アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

クリント・イーストウッドの”硫黄島プロジェクト”について アリアドネ・アーカイブスより

 
最初に”硫黄島からの手紙”を見たのが06年で、このたび”父親たちの星条旗”をみて、話題になった連作をようやく通して考えることが可能となった。

父親たちの星条旗”は有名な硫黄島・擂鉢山の頂上に翻った星条旗を映した一枚の写真の裏側に秘められたエピソードである。物語の展開の過程で、その写真が二番目の写真であること、既に死者となっている人物が六人の名簿の中にないこと、それを一人の衛生兵であったドクの観点から描かれる。特に英雄的な行為をしたわけでもないのにたまたま写真に写っていたがために英雄とされ、国策の犠牲になっていくネイチュア・マイノリティの悲哀をアイラという青年をとおして、さらにその中間にあって均的な米国従軍戦士をレイニーという青年を通して描いている。

この連作を政治的な現代劇としているのは、9・11以降右傾化したアメリカ世論と、加担したイラン・アフガン戦争への見通しのない厭戦気分を背景に、ブッシュ政権の末期に発表されたことであろう。象徴的にはこの一枚が戦局を決定したように、イラク戦争を収束させたのも、一枚の写真――捕虜収容所における、米兵による捕虜虐待という一場の映像であった。

硫黄島からの手紙”においても”父親たちの星条旗”においても、青年たちが何のために命を落としたのかということが、強いメッセージとして伝わってくる。前者は国家という名の共同幻想への玉砕を強いられた極限状況にある人間にとって、人は如何なる名義の元に死にゆくのかということを、後者は生き残った者にとっての戦後の長い時間の意味を問うている。

靖国問題ですり抜けられている問題は、戦争体験そのものの妥当性の意味だけではなく、戦中体験の戦後的意味を、戦後の時間家庭の中で真に問われたことはあるのか、という点である。

自分が助けようとしても助けることができなかったイギ―という名を通して戦後を生きた元衛生兵ドクの独白を通して、イギ―は死んだことを今際の際の父親に告げる息子。そして戦後自分が探していたものはイギ―という幻ではなく、おろそかにしてきた戦後の時間であり、息子たちの時間であったことを告げて、映画我終わる。

この映画を見終わって感じるのは――人は何のために死ぬのか。それは国家幻想のためではない。具体的な一人称の”わたし”と二人称の”あなた”の関係を超えるものはあるのか、という根本的な問いなのである。そしてこの”わたし”と”あなた”の関係をイーストウッドは日本とアメリカの関係に読み込もうとしたのである、ひとつの終わることのない祈念として。