アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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西洋舞台演劇史素描・6 アリアドネ・アーカイブスより

西洋舞台演劇史素描・6

2011-08-01 22:29:03

テーマ:映画と演劇

6.愛のモーツァルト――フランス革命期における三大オペラの意義

 

 いっけんモーツァルトのオペラと背景となった絶対王政の崩壊から国民国家創成への背景とは無関係であるように見える。事実、歴史的な経緯や実証的な背景を知らなくても十分にモーツァルトの音楽は鑑賞に堪え得る。しかし“フィガロの結婚”における伯爵とフィガロの対決、“ドン・ジョバンニ”のおける彼と二人のプリマドンナたち、あるいは従者レポレロや百姓女ツェリーナの心理的な対決の構図には当時の市民社会成立の背景、とりわけフランス革命の影がある。国民国家成立以前の当時のヨーロッパにおいては、国に対する思いが私たちのものとは随分違っていたであろうし、各国の王室は長年月に渡る婚姻関係の繰り返しによって家族もしくは親族関係にあり、ヨーロッパ史における個々の出来事は遥かに同時代的な臨場感を持って捉えられていた筈である。

 モーツァルトオペラが従来のオペラ・セリアやオペラ・ブッファの区分に満足できなかったのは、にわかに生生流転の速度を速めつつあるヨーロッパの歴史的現実を見据えながら、ある種の先入観と概念的完結性の枠に起承転結が納まるかに見える演劇的劇場の空間性に満足できなかったからである。“フィガロの結婚”において敵役アルマヴィーラ伯爵を遣り込め、モーツァルト得意の許しのテーマの変奏の元に“目出度し!”を寿いだにしても誰しもこれで無事完結した等とは思わないだろう。“ドン・ジョバンニ”においても悪者が地獄に落ちたにしても万万歳と云う訳にはいかないだろう。貴婦人アンナ・ドンナは許婚者ドン・オッターヴィオに対して一年待って欲しいと謎のような台詞を残す。皮肉な見方をすれば自分たちの欠点は全てドン・ジョバンニに押し付けて、禊払いした後のような手前勝手さが目立つ。“コシ・ファン・トゥッテ”においては閑に任せた賭けの条件としての二組の許婚者同士の交換劇が元の鞘に納まったかどうかは、このオペラを観る限りでは分からない。愛の虚構性に気付いたとき容易に修復が出来るのだろうか。むしろ嘘を誠と言いくるめて生きるほかないのだろうか、それが大人の在り方なのだとすれば、これがモーツァルトが最終的に到達した愛の思想ということになる。

 この三大オペラをもっと総括的な観点から評価すれば次のようになるだろう。

 “フィガロの結婚”はフランス革命期のヨーロッパ社会における人権と平等の観念をめぐる愛のドタバタ劇を大きなドラマの骨格としながら、傍流的な位置にある二人の人物を造形することにおいて古き時代への惜別を詠嘆的に描いた。ロジーナことアルマヴィーヴァ伯爵夫人であり、小姓のケルヴィーノである。伯爵夫人の絶望の深さは一つには家庭内のよくある愛欲のドラマを超えて、滅びゆく古い時代にも新しい時代にも場所を持ちえないものの嘆きの歌であると考えることが出来る。ロッシーニの“セビリアの理髪師”等を見るとロジーナは平民の出であり、有力な縁故関係もなく持参金もなく自らの頼りない運勢を信じて生きるほかない人間なのである。自らの才覚に眼ざめ自らの在り方を未来に投企して行けるフィガロやスザンナとは根本的に違っている。彼女の無念さは一連の喜劇の過程においてすらスザンナの如き使用人の力を借りなければ自らの地位を保全しえないと云う無念さの述懐に現れている。ヨーロッパ社会が大きな地殻変動を起こした時期における改革派貴族や知識人の基盤喪失に対応している。

 一方ケルヴィーノは稀有な無垢な天使性によって際立っている。子供のように純粋で天真爛漫であり、純粋さのゆえに聖性にまで高められた時、それは白痴にも似た生の不全性として現れる。私にはこれが音楽よりほかに才能がなく、配偶者の選択にしても経済観念にしても、あるいは世俗の大人たちとの付き合い方にしても教えて来られることなく突如として大人の世界を泳ぎ渡る羽目になったモーツァルトその人の寓意であるような気がしてならない。

 “ドン・ジョバンニ”においてはタイトルロールの主人公は、多様な副主役たちの手前勝手差を映し出す反面的な鏡の役割を果たしている。かつて夫人に対する礼節としての騎士道的愛の儀式が、ここではスキャンダルとして告発を受けるのである。

 “ドン・ジョバンニ”においては主人公のほかの二人のプリマドンナの存在に注目していただきたい。ドンナ・アンナとドンナ・エルヴィーラである。前者において卓越しているのは観念や規範としての愛である。ドンナ・アンナの抽象的な概念を好む性癖は父親の死を境に復讐と云う規範性へと高まる。愛の対象性あるいは対象的な愛が先験性として彼女の行動を規制する。愛の自律性の哲学はあらゆる世俗的な事どもを二次的な事象へと貶める。中世ならば神と云っていたものが彼女の場合は神なき時代の神学となる。

 神なき時代の神学は資本主義社会時代の巫女となる。黒づくめの修道女風の禁欲は何時種の聖なるものの外観を与えるが、彼女の崇拝するものは神ではなく資本主義の物神である。資本主義に規定されたあり方が彼女に神秘な外見を与え、それがオッターヴィオには決して追いつけぬ愛の純粋さの証となる。マルクスが指摘したように、愛の神聖さがここではグロテスクなまでの物神へと変容を遂げるのである。

 もう一人の人物像、ドンナ・エルヴィーラとは何だろうか。ドンナ・アンナが近代人の自律的な愛を象徴しているとすれば、彼女は古風な中世的な愛を象徴しているかのごとくである。彼女は憎しみと許しの両極を激しく振幅する。そんな彼女が修道女として神への無私なる愛に目覚めるのは、彼女の聖性が観客の前で徹底的に汚されてからである。純愛が観客の前でこれほど汚されたことはなかった。 資本主義社会が一面では聖性をイデオロギーとして利用しながら、あらゆる諸価値を地上に引きずり降ろさずにはいられない物神の嫉妬深き性格をみるようである。

 

 モーツァルトオペラの最高峰“コシ・ファン・トゥッテ”において彼はは全く違った世界を開く。6人の登場人物の多様にして自在な組み合わせからなるこのオペラは、アンサンブルのオペラとも云われる。アンサンブルと云う音楽形式がここでは二つの意味を持っている。一つはオペラの表現形式でのアンサンブルである。ソプラノ二名とメゾソプラノテノールバリトンとバスからなる音程を異にした多彩な重唱の響きはモーツァルトらしい透明な美しさに満ちているとは一応云える。しかし音楽が美しくあるとき現実は滑稽であり、音楽の響きが純粋である時なにゆえが現実は残酷である。言葉と音楽が成す非対象の美はかつて存在もせず存在したこともなかったこの世ならぬ劇的な空間を成立させるのである。つまりアンサンブルと云う音楽形式が単なる音楽の技法であることを超えて、現実と音楽の間にももう一つの非対象の美、つまりアンサンブルの形式を成立させるのである。

 “コシ・ファン・トゥッテ”が表現した非対象性の美とは人類が今まで知らなかった美、20世紀と云う大量破壊と大量殺戮の時代における芸術の運命を予告する音楽なのであった。後にドイツの亡命哲学者アドルノは“アウシュヴィッツ以降に詩は可能か?”という問いの前で自問自答することになる。

 ヨーロッパの演劇空間はモーツァルトにおいて舞台芸術としての自己完結性を止揚し、その渦巻状の渦中に身を投じたのである。