アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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西洋舞台演劇史素描・5   アリアドネ・アーカイブスより

西洋舞台演劇史素描・5

2011-08-01 22:27:30

テーマ:映画と演劇

愛のシェイクスピア(2)

 

今回は舞台芸術の在り方について世田谷パブリックシアターにおける舞台と観客席の可変的な関係は示唆を与えるものであった。当該劇場におけるシェイクスピアの喜劇”十二夜”の上演の必然性について考えさせる機会を与えられ、さらにシェイクスピア劇における人間像、――とりわけ喜劇における忍従する高貴な女性像とも云うべきシェイクスピア固有の人間像の創出、許しをテーマとする彼の人間賛歌についても再認識させる機会を得ることが出来た。この項の締めくくりとして、シェイクスピア喜劇においてしばしば現れる彼の常套手段、女性が男性に変装することの意味について考えてみることでシェイクスピアについての考察を終わることにしたい。

 

 一番有名な例は、”ベニスの商人”におけるポーシャの役割では無いだろうか。親友の窮状を救うために借金の肩代わりをし、結果的に担保の肩代わりに生命まで脅かされるに至るアントニオの苦境を救うために男装して颯爽と裁判官の役を演じ悪役シャイロックを追い詰めるポーシャの爽やかさは印象に残る。とりわけ舞台においては男装の女性ということで勇ましいだけでなくほのかな色気と華やぎをこの劇に与えている。

さて、ヒロインの男装することの意義が際立つのは”十二夜”ほかの喜劇においてであろう。思い出すだけでも”十二夜”における バイオラの一途さ、”冬物語”における王妃ハーマイオネの忍従と揺らぐことなき高貴さ、”ヴェローナの二紳士”における男の手前勝手さに翻弄されるジューリアの豊かな感性と理知との間を揺れる乙女像など、枚挙に暇がない。

確かにシェイクスピアのシチュエーションにおいては苦境に置かれた女性が旅に出て男装せざるをえないと言うことは古い昔むかしの中世という時代ならではの必然性を感じさせる。また、男装された女性像には凛々しいというだけの男性像には無い、華やかさを舞台に刻印することが出来るといいう意味でも効果的であったことは首肯できる。しかしそれだけなのであろうか。

喜劇”十二夜”のバイオラの場合を例にとる。

 海難事故で離れ離れになった双子の兄妹、セバスチャンとバイオラがめぐり合うまでの話を縦糸に、バイオラが片思いのオーシーノ公爵と結ばれるまでを横糸として展開する華麗な紡ぎ織のようなお話である。オーシーノ公にはここ数年来思いをかけた女性がいてその名をオリービア姫と言う。姫は最愛の兄を病で亡くしてからはちょうど喪に服するようにあらゆる世俗の生活を阻み人との面会も避ける隠遁めいた生活を送っている。死者の面影に生きるというのですからどこか巫女めいたところが感じられる女性である。その女性に変わらぬ愛を奉げ拒み続けられ失意のどん底をさ迷うというのがここ数年来のオーシーノ公の役割なのである。

さて、ここのところが面白いのですがオリービアが最初に好意を抱くのはオーシーノ公ではなく、この悩み深い深窓の令嬢オリービア姫の方なのである。つまりなぜか自分と共通するところに深い同情を感じてしまう。しかし実際には人間嫌いで通っている姫の使用人として仕えることは難しくそれでやむなくオーシーノ公の小姓として仕えることを思い立ったのである。

こうしてバイオラは初めてここ数年来展開されているオーシーノ公の純愛の詳細を本人の口から聞くことになるわけであるが、ここで交わされる二入の古典的ともいえる恋愛論が実に面白い。オーシーノによれば愛とは純粋に精神的な行為であるので是は男性に固有の行為でありよもや女性には期待でき無いというのである。彼には一種の男尊女卑の考え方があるようだ。

 これに対するバイオラの答えは自分でも驚くほどの確信と自主性に満ちたものであった。人が愛するという行為には、とバイオラは云う。その愛される対象の意思表示の如何を超えた自律性があるのではないか、というのである。言いかえれば代償を求めない愛は秘められた愛としてその存在も許されるのではないのか、かかる意味において女性もまた男性に劣るものではない、と。これは考えようによっては近代以降の恋愛論の哲学的考察を先取りするものともいえる水準となっている。

バイオラは一般論に重ねるように自分自身のオーシーノ公に対する片思いを語っていたのである。ちょうと人事のように愛の普遍的な意義を論じるとき、それが同時に自分に固有な自身の心情告白にもなっていて、この時初めて自覚的な形でバイオラは愛とは何であるかを初めて理解するに至るのである。

  男装した女性が他者の恋愛相談乗りながら実は秘められた自分の思いを同時に語るという二重性は、視覚的には公爵の前で演じられる小姓としての役割と真実の女性としての目覚め始めた乙女の二重性とパラレルなのである。

この変装劇という、自らを語り語られるという二重性は、主観でも客観でもない中間的な、演劇特有のリアリティを確保している。そしてこの二重性こそある意味ではバイオラであると同時に観客でもあることに観客は気付かされるのである。

  劇中劇でこの入れ替わり劇が生じる度ごとに観客もまたバイオラと入れ替わり立ち代わりしながら自らに生じる変換劇を楽しみ、自らの内面を省み自らの心情を吐露し自らを批評する。劇中人物の中に生じた内面と外面、男性と女性の変換劇は、同時に舞台と観客の絶対的に固定的な関係をも解きほぐしてしまうのである。

  シェイクスピアの喜劇においては、近代演劇では考えられないような形でギリシア時代の円形劇場で演じられた”親密なるものとしての空間”の痕跡を再創造し、再解釈をすることを通じて演劇的空間とは何かという本源的な問いを語りかけていると思うのである。