アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

あさま山荘事件と遠藤周作”沈黙”について アリアドネ・アーカイブスより

 
蓮さん久しぶりですね。
九鬼の”いきの構造”を読み、映画”近松物語”の感想を書いています。蓮さんの言うとおり彼らは愛の殉教者でした。刑場に向かう二人の晴れやかな表情を捉えた溝口のカメラワークが冴えています。

さて、浅間山荘事件の意義は、所詮西欧の思想や形而上学は日本には根付かないとする丸山真男以降の我が国の知識人の射程をすり抜けるものがあります。
この時代のもう一つの反作用は三島事件であり、一般化された形では意外にも遠藤周作の”沈黙”に注目する必要があるのです。

丸山の普遍主義の対極性として登場した”沈黙”。日本の特殊性に立脚した60年代の思想――たとえば吉本隆明の大衆の原像論や、江藤淳漱石小林秀雄流のリアリズムを援用した生活者論等、当時の日本的ラジカリズムと対比するとよくわかるのです。

結論は、よくもマルク主主義に偽装したキリスト教が当時の青年たちをかくまでもたぶらかしたか、という事実なのです。この事件を防ぎえなかったことの中に、当時の日本的思潮の限界が露呈されているのです。

――蓮さんのブログの全文は次のとおりです。

連合赤軍が起こした、あさま山荘事件を始めとする数々の事件の内幕を、並ならぬ想像力、創造力を駆使して描ききった若松孝二という人に先ず敬意を表したい。この映画ではドキュメンタリーとフィクションが仕合せな結合を果たしている。
  あさま山荘での銃撃戦の場面は事件発生当時その外部からの実況をテレビで観ていて、山荘の内部はこうだったのかと、半分は確かめるような気持ちで比較的、冷静に観ることができたが、新聞、テレビのニュースでしか知らなかった、アジトでの仲間殺しの場面には衝撃を受けた。
  絶対的な劣勢の下、権力に追い詰められても、革命の夢を見続けるためには、仲間殺しが必要だったことを、若松孝二のメガホンが訴える。しかし、それは彼ら過激派と呼ばれる若者たちのアジテーションのような、ひとりよがりで、声高な問答無用の叫び声ではない。そのような若者の叫び声を潜り抜け、彼らの精神に想像力と創造力を持って迫って行き、彼らのひとりひとりの声なき声に耳を傾けた若松孝二自身が発する苦悩と哀しみに満ちた声だ。

  190分という長時間のこの映画を今回、二度観たが、ちっとも長いと感じさせられなかった。画面に釘付けにされ、身じろぎもしなかった。観ての衝撃が大きかったせいだろう。一度目、観た夜、この映画にまつわる夢まで観てしまった。
  この映画に出てくる連合赤軍の主なメンバーはぼくよりほんの少し年上。この、あさま山荘事件を頂点とする一連の事件はぼくにとっては同時代史なのだが、この映画を観るまでは記憶の彼方に葬り去ってしまっていた。
  どのように衝撃的な事件も、それに共鳴する要素、資質を自身が備えていない場合は、時間の流れとともに忘れ去ってしまうものらしい。
  若松孝二はこの映画で、連合赤軍事件がぼくにとって、本当は簡単に忘れ去ってしまってもよいものではなかったことを、今更ながら気付かせてくれたように思う。

  監督・製作・編集:若松孝二
  音楽:ジム・オルーク
  ナレーション:原田芳雄
  2008年3月封切り