アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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鹿島茂の『失われた時を求めて』の完読を求めて〜「スワンの家の方へ」精読

 
 初めて読むプルーストの入門書というよりも、読んでみようとして挫折した経験のある読者向けの解説書、と言えばいいだろうか。
 内容が豊富なので、わたしは次の点に興味を抱いた。
 
 一番目は、同性愛の問題。生物学的、生殖学的意味を除けば、精神と肉体の関係に還元される。イデアなるものと物質・物象の関係といってもいい。この両者は、並行的、正比例の関係には必ずしもない、という点にわたしは以前より関心を抱いている。風俗としての同性愛関係については無知だし、ほとんど興味がない。
 
 二番目は、サディズムマゾヒズムの関係。誰しもにある両者の傾向、どこから来てどこにいくのかさっぱりわからない。鹿島茂の本で面白いのは、サディズムマゾヒズムの関係が端的には分けることができなくて、事情や状況によって相互に転移し返還する点にあるという指摘が面白い。
 つまり、同性愛もまた相互に転換し転移するのだから、類似の精神的構図を持つということになる。
 
 この本の特徴は、プルーストの交錯した迷宮のようなこの大著を、謎解きの探偵小説的手法を用いて、知的に、あくまで論理的に改名しようと心がけた点にある。
 印象に残ったのは、第一巻『スワンの家の方へ』の第三部「さまざまな土地の名、名前というもの」として訳した経緯を綴った部分だろう。最後のLE NOMは、定冠詞であることを根拠に、「・・・というもの」と訳した、というのですね。定冠詞を冠されているということは、NOMがここでは固有のものやこと、つまり最終的にはジルベルトという固有の女性を意味暗示している、と言うことになると言うのですね。鹿島によれば、複数ある日本語訳ではこうした事例ーー定冠詞と歩定冠詞に違いに着目して訳した事例はないのだそうです。これが三番目にわたしの印象に残ってことです。
 
 最後に、全七巻にも及ぶ大作を、最初の一巻のみに置いて「精読』!することの意義を考えると、もともとこの大著が円環構造をなしており、全体の概要を知っておればこの巻だけでも全体を展望しうる、と言う鹿島の意見なのです。それは大作を通じておきるさまざまな事象や事件がそれぞれ入れ子構造をとっており、相似関係にあることが見て取れるからです。
 
 最後に、わたしの注文を一つだけ付け加えれば、この大作における「超越的・特権的時間」のことなのです。
 鹿島は、全てを個人の意識や心理作用によって説明しうると言う考えのようですが、芸術作品というものは、最終的には人格を超え、言語自身へと回帰するものなのです。
 プルーストの物語が偉大な人間ドラマであるのは、平凡さや凡庸さと見えるものが時に、本人にも気づかれることなく、時の豊穣としてして現れる、と言う転移あるのではないかと思うのですが。
 例えばゲルマント夫人、オペラ座の観劇の場面で海底を泳ぐ華麗な水の女神たちとして描かれている有名な場面がありますが、実際はプライドだけ高い貴族社会の俗物なのですね。その俗物が改心することなく、そのままの在り方で人類的時間の偉大さを本人の意識するところを遥かに超えて顕現する、と言うイロニーがあるのです。
 同様に、語り手以上に重要な役を振られているスワン氏にしても、彼の奇妙な恋愛遍歴の終始を負いながら、苦悩する間は後期でもあれば偉大でもあったこの人物が、最後はオデットとはその程度の温案であったか、と述懐する段階で、よくある俗物へと転落するのです。つまり定冠詞と不定冠詞の違いに拘れば、固有名詞(定冠詞)から普通名詞(不定冠詞つまり任意の存在)なるものへと転落するのです。
 
 これはゲルマント夫人夫人やスワン氏と言う重要人物だけに言えることではなくて、ほんの橋役であるコタール夫人が失意のスワンとすれ違う場面でも典型的に現れています。この人の良い夫人は、実際には夫の不貞を知りません。このやがては陰りの中に消えていく橋役の一人においてすらプルーストは王冠ににも似た、特権的時間をプレゼントしているのです。