アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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フランス映画の素晴らしさ――芸術と倫理 アリアドネ・アーカイブスより

 
 フランス映画の素晴らしさと云うことになるとフランソワ・トリュフォーの幾つかの作品が思い出される。しみじみとした抒情と云う意味ではマルセル・カルネの『マンハッタンの哀愁』やロミー・シュナイダ―の『離愁』は美しすぎてかえって文字通りのフランス映画であると云う気がしない。『ジェルブールの雨傘』や『シベールの日曜日』なども美しいけれども現代の映画と云うよりも擬古典性が目立ち、もちろん映画でしか描き得ないと云う意味では疎かに出来ないけれども、ここで云うフランス映画と云う語感とは少し違う。やはり戦後のいまだ完全に安定化しているとは云えない、それでいてもはや冒険の時代は終わったかのような恒常的安定化へと向かうフランス文化の、過渡的なヌーヴェルバーグの反抗的な姿勢を仮にここではわたしのフランス映画らしさと云う風に定義しておく。
 
 そう云う意味でフランス映画を考えた場合にルイ・マル監督の1959年の『恋人たち』はいま見ても衝撃的である。あるいはいま見るからこそ衝撃的である。何が衝撃的と言って革新的な映像やいっけんアプレゲール風の人間群像が衝撃的であると云う意味ではない。むしろこれを「映画ですよ」と思わずに現実のこととして考えた場合に映画の背後に隠されたモラル感は吐き気を催すようなものであると感じる感受性を持っているのかどうかという点を問うているのである。むしろ現代の過激な色恋を描いた映画ばかりを鑑賞していると、ルイ・マルなどの映像世界の背後に秘められた倫理観の不愉快さや宗教性が目に付かないのかもしれない。それほど現代は主題を選ばずある意味での価値からの自由と解放感に満ちているとは云えるのだが、むしろこの映画が映像の言外に語る倫理観が持つ革命性が見えにくいものとなり、皮肉なことに現代の管理された性愛観を一つの参照項とする歴史的結論として在る、といったらひとは驚くだろうか。
 
 映画は家庭生活に満足できないブルジョワジーの妻が、ふとした偶然から内輪のパーティーの客となった行きずりの男と出奔してしまうとと云うシンプルなお話しである。お話しだから聞き流して良いと考えるならばその人の感性は本質的にフランス映画と云うものに不向きなのである。
 芸術鑑賞の世界に道徳観を持ちこむことはこの国の世界では禁句だが、倫理観なしにこの映画を見ると頽廃的な風俗ばかりが見えてしまう。中年男女の不適切なよろめきを描いた映画に、もしかして宗教的な殉教の世界を読みこもうとすることは途方もない妄想か言語道断の錯覚であるとひとは感じるかもしれないが、宗教を信じるとか信じないとか云う以前に”宗教性”とでも呼べそうな概念を念頭に置かないとこの映画を正しく理解することはできない。
 まずヨーロッパで云う”現世”とか”世俗”と云う意味が正しく理解されていない。この世を超えた世界があるのかどうか、それは個人の考え方の違いであると云うことも出来るが、世俗を超えた世界の存在がそれが不可視であるがゆえに信じないと云うのと、まるで存在しないものとして思惟の領域からその部分だけが脱落するのとは相当に意味がことなる。云わんとすることは両者においで同一でも、判断を下す背後の思惟の容量の大きさが余程違うのである。
 
 さて、世俗を超えるものとは聖なる領域のみではない。悪の存在もまた正常なる物の世界に対立する。この世的なものの領域を思惟するものの全体の外側に越境しようとするとき、聖なるものと悪なるものの違いは事実上見分けが付かなくなる、ここに芸術と倫理を語る場合の難しさがある。
 映画の中盤でクライマックスとも云える銀色の月光に照らされた水車小屋のほとりで人妻は自らの来たりつつある運命を予感として受け入れるのだけれども、これをカソリックの公式論から来る単なる悪なるものの誘惑なのか、それともその極北に位置する宗教駅回心、つまり愛の殉教的態度としてそれはあるのか、聖なるものと悪なるものの現前と云う二つの事態の違いを人間の実存は区別することができない。
 
 こうしたヨーロッパ社会に普遍的に内在する宗教性と云うものを前提に置かないと本当の意味でのフランス映画の美しさは理解できない。最後の場面で夜明けの簡易食堂のようなところで食事を終えて店番の少年から釣銭を受けとる場面がある。皿の中に差し出された僅かばかりの小銭を男は丁寧に拾う。この場面は既に二人の心理がバラバラであること第二に今後二人が僅かばかりの小銭をも大切にしなければならないと云う未来の生活を暗示するとともに、映像からはスクリーンの右手に消えた少年の残像を目で追う人妻のふと垣間見せた所作において、家庭生活が決して価値がないものとは考えていなかった人たちのドラマであると云うことにおいて哀切なのである。
 
 当時26歳の映画監督ルイ・マル、自分の実際の年齢よりも10歳も上の男女の機微を描いて過不足ない。これはマルが上流階級の出自であることも無関係ではないであろう。上流階級とは同時に様式として人間を描き得る場であるからだ。加えて凍りつくようなヌーヴェルバーグ風の耽美的な映像表現、しかし反面、生身の、血の出るような人間を描いたと云うことに驚かされる。ここに血の出るような人間とは、運命を自らの主体的な選択行為において選んだとき、後になって感情的な理由を云い立てないと云う意味である。あの月夜に照らされた愛が最高潮に燃え上がった場面においてすらこの人妻の述懐は、いままでの自分の人生が幸せなもので”あった”ように思えた、と云うのである。現在の幸せに繋がったあるいは現在が最高に幸せだと云っているのではない。いま人妻の感慨をとおして現在感じている愛の高揚が既に”過去形”において語られていると云うことにおいて、フランス人人妻のある種の覚悟と云うものが語られている、と云う理解が重要なのである。これはどう云ういことなのだろうか。自らの現在経験しつつある事象を既に完了した事象の全体として経験するとは、人図間の経験がディジョンの片田舎の月下の水遊びと云う冒険を超えて、文化としての様々なボヴァリー夫人以降の文化的言説としての民族の集積された経験が、個人を超えた集合的無意識としての非人称の、客観化された経験として語られているのではないのか。つまり自覚は人妻にとって中世のフレスコ画のように、召命あるいは殉教と云う形式として現れる。世俗に対する反逆性と、聖なるものの顕現を同時に読み取らないならば、この映画は日本映画にあるようなよろめきドラマに過ぎない。
 
 それゆえここから人妻が最後に見せる毅然とした態度、――あらゆる云い訳や申し開きの可能性を前もって断念する態度も出てくるのではないのか、――あの時はああだったとか、恋の盲目性や衝撃性、情熱的かつ熱情的な感情の高ぶりの所為にしない、偶然性や情念などと云う理性を超えたものを云いわけの理由として使わない、このような潔さと厳しさとをひとは倫理ではない他の如何なる言葉によって代用できると云うのだろうか。