アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ゲーテの『親和力』と『若きヴェルテルの悩み』が齎したもの   アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 日常的な時間と、愛に関する時間は別の起源を持っている。
 
 『親和力』は、いわゆる二重不倫の問題、明らかに不倫の物語でありながら、それを理性的秩序のもとに偽装しようとする偽善の問題、その本音と建前の論理が我々に強いた不自然さが齎す、強いられた運命と命運の薄情流転の物語である。
 
 『親和力』は、二組の男女の間に生じた物語、神の観念に淵源する愛は、如何なる場合も俗世間の仕来りや価値観に卓越しうるのか。一組は、愛の至高性の観念ゆえに愛の論理に従おうとする。二人に悔いはないのか。もう一組の男女は、大人の常識と経験に即して愛を抑制しようとする。結果は、四人ともどもが悲劇的な死か、この上ない不幸と挫折感のなかで生涯を終えることになる。
 
 その不幸の象徴が、不手際から水死させられる、愛の結晶たる、赤子の事件である。
 この事件を神秘的な啓示として、一方の乙女は自らを絶食状態に追い込み、自己処罰としての理性的な「即身成仏」を図る。
 
 相思相愛と思われていた、自由意思による自由恋愛の内容もまた、突き詰めて考えてみれば、愛の超越性とは、この世で物象化する術もなく、愛は炎のように、この世の理性や秩序を焼き尽くす。伝統的な姑息因循の愛だけでなく、理性的な大人の愛も、ロマンティックな自由恋愛の観念すらも!凄まじい!としか言いようがない。
 
 愛の非妥協性については、ゲーテは既に『ヴェルタ―』において語っていた。現代の大人や青年たちと違って、ヴェルタ―には人妻を愛することについての後ろめたさがまるで感じられない。なぜなら、愛とは強力な羅針盤が固有の方向を示すように、神に淵源する固有の言葉として、世俗やこの世に超越するからである。
 
 ヴェルタ―に付き纏われる、ロッテ夫妻についても、かかる観念を許容することにおいて違いはない。そこに彼らの優柔不断さがみられる。神によって課せられた運命の言葉に逆らうすべはないからである。
 
 結局、他人に散々迷惑をかけておきながら、ヴェルタ―は独りよがりの愛の観念のなかに死んでいく。生き残されたもの達は、留めるすべもなく、愛の破壊力が破壊し尽くすがままを見守るしか術はない。多くの有為な青年たちがその跡を追う!
 ヴェルタ―は、賞賛されるべきか、裁かれるべきであるのだろうか。
 
 罪の子の自覚に耐えられず、自死の運命を選び取る乙女・オティーリェ、彼女には数千年の歳月の重みがもつキリスト教の教理が、すなわちアガペーとしての愛が象徴されている。彼女の衰弱死に見せかけた、神の現前での殉死は、価値ある行為と云えたのか。ゲーテの生涯をかけたキリスト教に対する果敢なる乾坤一擲の気迫にもにた挑戦的意思と、気迫をわれわれは読み取ることができる。
 
 同じく、キリスト教的な観念の前に、乃木希典のように自らが死すべき機会を、他律的に求めづづける、エドヴァルトの不決断と、他動性にこそ、ゲーテの辛辣な嘲笑をこそ、言葉の沈黙の中に我々は聴きとるべきであろう。オーティリェによって象徴されるものの一つに、ドイツ的リゴリズムの典型を、愛なきカント哲学の不毛さを暗示させていると考えても良いだろう。
 
 
 シャルロッテの理性的狡知についてはどうだろうか。愛の観念と世俗の取り決めを、相対的に相互的に尊重し、この世の次善であるべき幸せの在り方を模索し続けた人間の良識と見識を、所詮は愚かな振る舞いと断じることができるだろうか。彼女によって象徴されているのは、啓蒙主義思想のなれの果てである。ヘーゲル的な理性の狡知が嘲笑されていると考えてよいだろう。あるいはシャルロッテエドヴァルトの物語は、ドーヴァ―の海の向こうのジェイン・オースティンが織り込んだ、手工芸の至宝、『説得』の二人の”それから”に、皮肉と云うべきかそっくりなのである。イギリスの経験主義的な処す越論へのゲーテなりの批評と考えても良いだろう。
 
 残された最後の人物、”大佐”とは誰であるのか。理性の人・シャルロッテが最終的に愛する人ハムレット的優柔不断の夫に成り代わって、最終的に愛した対象。にもかかわらず、かれは不吉な運命に黙して一人淋しく舞台を去っていく。
 このような地獄絵のような世界の時間を生き延びた男にとって、さらなる別様の人生などあり得るのか。
 
 結局、『親和力』の後半に挿入される”水の洗礼”が語るような、一対の男女が自らの生命を代償に差しだした乾坤一擲の思いにも似た、水の洗礼の儀式のみが、四人の人物がそれぞれにおいて辿った、あるいは辿ることになる命運の淀みを浄化しうるのではないのか。
 『若きヴェルテルの悩み』は、単独者の実存的行為であるゆえに限界を課せられた。双方の運命が拮抗し、それが自らの意思を越えた決断として、到来する時間を”水の洗礼”として受容するもののみに、聖性としての命は与えられる、と考えるが如何なものであろうか。
 ”水の洗礼”とは、宗教以前の”自然”に帰ると云う意味である。
 
 まとめると、このようになろうか。
 『親和力』の四人の主要な登場人物たち、エドヴァルト、シャルロッテ、オーティリェ、”大佐”によって何が象徴されているのかを推測するのは必ずしも容易ではない。
 エドヴァルトには、現代文学が、主としてハムレット型の自省主義的な文学が象徴されているのだろうか。
 その妻であるシャルロッテの理性主義には、ヘーゲル風のドイツ精神の秩序志向が根付いている、と考えてよいだろう。
 彼女の姪にあたるオーティリェには、二千年に及ぶキリスト教の伝統が、――とりわけ、プロテスタント的なモチーフと、カント哲学から現代の実存主義までの、所謂ドイツ的精神の主要場面が射程に入っている、と考えてよいだろう。
 ”大佐”に代表されるのは、マックス・ウェーバーが云う現代の「魂を欠いた技術者」の問題が、すなわちあらゆる超越的価値への志向を欠いた世俗性と科学主義を、現代人の精神が象徴されている、と考えるべきか。
 
 ロココ的静謐と優雅さのなかに語たられるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『親和力と』と『ヴェルタ―』は、人類史の深層に迫る恐るべき恐怖の作品群である。

ブレヒトの『アンティゴネ』アリアドネ・アーカイブスより

ブレヒトの『アンティゴネ』

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 ソフォクレスで有名なギリシア古典悲劇のブレヒト版である。古典悲劇と相違する点は、相争うアンティゴネの二人の兄弟たちが相打ちする敵同士ではなく、奮戦してお国のために討ち死にしたものと、敵前逃亡したものとの違いとして、同じ死者の命運を歩みながら、現実の政治の場では差別的な扱いを受ける、という設定である。
 第二の違いは、コロスの扱い、劇中の人物とは独立した、ある意味では観るものの心情の自然な代理として舞台中央に迫出てくる合唱隊が、ここでは「長老たち」として、必ずしも中立的とは言えない、体制追従型の事なかれ主義者たちの群像として描かれている。
 第三の違いはアンティゴネを殉教者としては、必ずしも美化されたものとしては描かれていない点であろう。むしろ妹のイスメネの方に委曲を尽くした描写がなされ、彼女は、女であることの役割の限界ゆえに、出来ることとできないことを分別しつつ、かといって姉の直情的な心情が理解できないわけでもない揺れる気持ちのなかで、現実的に撮り得る行為としてはアンティゴネの意思に殉じると云う姿勢が、理性あるべきものとして、中庸の人物として、好意的に描かれている。この点ブレヒト劇では、単に中立的と云っても、先の長老たちの扱いとは微妙な違いを滲ませている。
 
 しかし本来アンティゴネのテーマは、人間界の事象や出来事に限らず、死者の権利とでも云うべきものを、古代の巫女の風貌と面影を伝えたアンティゴネが、世俗権力のクレオンと対峙する、と云うい意味合いであったはずだ。
 戦争にどう関わったかの違いが死者の扱いにどのような影響を与えているかと云う以前に、死者を裁くとはどういう意味を持っているのかの根源的な意味を問うているのである。
 この対立は、公の立場と竈を司る地縁・血縁の地霊神との対立であり、公の政と祀りの対立でもある。世俗権力と宗教的権威の対立、対峙でもある。
 死者は死することによって、絶対に到達する。アンティゴネの抵抗は、一人であると云えどもこの絶対を背中に背負うことによって、死者の語りを代弁し、代弁することによって総体としての生の世界に相対するものとなることになる。
  
 本来、弔うと云うことの原義はどういうことであるのか、アンティゴネは黙示のよって言外に顕された象徴的行為に於いて語る、と云う意味に於いて、ほの暗い祀りごとの人類史的起源を語っている。
 
 
 
2.アンティゴネとオイディップス
 アンティゴネはオイディップスの娘である。母と子との間に産まれた呪われた宿命の子供たちである。その結果、四人いた兄弟の二人は敵同士として合間見えて討ち死にし、いま、残された姉妹のアンティゴネの方が死の運命を選び取ろうとしている。
 スフィンクスの謎かけに始まる『オイディップス』の悲劇は、認識をめぐるドラマであった。認識をめぐる限界は、オイディップスの自らの眼を抉り取ると云う自己処罰的な行為に於いて完結する。認識を越えるものは、幻想的透視力であり、それを行為へともたらす意志の力があった。認識や行為を超えた、その先にあるものをオイディップスは語ることができない。
 翻ってアンティゴネは、妹のイスメネも言うように、女としてあるがゆえに限界ある存在である。オイディップスのような透徹した認識も、行為も意志の力も存分には振るえない。自らが主体的に選択し、意志し、行為すると云う精神の自由度を持っていないのである。
 彼女にあるのは、受容性としての愛である。死者から仮託されたものとしての、死者が死を生きると云う意味での普遍的な意思なのである。死者と云う他なるものの意思を聴くとは、何かを知るための認識ではない、また、何かを成すための行為や行動でもない、認識や行為を超えたもの、――それを到来性の言語と名付けるならば、彼女が最終的に至りついた段階とはまた、宗教が発生する段階以前の沈黙の黙示的時間なのである。
 沈黙の黙示的時間の始原性のなかで、言葉が生まれる。
 
(使用したテキスト)
ブレヒト作『アンティゴネ』 谷川道子訳 光文社文庫 2015年初版

11月のベスト10(中間) 6位から10位まで

 

 

10

 

11月のベスト5(中間)

11月のベスト5(中間)

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 漱石と鴎外について書いたものが上位に上がってきました。喜ばしいことです。

 

 

サガネスク・クァルテット・ルネサンス アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 将来おきるかも知れないフランソワーズ・サガンの文学の再評価のために、初期の四つの作品が持つ、独特の小宇宙観、――と云うか、ロマンティックでエレガンスな、サガネスク的世界の小宇宙的なまとまり、その文学的完結性について下準備としてこの論考をまとめる。
 
 『悲しみよこんにちは』は、戦後の自由恋愛とアヴァンチュールと云う風俗下の世界のなかで、自らは意識することなく、高貴に、愛のフランス的な概念ゆえに滅んでいく女性の話である。
 滅んでいったのは、スタンダールバルザック以来の愛の文学である。愛の訪れは人を至福へと誘うこともあれば、ままならぬ不如意さのなかで絶望と破滅の世界へと人を堕としこむこともある。しかしフランス文学とフランス文化――とりわけシャンソンと云う歌謡形式において変わらないのは、にもかかわらず愛なき世界は砂漠なようなものであり、たとえ個々の人生そのものには満たされることがなくても、愛の絶対性に対する信頼は、変わらない!と云うことなのである。
 『悲しみよこんにちは』の真のテーマは、セシルと云う小悪魔的な語り手の蠱惑的な魅力に禍されて見えにくくなっているが、抗うすべもなく愛の高貴さのなかに滅びの道を選んでいくアンヌと云う中年の女性である。彼女は明敏で明察な洞察力をもった知的な女性でありながら、全てを見抜いていたかにも思われて、許しのなかに死んで逝く。セシルも流石はサガンの分身だけあってそのことを意識の一端に留めはするのだが、万事都合が良ければと、安易な方の道を選んでしまう。
 彼女が滅ぼしたのは、アンヌではなく、アンヌに仮託された、古いフランス文学の伝統である。もはや小説はスタンダールのようにもバルザックのようにも語れはしない、と。
 『悲しみよこんにちは』は今日から見ると、彼女の文学宣言だったように思われる。
 
 二番目の作品『ある微笑』は、過行く時と云う無常さの概念に照らしたとき、自分にはかけがえのないと思われた一個の愛すらも、モーツァルトのワンフレーズにもしかない、と云うお話である。
 ベルトランと云う同世代のソルボンヌ風のきちんとした若い世代の風俗にも馴染めず、彼らによって代表される確からしさの風貌を確立させるかに見える戦後にも馴染めない、かといってレジスタンスの世代は遥か彼方に去ったいま、彼女の前にいかにもアンニュイで人生に枯れたと云う魅力ある中年の男性が現れる。
 二人は、愛について語られた時代はとうに過ぎたと云う認識の上にたって、無言の前提として、言わず語らず愛のアヴァンチュールを提案する。やがて季節の移ろいのようにアヴァンチュールには終わりが近づく。愛から突き放されて、初めて自分とは何だっかと彼女は自問する。そこには寂莫とした孤独があるだけだった。全てを失って孤独になって、孤独さを噛みしめて彼女は思う。孤独とはそんなに悪いことなのだろうか。むしろ孤独さのなかで自分が自分であると云う自由さの誇りを手に入れることができるのではなかろうか。
 孤独と哀切さと自由の観念は、そのときたまたまラジオから流れていたモーツァルトの自在な音楽とのあいだに微妙な協和音をサンジェルマンの空の下の刻む!わたしはひとり、一人の孤独な女である。だからと云ってそれが何だと云うのだろう。
 愛の絶対性がもはや文学のなかにしかないと観念したサガンの文学が、時の形而上学と云うべきテーマに遭遇した瞬間であった。
 
 『一年の後』の流行らない作家ベルナールが小説が
書けないのは、彼が抱いている文学観の古さにもよるだろう。彼の古臭さは同時にフランソワーズ・サガンのものでもある。
 彼は心の底ではジョゼと云う明晰な女性を愛しているのだが、二人が共有する価値観のなかでは、それは昔話の世界であり、あえて言えばもはや文学の世界のなかにしか存在しないなにかである。自分の周囲には、いまだにスタンダールバルザックの世界のように、野望を遂げるために勇猛果敢に人生と云うドラマに挑戦するものたちもいるが、とりわけ芸能やジャーナリズムの世界では。二人はそうした自分たちのまわりで演じられるドラマの生末を哀惜の念を持って、祈るように観ている。
 そうして一年がたって、自分たちの廻りにも多少の変化はあった。しかし顔ぶれにニ三の変化はあったにしても変わらないのは自分たちである。人生の傍観者たることを定められた自分たちには、永遠に、生きると云うことはあるのだろうか。
 文学と云う観念ゆえに、生きることができなくなった人たちの話である。
 
 『一年の後』のジョゼやベルナールたちとは対極にあるもの、それが『ブラームスはお好き』である。ブラームスのように愛を、音楽を信じられたらどんなに良いだろう、と云うお話である。現代の御伽話と云ってもよい。
 人生に無防備な生き方をするシモン青年は、ポールと云う中年の女性に出会う。彼女にはロジェと云う別の愛人がいるのだが、彼の純愛についつい絆されてしまう。十歳以上も若い青年に愛されれば誰しも悪い気はしないだろう。人生に疲れた中年の女の哀愁と、既に諦観と云うものを学んだ痕跡すらある青年の純情が、雨にけぶるパリのさり気ない街頭風景の中に目立たず、旅人のように、儚く消え入るようにも描かれて情緒纏綿たる余韻のようなものが香る、ブラームスの三番を聴いた後のように!
 しかし彼女の大人としての明察が別れの必然性を青年に厳かに宣告する。残酷な宣言を受けた青年は思い余って彼女の前から走り去るが、不幸に向かって走るその後姿が、まるで愛に向かって全力疾走する姿、のようにポールの眼にはには見えた、と云うのである。
 現実にはあり得ないお伽噺であることが、二人の年齢差によって暗黙の裡に語られている。シモンのマザーコンプレックスを指摘するのは容易だが、そんなことは大したことではない。ロマネスクは今日に於いてはブラームスの音楽を聴くときにしか存在しないのかもしれないのだが、絶対にないわけでもない。
 今回のマクロン夫妻にかかわるフランスの選挙結果の仔細について、彼らの純情を誰しも尋ねてみたいと思ったのだろう。日本ではまるでこの手の話を聴くことができない、なぜだろうか。
 

花を探しに・・・・・ ”秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず”――式部と潤一郎、康成そして兼好 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
 六十年代の高揚期のあとを受けて運命づけた二つの書、『源氏物語』と『細雪』と。しかしこの二つの書は、櫻花の絢爛を隔てて対照的である。
 潤一郎の『細雪』は、祝い事や祭事の黄金色に輝いた鯛の色調と同様に”月並み”と云うことの典型である。しかし、月並みと云うこと、潤一郎の場合はこれが並大抵のことではなくて、日々を繰り返すと云うことにおいて、平常を維持する無限の意思の如きものなのである。日々継続されてあること、これは並大抵のことではない。日本人の平和への思い、日々の暮らしへの安穏さへの思い、凡庸に生きることへの賛歌のようなものが、太平洋戦争と云う未曾有の国難多事の状況下に置いて書き継がれたこの抵抗の書には顕著にして非凡なものとしてある。
 他方、紫式部的王朝の美学の固有の翻案の仕方であり昭和的再生の一手法である川端の『雪国』には安易な死への予感と賛美がある。国境のトンネルを超えた神秘と不思議の御伽の国、雪国に持ち帰ることのできない秘蔵の華を探し求めに行くと云うお話は、式部の北山のさる僧院に山桜を求めに行くと云う『若紫』の翻案である。異なるのは、『雪国』においては秘蔵の華を眺めるのはデカダンスに侵された傍観者の目であるが、『若紫』においては、愛おしい思いを、こころに痛いと感じる感受性のあり方、長年追い求めた理想の女性像と実在の一致などと云う西洋的な恋愛観ではなくて、相手のことを思うと心が震えるまでに可哀そうであると云う思い、同情心と異性への関心が区別できなくなったある種の感情である。
 ご存知のように、フェティシズムに捕らわれた潤一郎はこの種の恋愛感情を描かなかった。
 
 毎年これからは桜の花に再会する度ごとに、これら三様の櫻花に対する想いはより強く、蚕の糸のように途切れるかと見えてなおも継続作用を維持しながら、反芻されてそれが思い出の形をとるにつれて次第に弱まりつつ思い出されることであろう。
 山に桜を求めに行く、山桜に会いに行くと言い換えてもよい現象である。神秘的な感情である。山に桜を探しに行きながら得られず、虚しく坂道を降っていく宇治十帖の薫の君にはついにこの段階に達することはなかった。しかし彼の経歴や資質をみればやがては源氏の生き方が懐かしい生き方として蘇るときがあるあるだろうとは、容易に想像できることでもある。宇治川の早瀬に自らの影を映して思う揺蕩いは、朝霧の深さにもまして、水嵩を増す宇治川の流れにもまして、ある時は激しく、ある時は呟きにもにた余韻嫋嫋として余白の欄外に途切れて行く源氏のフィナーレではあった。
 ここに一人の男がいる。吉田兼好と呼ばれた男である。冒頭の、あやしうこそものぐるほしけれ、は様々に解釈されるけれども、この異常ともいえる心の高鳴り、高揚感は、さしずめ坂を降り来った薫の君のその後の姿、後日談とみてもよい。
 
 はなはさかりに、つきはくまなきをのみみるものかは、の男は満開の花見に、満月の宴に背を受けた世捨て人の姿でもあった。この男にとって桜花とは、眼に見えるもの、心眼としてみるべき幻想の風景へと形を変える。
 侘びや寂、乞食道とも云える今日の茶道の起源にもなった利休風の貧相な美学の持ち主であったのではなく、華やかな王朝的な宴や室町風の茶会が果ててののち、飲み終えた一椀の茶の淀みにもにた自服の果ての乾いた余情と云うものがこの男にはある。此の世の定め、あの世の定め、この世で起きたことの一切は茶の湯の一椀のなかの出来事のようにみる達観がこの男にはある。しかしこの男の素晴らしさは、この男の一期の達観をも超えて心の揺れは生涯、間歇的に浮かび上がる思い出のように、微弱に震え続ける余震のようにも次第に弱まりながらも、間をおいて続いたと云うことであろう。不甲斐なさの典型のような薫の君、そして不甲斐なさを誇らしくも生きた吉田兼好、と。やはりこと果てたのちも夕映えを背に受けて、こころは愛の残照のなかに映えていただろう。
 京都のほどない西郊に双ヶ岡と云う小丘がある。愛を憐憫として感受する感情、哀惜のあまり愛を心痛き思いと観ずる想いは むかしおとこ の家持や業平以来の伝統として永らえて、この男はそこで暮らした。
 
(付言) 秘すれば花なり、秘せずば・・・・・ 
 世阿弥のところまでいかなかった。
 かかる言を、世上のように解すれば、秘めてこそ真実のであり得る、と云う意味だろうか。賢しらを排して己の真を秘める、と云う姿勢は葉隠武士から宣長らの時代思潮に感染した幕末の志士たちにまで、あるいは明治初期の神風連の青少年たちを越えて5・15、2・26、戦後の三島事件にまで尾を曳くものであろう。
 しかし世阿弥の言が語っているのは、舞楽の言として語っているのではなく、演ずるものの体として語っていることである。秘められたままではそれは芸術になることはない。言として、言葉として、身体的所作に体現された体言として表現の在り方を語っているのであって、秘められたままの痩せ我慢、歯ぎしり、あるいは秘められたままでの思慕は、所詮は表現者としては犬死に等しい。
 
 語りつくせないものがなおもまだある。秘すれば花、秘せずば花なるべからず・・・・・、秘すると云う我々の意識の陰影の中でこそ命ながらえるものがあるのに、あからさまに対象として語ったのでは逃げ去るものがある。通常の言語をもってしては所詮は蝉の抜け殻を虚しく抱きしめるだけに終わってしまう。それゆえにこそ、秘すれば花、秘せずば花なるべかららず、なのである。
 しかし世阿弥の言のとおり、秘したまま黙したままでは花は咲かない。秘したものが言葉となってこそ花は咲くとは言えるのである。秘せるものを言としてではなく態として演じてみせるとき、顧みられた自分自身と云うものがすなわち言葉――ことば、と云うものの誕生を、その起源を語っているのではなかろうか。演じてこその秘すれば花なのである。
 

オスカー・ワイルドの『サロメ』  アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 ワイルドの『サロメ』を読んで思ったのは、なんとなくシチュエーションの『ハムレット』や『マクベス』などとの類似である。
 間断なき直情性を有する妻と、老練の野心を抱いた政治家でありながら、一面においてだけ優柔不断であらざるを得ない、奥行きをもった武将像と言いう意味で、ワイルドが創出したヘロデ像は、クローディアスとマクベスに似ている。他方、配偶者であるガルトルードとマクベス夫人は対照的であるが、夫の運命に対して外側から働きかける動意と云う意味では同様の役割を果たす。この二人の夫人が最後に自らに降す選択は、それぞれに違いがあって、前者は運命に対する曇りなき明晰さに於いておラマ自身の枠組みを超えるのに対して、後者は結局は優勝劣敗のマキアヴェリズムが勧善懲悪のモラルを超克することができずに、古い時代の価値観に呪縛されtまま狂気のなかに死ぬ、と云う違いはあるにしても。
 
 ところで覇道の権化であるところのヘロデにとって、サロメはどういう意味を持っていたか。サロメと云わず預言者ヨハネは共々どういう意味を持っていたか。一方はユダや法が定める厳格な法の実践者としてヘロデの言動を指弾して止まない。他方、姪でもあるサロメとは、先王の忘れ形見と云う意味でも、できれば相殺することができれば一石二鳥である、と云う冷徹な計算が働いたのか。
 
 以上のような物語的世界を背景として、ワイルドの独特のサロメ像が出現してくる。サロメは、新約聖書に描かれたような王妃ヘロディアスの傀儡ではない。ヘロデ王と王妃ヘロディアスにあるのは、何々のためのと云う目的意識の喪失であり、自らの無根拠性を保証するために歴史的記憶は出来れば抹殺できればよいと考えている。かかる思想的な意味での最大の敵対者こそ、雁字搦めの歴史意識に縛り付けられた伝統的ユダヤ教の民と預言者たちの群像なのである。
 ユダヤ教的歴史意識と、ヘロデ的現世主義の時間意識が対決軸としてこの物語の背景にはある。時間性なきヘロデの現世主義の極限は、物質崇拝、観念論的にはフェティシズムとして現れざるを得ないだろう。フェティシズムの極限的な表現が、彼にとってのサロメと云うことになる。ヘロデは彼女の七色の踊りのなかに、自らの物心崇拝とその対極にある、精神主義的な厳格主義の対決のドラマを見る。対決の構図は自身の自己矛盾の拡大された構図なのであるが、かかる歴史的緊張感の中からやがてイエス・キリストは生まれてくるのであろうし、ヘロデ的な野望もユダヤの民の千年王国への願望も歴史的暮色の暗がりの中に消えていくのである。