アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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オースティン映画”エマ”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
オースティン映画では、”高慢と偏見”、”何時か晴れた日に(分別と多感)”い続いて三作目となる。オースティンの小説はいかにも作者そのものを思わせる聡明な女性が出てくるが、”エマ”はその点欠点の多い世間知らずの娘の自己成長史という体裁をとっている。

裕福ではあるが父と娘の二人住まいのエマ、彼女には歳の離れた従兄のナイトリーがいるが兄弟のように育ってきたので恋の相手と意識することはなかった。美貌と才気あふれる彼女には崇拝者ハリエット・スミスという女性の崇拝者がいて、彼女は自分のことよりも彼女の婚約に気を配っている。ハリエットと牧場主マーティンとの婚約を受諾しようとするのだが、エマは階級意識ゆえにマーティンを諦めるようにハリエットを説得してしまい、そのお節介をナイトリーに叱責されてしまう。

物語の半ば頃からフランク・チャーチルという青年が登場する。彼はウエストン氏の先妻の息子で今は裕福な叔母の元で暮らしているらしい。さらに隣家の姪のフェアファクスという貧しくはないが聡明な女性が登場して、人柄、教養申し分がないのだがエマはなぜか好きになれない。実はフランクとフェアファクスは婚約していて、遺産相続のために彼は彼女との婚約を公にできない事情があったらしい。この辺のオースティンが生きた18世紀イギリスの上流階級の階級意識や利害関係を理解するのは難しい。

年若く美貌で、しかも将来多額の資産を相続する筈の貴公子としてエマは憎からず思うが、彼は彼で前期フェアファクス嬢との婚約をカムフラージュする必要があってエマに近づいて来たのだった。エマには一貫性がなく例のお節介虫がうずいて、フランクとハリエットの婚約を夢想したりするが、もとよりフランクには計算高い人間であるのでほとんど資産のないハリエットと婚約するはずがないことにも築かないほど世間知らずである。

イギリス南部の田園地帯を舞台に多彩な人物の思惑や思い違い、そして困惑を描くオースティンの描写はほとんど優雅である。とりわけ何度か紹介されるイギリス中産階級の舞踏会での風景は、貴族社会ほどの派手さはないもののそれなりに優雅である。この映画の中で、まるでルノアールを思わせる郊外のピクニックの場面の長閑さとともに本編のクライマックスを築く。

この映画の中で決しえ正面からは描かれない、身分も資産も欠いたフェアファクス嬢の苦悩と逡巡には明らかに生涯独身で過ごした作者オースティンの姿が色濃く反映されているといってよい。この映画では彼女だけが家庭教師の職を探して自立した生き方をしなければならない。彼女の才能や教養も自立して生きていかなければならないゆえに身につけた生活の手段なのである。反面、階級社会の矛盾を告発してやまない彼女の自負と葛藤は水面下に閉ざされたままである。エマは、こうした一段階級の下の女性の自立を思いやるほどの理解力も欠いているし、物語の終わりに至っても、あるいは最後まで階級の外にあるものの苦悩を理解することはないだろう。彼女が同じ環境にあるハリエットに一方的に愛を注ぐのは、彼女がフェアファクスのように知性も教養も、そして美貌も欠いているから、つまり心の安全弁として利用できるからにすぎない。

この物語はエマと彼女の属する階級と、一段下のクラスに属するハリエットやフェアファクス――つまりオースティンが属した階級――の決して解消できない階級観の上に成立している。舞踏会で誰も申し込みも受けることなくぽつねんと椅子に座っているハリエットを踊りに差をうナイトリーの行為は、却って厳然とした階級意識を前提としている。また彼の騎士的な振る舞いの惚れ直すエマの美意識や恋愛観も同様の制限された階級意識に基づいている。ただしこの時代にあっても同情が恋愛に発展することもないではなかったらしい。物語の後半はナイトリーの行為をエマが誤解し、今やハリエットが重大なライバルとなって現れたことに気も動転し、ついには意識下に秘めてきた年長の従兄、ナイトリーの存在が自分にとってどんなに重大な意味を持っているかに気付くところで、例のオースティン物語の定型、恋の告白と婚約の受託というハッピーエンドで幕となる。

オースティンの恋愛観とはつまるところ、いかなる個人的な思慕の情も、経済的な保全と安定した階級社会と社会関係という背景がなければ意味をなさないという陳腐な考えにすぎない。この陳腐さを陳腐さであるがゆえの真実を、いかなる感傷や高邁な理念性のレンズにも曇らされることなく主張し続けたリアリズムゆえに彼女は偉大なのである。彼女は物質的な利害を外して、精神的な愛が成立しうるなどと言う近代の妄想、空想に加担するようなことは一度もなかったのである。

考えてみれば、海一つ隔てたドーバーの向こうではフランス革命の嵐が吹き荒れていたはずだ。自由・民権・友愛の理念のもとに、オースティンやその一つ上の階級が抱いていた人生観や世界観、人と人との関係を築く場合の美徳や高潔さといった感情も含めて、全てがご破算になる激動期に世界史は突入していたはずである。それを知ってか知らずか緑なす南イングランドの電影風景と、戸外のピクニックに集う人々の一日は何時終わるとも知れぬ日の名残りの長閑さをとどめおいたのである。まさにオースティンの文学性会こそ、永遠という言葉がふさわしい。


goo映画による

解説・あらすじ - Emma エマ(1996)

解説
イングランドの片田舎を舞台に、恋のキューピッドを任じる世間知らずのお嬢様が巻き起こす恋の騒動を描いた人間喜劇。「いつか晴れた日に」の原作者として知られる英国の女流作家ジェーン・オースティン(1775~1817)の同名長編小説を、「ブロードウェイの銃弾」の脚本家で、本作が初監督作となるダグラス・マクグラスの脚本・監督で映画化。製作総指揮は「イングリッシュ・ペイシェント」のボブとハーヴェイのワインステイン兄弟と、ドナ・ジグリオッティ。英国はドーセット州の田園地方をとらえた美しい撮影は「あなたがいたら 少女リンダ」のイアン・ウィルソン、音楽は「3人のエンジェル」のレイチェル・ポートマン、美術は「オルランド」『プリンセス・カラブー』(V)のマイケル・ハウェルズ、衣裳は「キルトに綴る愛」のルース・マイヤーズ。チャーミングな好演を見せた主演は「セブン」「ムーンライト&バレンチノ」のグウィネス・パルトロウ。共演は「ザ・インターネット」のジェレミー・ノーザム、「ミュリエルの結婚」のトニ・コレット、「トレインスポッティング」のユアン・マクレガー、「恋の闇 愛の光」のポリー・ウォーカー、「ザ・プレイヤー」のグレタ・スカッキ、「サークル・オブ・フレンズ」のアラン・カミング、「トライアル 審判」のジュリエット・スティーヴンソンほか。

キャスト(役名)
Gwyneth Paltrow グウィネス・パルトロウ (Emma Woodhouse)
Toni Collette トニ・コレット (Harriet Smith)
Alan Cumming アラン・カミング (Mr. Elton)
Ewan McGregor ユアン・マクレガー (Frank Churchill)
Jeremy Northam ジェレミー・ノーザム (Mr. Knightley)
Polly Walker ポリー・ウォーカー (Jane Fairfax)
Greta Scacchi グレタ・スカッキ (Mrs. Weston)
スタッフ
監督
Douglas McGrath ダグラス・マクグラス
製作
Steven Haft スティーヴン・ハフト
Patrick Cassavetti パトリック・カサヴェッティ
原作
Jane Austen ジェーン・オースティン
脚本
Douglas McGrath ダグラス・マクグラス
撮影
Ian Wilson イアン・ウィルソン
音楽
Rachel Portman レイチェル・ポートマン
美術
Michael Howells マイケル・ハウエルズ
編集
Lesley Walker レスリー・ウォーカー
衣装(デザイン)
Ruth Myers ルース・マイヤーズ
エグゼクティブ・プロデューサー
Bob Weinstein ボブ・ワインスタイン
Harvey Weinstein ハーヴェイ・ワインスタイン
Donna Gigliotti ドナ・ジグリオッティ
字幕
古田由紀子 フルタユキコ