アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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フランス映画”青い麦”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
こうゆう青春ものを私はそれに相応しい年代にほとんど読んでいない。今回この映画を見るために多少調べたら、コレット50歳すぎの作品らしい。それで劇中、有閑婦人カミ―ユ・ダルレーが抒情的に描かれているわけだと思った。

下記に、”青い麦”とコレットについて辛口の批評があるので紹介しておく。引用は”読書の森”という文学系のブログである。同性であればこんなにも意地悪く読めるのかと感心した。

私は原作を読んでいないので映画を見た範囲での話なのだが、クロード・オータン・ララと言う人は、いかにもフランス映画らしい映画に仕立てた。映画の仕上がりは思春期を描いたものなのか、有閑婦人のひと夏の憂愁を描いたものか分からなくなるほどである。

わたしはむしろこの映画に、モーツァルトのオペラ”フィガロの結婚”やリヒャルト・シュトラウスの”薔薇の騎士”に面々と受け継がれたロココ風・宮廷的恋愛のはるかなる回顧を感じる。勿論、時は現代である。第二次大戦を経験して、ロココ風などと気取ることは誰にも出来はしない。婦人の出自を映画は描いていないが、ちゃんとした社会的階層に属する人ではあるまい。そうしてこうした階層のボーダーにいる人間であるからこそ、一夏の時間への惜別をかくも感傷的に、かくも懐古的に描きえたのである。

誰もが言っていることだが、有閑婦人カミ―ユを演じたエドヴィージュ・フィエールの悠々と迫らぬ気品と貫録はどうしたものだろうか。最後の時への告別を告げる焦点を失った遙かにさまようような眼差しが実に良い。映画ではこの後二度と姿を見せず、引っ越し後の不在感としてのみ表現されるのが、だらだらと感傷をあおるよりは清い。

思春期とは、精神的なものと物質的なものの不安定さゆえに愛の保障というものを欠く。映画の中で21歳になる”五年後”が繰り返し語られるのだが、そのことに何の保証もあるわけではない。すべてがおままごとめいた観念性の中を通過する。しかし肉体は違う。肉体の身は自分でも知らないうちに成長を遂げていくものである。ここに思春期者の残虐性がある。

思春期というものがそのような限界を持つものならば、この映画をみてつくづく感じたのは、純粋さとは青春期に固有のものではないのではないのか、ということだった。自分自身を社会的階層のボーダーの外に置き、ある種の断念の上にこそ愛を定義づけたカミ―ユの中にこそ愛の二元性を超えた純粋さを感じてしまうのは深読みというものであろうか。

青い麦/LE BLE EN HERBE
   1953年・フランス映画

監督:クロード・オータン=ララ 原作:コレット 脚本:クロード・オータン=ララジャン・オーランシュピエール・ボスト 撮影:ロベール・ルフェーヴル 音楽:ルネ・クロエレック 出演:エドウィジュ・フィエール、ピエール=ミシェル・ベック、ニコール・ベルジェ、ジョジアーヌ・ルコント、ルイ・ド・フュネス

以下は、ブログ”文学の森”からの引用です。

ガブリエル=シドニーコレット(1873~1954)は、多才な女性です。作家としてばかりでなく、戯曲家として、詩人として、随筆家として、音楽・演劇評論家として、ジャーナリストとして、そして舞台女優としても名を成しており、1953年には勲二等レジオン・ド・ヌール勲章を授与されています。また、1954年に亡くなった時、母国フランスは国葬を以って、その功労に報いました。彼女こそは、現代の女性作家として、最高の名誉を担った女性であると言えましょう。

 この「青い麦」は、「シェリー」(1920)や「クローディーヌの家」(1922)のような、彼女の代表作と言われるほどの傑作ではありませんが、その後を受けて1923年に出版された、彼女の円熟期の作品です。南仏の海辺の町を舞台に、思春期の少年と少女の、不安定で傷つきやすい心理と愛の芽生えを、女性らしい繊細な感覚で描き出したこの秀作は、みずみずしい青春期の息吹に満ちあふれています。


<ストーリー>
 幼馴染で、両親が友人同士であるフィリップ(16歳)とヴァンカ(15歳)は、毎年夏のバカンスを、それぞれの家族とともに、海辺の町カンカールで過ごしている。互いを異性としてまぶしく意識し始めながらも、フィルは少年らしい尊大さと自意識過剰から、ヴァンカは少女期の不安定な頑なさから、もう一歩を踏み出すことができない。しかし、「その時」を待つことを知っているヴァンカに比べて、自己の内側から湧き上がるものを抑え切れないフィルは、ともすれば苛立って、ヴァンカに当たってしまう。
 そんなある日、フィルは美貌の女性カミーユ・ダルレーと出会う。世故に長けたコケティッシュな魅力を持つダルレー夫人は、フィルの若さと美しさに目を止め、ひと夏のアヴァンチュールの相手として彼を誘う。純情なフィルは、この誘惑を拒むことができず、彼女の許へ通い詰め、連夜のように肉体を重ねる。
 性的な欲望と好奇心は満たされたものの、フィルはヴァンカへの罪悪感に苛まれ、深く悩むようになる。しかし、ダルレー夫人にとって自分が玩具に過ぎないことを知っても、彼はなかなか未練を断ち切ることができなかった。
 そして、夏の終わり。ダルレー夫人は去り、ほっとしたのも束の間、フィルは、ヴァンカが自分とダルレー夫人とのことに気づいていたことを知る。強い言葉でなじるヴァンカに、なすすべもなく俯くフィル。そして二人は・・・。


 ストーリーとしては、ありがちなもので、特に目新しいところはありません。「愛」というテーマも、現代の小説ではありふれています。しかしこの作品には、他の作品にはない、優れたものがあります。
 一つ目は、リアルで美しく、色彩感にあふれた風景描写です。コレットは、英仏海峡に面した海辺の小さな町、ロズヴァンに別荘を持っており、ここで見聞きしたものが描写をする上で役立っていることは、紛れもありません。
 けれども、その写実的でありながら幻想的な魅力を持った描写力は、彼女だけのものです。しかもその描写を、彼女は心理描写のツールとしても使っており、それがこの物語に、官能的でありながら、大らかな雰囲気を与えています。コレットの文学の特徴は、正にここにあると言えましょう。
 二つ目は、思春期の少女の複雑な心理を、余すところなくリアルに描き出していることです。うつろいやすい気分。秘めた想いと裏腹の強い態度。年上の女性に対する敵意とライバル心。押し殺した怒りと悩み。愛を交わすことへの怯え。そして、愛する人と結ばれた後の、別人のような振る舞い。まさに、女性ならではの筆致で、コレットはそれらを鮮やかに描き出していきます。それは、時に矛盾に満ち、極めて感覚的・情緒的なものではありますが、自由奔放に振舞うヴァンカには、同性である女性の共感を呼ぶところが多々あるのでしょう。コレットの読者の大多数は女性ですが、それもなるほどと頷けます。
 この二つの特徴により、この作品は代表的なフランス文学として、今でも版を重ねているのです。風景描写と少女の心理描写。これだけでも、私はこの作品を読む価値があると思います。

 しかし、この作品には、大きな欠点があります。それは、男性の読者なら、一読してすぐに気づくものであり、ハーレクインやレディコミなどでも、あまりにしばしば見られるものです。
 それは、少年フィルの心理描写にリアリティがないということです。
 この物語の中に出てくるフィルは、ダルレー夫人と肉体関係になる前から、常にヴァンカに対して「腰が引けて」います。彼女の前では反応も行動も鈍く、えびの血を見ることすら怖がり、そのくせ見栄っ張りでわがままで、想像だけをたくましくしているといった状況。そして、夫人とセックスをしても、快感より先にヴァンカに対する罪悪感を感じ、彼女にそれがバレないかと、ひたすらおずおずしています。一体、こんな『少年』が、100人中何人いるでしょうか。1人いれば良い方だと、私は思います。
 女性の方は、子供の頃、男の子にスカートめくりをされたり、髪の毛を引っ張られたりしたことはないでしょうか。あるいは、体育を見学している際、男の子にからかわれたことはないでしょうか。
 それが思春期の男の子です。
 もうひとつ。女性の身体を知った少年は、大抵がある種の『自信』を持ちます。それは、男を知った少女の比ではありません。ヴァンカに対しても、フィルは当然そうなるはずですし、相手に対してその『優位』を認めるよう求めるでしょう。そしてそれを鼻持ちならないものと感じ、許せないと思えば、ヴァンカはフィルと別れることになりますし、逆にフィルを取り戻したいと思ったら、それなりの反応をするでしょう。
 ところが、ここに出てくるフィルは、浮気を見つかった中年のダメ亭主のようです。ひたすら見当違いのことを悩み、ヴァンカの顔色を伺ってビクビクしています。そして、最後に彼女が彼を受け入れても、なお自信喪失して落ち込むのです。
 はっきり言って、こんな男は滅多にいません。十八禁ギャルゲーでは、男性の都合の良い女の子ばかりが揃えられていますが、これはその逆です。

 これは、作者コレットの男性体験にも、大きな原因があると思われます。
 父親ジュールに商才がなく、妻の財産をたちまち費消してしまい、コレットが17歳の時に、一家が破産してしまったこと。彼女自身、3度の結婚をしているものの、最初の夫・アンリとも2番目の夫・ジュヴネル男爵とも浮気が原因で別れていること。これらが、彼女の男性観に多大な影響を与えたことは否めません。
 50歳になるレアが、17歳の少年をジゴロとして愛する「シェリー」。レアから離れ、結婚したものの、レアとの肉欲に明け暮れる日々が忘れられず、破滅していくシェリーを描いた「シェリーの最後」。タイピストに浮気する夫に苦悩しながらも、異常な妻妾同居生活を受け入れる人妻ファニーの心理を描いた「第二の女」。夫婦生活に満たされない妻カミーユが、夫の可愛がる牝猫に嫉妬し、虐待することから、夫婦間の溝がさらに深まる「牝猫」。妻アリスの昔の恋人からのラブレターを見つけ、苦悩した挙句、自殺してしまう夫ミッシェルを描いた「言い合い」。
 彼女の作品の多くには、彼女と破綻した結婚生活の影が色濃く投影されており、登場する男性キャラクターにも、その影響が如実に表れています。

 この作品は、女性が読んで共感を感じ、満足感を得られるという点では、ハーレクインロマンスやシルエットロマンスに似たものであると言えましょう。男性が読んでも、恐らく面白さを感じられないのではないでしょうか。
 以上の理由から、私はこの作品を、女性限定でお勧めしたいと思います。