クラリネット五重奏曲とアニエス・ヴァルダ アリアドネ・アーカイブスより
まずは下記に引用した<データ>を読んで頂きたい。
40年以上も前に見た映画が記憶の底から蘇る。
印象派ルノワール風の映像美と、モーツアルト音楽の残酷な関係。
<データ> 映画批評空間より引用
幸福〈しあわせ〉 (1965/仏)
Le Bonheur
Happiness
[Drama]
製作 マグ・ボダール
監督 アニエス・ヴァルダ
脚本 アニエス・ヴァルダ
撮影 ジャン・ラビエ / クロード・ボーソレイユ
美術 ユベール・モンループ
音楽 ジャン・ミシェル・ドゥファイ
衣装 クロード・フランソワ
出演 ジャン・クロード・ドルオー / クレール・ドルオー / オリヴィエ・ドルオー / サンドリーヌ・ドルオー / マリー・フランス・ボワイエ
あらすじ 日曜日、小さな子供二人を車に乗せて森へピクニックに行く、絵に描いたように幸福な若い家族。子供たちを遊ばせ、若い夫婦は木陰で身を寄せあって午睡する。男は妻と子供を愛している、妻は男と子供を愛している。水辺を歩き、花を摘む。叔父や兄の家族との関係も円満で、たびたび和やかに一緒に食事をする。仕事は順調、二人とも働き盛りだ。花嫁、新しい家族、地縁血縁サークルの中の誰もがとても幸福で平穏な生活を送っている。
この映画を新宿のATGアートシアターギルドで見たのは二十歳前だったと思う。
芸術的感性というものは不思議なものである種の先験性を備えているものである。形象的認識としては、人生のなんたるかを未だ知らざる存在であるにもかかわらず、この映画の美しさと残酷さを十分知的には理解できる。それが芸術の力というものだ。
自慢をしているのではない。四十数年後、今度は自らの人生を生き終えてこの映画がどのように回想されたか。もはや記憶を再現するのは定かというわけにはいかぬが、この絵のような家族風景の中に一人の女性が絡む。一つの幸せにもう一つの幸せが加わったとしても不都合があるだろうか、と男は考える。こうして日常的時間は非日常的な危うさを秘めながら淡々と流れる。ここには人間の如何なる苦悩もあからさまには描かれない。そして映画は冒頭のピクニックの場面の再現に移行する。通常の音楽のエンディングがそうであるように、主導部と第一主題が戻ってくる。
ルノワール風の印象派の構図とモーツアルトの憂いを秘めたクラリネット五重奏曲の競演。なにも変らぬ、幸せの風景。一字一句再現された映画冒頭の場面。時間の経過は家庭の主婦の運命にささやかな変更をもたらしたように、幸せの中心があの二番目の女性に変わっていた。つまり家族の幸せという存在が取り換えの利くものだと言っているのだ、一人の人間の存在を、存在のかけがえのなさを無視して!
なぜ、モーツアルトの音楽でなければならなかったのか。
この映画は、”コシ・ファン・トゥッテ”への追憶、一つの回想だったのである。
40年以上も前に見た映画が記憶の底から蘇る。
印象派ルノワール風の映像美と、モーツアルト音楽の残酷な関係。
<データ> 映画批評空間より引用
幸福〈しあわせ〉 (1965/仏)
Le Bonheur
Happiness
[Drama]
製作 マグ・ボダール
監督 アニエス・ヴァルダ
脚本 アニエス・ヴァルダ
撮影 ジャン・ラビエ / クロード・ボーソレイユ
美術 ユベール・モンループ
音楽 ジャン・ミシェル・ドゥファイ
衣装 クロード・フランソワ
出演 ジャン・クロード・ドルオー / クレール・ドルオー / オリヴィエ・ドルオー / サンドリーヌ・ドルオー / マリー・フランス・ボワイエ
あらすじ 日曜日、小さな子供二人を車に乗せて森へピクニックに行く、絵に描いたように幸福な若い家族。子供たちを遊ばせ、若い夫婦は木陰で身を寄せあって午睡する。男は妻と子供を愛している、妻は男と子供を愛している。水辺を歩き、花を摘む。叔父や兄の家族との関係も円満で、たびたび和やかに一緒に食事をする。仕事は順調、二人とも働き盛りだ。花嫁、新しい家族、地縁血縁サークルの中の誰もがとても幸福で平穏な生活を送っている。
この映画を新宿のATGアートシアターギルドで見たのは二十歳前だったと思う。
芸術的感性というものは不思議なものである種の先験性を備えているものである。形象的認識としては、人生のなんたるかを未だ知らざる存在であるにもかかわらず、この映画の美しさと残酷さを十分知的には理解できる。それが芸術の力というものだ。
自慢をしているのではない。四十数年後、今度は自らの人生を生き終えてこの映画がどのように回想されたか。もはや記憶を再現するのは定かというわけにはいかぬが、この絵のような家族風景の中に一人の女性が絡む。一つの幸せにもう一つの幸せが加わったとしても不都合があるだろうか、と男は考える。こうして日常的時間は非日常的な危うさを秘めながら淡々と流れる。ここには人間の如何なる苦悩もあからさまには描かれない。そして映画は冒頭のピクニックの場面の再現に移行する。通常の音楽のエンディングがそうであるように、主導部と第一主題が戻ってくる。
ルノワール風の印象派の構図とモーツアルトの憂いを秘めたクラリネット五重奏曲の競演。なにも変らぬ、幸せの風景。一字一句再現された映画冒頭の場面。時間の経過は家庭の主婦の運命にささやかな変更をもたらしたように、幸せの中心があの二番目の女性に変わっていた。つまり家族の幸せという存在が取り換えの利くものだと言っているのだ、一人の人間の存在を、存在のかけがえのなさを無視して!
なぜ、モーツアルトの音楽でなければならなかったのか。
この映画は、”コシ・ファン・トゥッテ”への追憶、一つの回想だったのである。