アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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草の戸も住替る代ぞひなの家 アリアドネ・アーカイブスより

草の戸も住替る代ぞひなの家

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月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置。
 
 芭蕉の、奥の細道には様々な動機がある。穿った意見のひとつは、当時、俳諧と云う技芸は依然として上方に中心と伝統があり、江戸文化のある意味での創設者でもあり象徴的人物でもあった松尾芭蕉が、江戸が江戸であることの由縁を全国に知らしめるための、キャンペーン活動でもあったと云うものである。実際にドン・キホーテよろしく曽良を従えた芭蕉が赴く、奥州と日本海の津々浦々を練り歩きながら開催される、大名行列を彷彿とさせる句会、盛大にして豪華な歓迎の催しと宴に関する記述は、戦後天皇の地方巡幸を思わせながら、執政官の地方行脚の叙勲の儀式であり、もっと言えばカトリシズムにおける聖餐の典礼の等価性をこそ偲ばせるものであり、凡そ、俳諧の美学、侘びや寂び、と云った貧乏人の美学とは次元を異にしていただろう。それに当時は、老人になるとは、現代の若者中心の一元的な文化観とは異なって、老人ぶること、老成のスタイルを若くして身に着けることがダンディの証であったのかもしれない。松尾芭蕉は、ファッションとしてのダンディズムを諸国行脚を通じて見せつけたのである。だから、奥の細道は侘び寂びを装って、いっけん都を離れて鄙(ひな)に行くと見せながら、最終的な到着地点はめぐり廻って、彼が己の権威を最も見せつけたかった場所、 ――京、浪速の上方でなければならなかったのだろう。芭蕉、反転して南下せりの報は、かっての木曽義仲や奥州北畠顕家の一歩一歩と迫ってくる軍勢を、尾張を経て近江路の志賀の唐崎をめがけて北上する行程はかっての壬申の乱時の大海人皇子を懐古的に回想するものを,たんなる諧謔としてではあるが、往還する日本歴史の事象を脳裏に去来させていたのではないのか。松尾芭蕉とは気概としては武人なのである。
 奥の細道は、個人的な事業と云うよりは、江戸俳諧あるいは芭蕉宗門の総檀家を挙げての大デモンストレーションなのであった。武蔵野の道のなお奥つ方の津々浦々、山村僻地にありながら同時に当時日本の最先端の文化にも触れると云う気持ちは一個の気概として地方の名士や有徳人たちの虚栄心を満足させたに違いない。もちろん芭蕉俳諧とはこれだけのものではないだろうけれども、奥の細道がなまぐさき書物であることは当時に於いても天下の公然の秘密であったのだろう。生臭いだけでなくそれが野暮と野卑の一歩手前で反転する、裏地様の美しさこそ江戸前というようなものでもあったのだろう。千利休が欠けた茶碗や歪んだ茶碗に独特の美を見出したように、王朝の美を脱色させて透けた裏地を透かして現実と非現実を見ると云うアクロバットのようなひねこびた換骨奪胎、ある種の技術主義と倒錯性においてこそ上方とは異なった江戸俳諧の一期の美を、一期の画期として愚かにも誇らしく宣揚したかったのであろう。
 
 
 芭蕉が長年住み慣れた墨田の畔の住居を退いて旅に出たのはいまごろのことなのだろうか、旧暦で記されているの実際はでもう少し後と云うことになるのだろう。
 それにしても、住み替わる代ぞひなの家、とは良く詠んだものである。
 もうかなり昔、伊賀の上野に芭蕉の生家を訪ねた折にそのほの暗き小さき家に射す小さな土間の温もりに言い知れぬ感慨を抱いたものであった。芭蕉の故郷に対する思いは並々ならぬものがあって、生涯独身を通した彼には故郷(ふるさとの鄙)もまた雛(ひな)の家もまた、この世では彼には願っても決して恵み与えられないもの、ふたつ、であった。この句には雛と鄙が響きあっていて譬えようもなく美しい。美しいと云うよりも、こころが赤く朱に染まって痛くなるようなしみじみとした名句であると思う。
 
草の戸も住替る代ぞひなの家