和で泰平な世の中なのに両親の死は、傍目は知らずわたくしの眼には尋常ならざるものがあった。尋常ならざると云う意味には二つあって、一方は、当事者に固有の出来事だから、尋常とは感受せられ得ないと云う当たり前の理由が一方にある。もう一つの理由は、日本人の死は、シートン動物記のように、荒野に呼ばうる物の死で終わると云う、深い感慨と云うか無常の想いである。
 その死が与える悲しみと痛手は、あらゆる世俗の宗教がよく癒しうるところではない。かといって柳田が先述の書で語ったように、常民の神話で全てが語りつくせると云う気もしない。なぜなら実存としての各々にとっての死は、常民の概念とは背馳した、よりそれぞれの実存に直面した、個性的なものがあるからである。
 むかしむかしの大昔においては、日本の伝統社会において、専門職としての神主などはいなくて、当番制の選ばれた戸主が一定の期間、行事に先立って精進潔斎して、”憑依”に似た経験を受けた。先に、わたくしは葬儀における喪主とは、憑依を受けたものの意味であると定義したが、ここに日本人の死生観の起源があった。憑依を受けたものの定義は、専門職としての神官や僧や司祭の対極にあるものなのであった。
 わたくしの日本人の死生観の根源を訪ねる旅路は、喪を司るものとしての、憑依を受けたものと云う、何とも不確かな頼りなき未明の、死生観の黄昏の荒野に行きつくばかりであった。その細き廃道にも似た実存の杣道を誰かに薦めえるかと問われたならば、自分の内部に確かな応えは見いだせないのであった。この道が行き止まりの道であり、一代限りの道程になることもまた、朧気ながら理解しているところでもあった。しかしその道は廃された道でありながらかって誰かが歩んだ形跡を留める懐かしい道でもあり、神や神々よりももっと古い、古を復興しつつあると云う一刻一刻が、なんと新鮮で局在的で臨場感に溢れ、一度ならず、二度まで三度までも、神ならぬ、碧の命の洗礼を面にあびる春雨の旅であったことか。
 
 祖国の、まんなかで目覚めつつあるという意識は強い。した、した、した、・・・・・。