アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

トリュフォーの”隣の女” アリアドネ・アーカイブスより

トリュフォーの”隣の女”

テーマ:
 
フランソワ・トリュフォーは70年代に自分の自伝的な積年の課題をヌーベルヴァーグ的な手法を用いて”思春期”の映像に定着させた。80年代に入ると、映画人としてはある意味で戦後フランス映画の象徴的存在であるかカトリーヌ・ドヌーヴを主演に迎えることで”終電車”をとることで同年のセザール賞を独占し、実力を見せつけた。そうしてその後に本作”隣の女”おいて、初期の”突然炎の如く”や”柔らかい肌”における、愛の狂気と暴力性という重いテーマに立ち帰った。

通常人は過去を忘れる。初恋が甘美であるのはその理由による。時は人間的感情を浄化し、過去を美化しあるいは腐食させる。思い出はいかに痛切であろうとも当事者性を失い、現在の時制により補強され、折り合って生きることを可能にする。しかし時制を失った過去は何時までも”現在”のままであり、日常の奥深く潜みながら、何時でも受け入れるべく狂気の扉を開いて待っている。

フランソワ・トリュフォーはフランスの地方都市グルノーブル郊外の向かい合った2軒の家の間に起きた愛の物語を取り上げた。三面記事的な猟奇的事件の背後に何が潜んでいたのか。8年前に別れた男女が隣り合わせに住むことになるという偶然から、主として登場人物の語りとして次第に明らかになる。

”一緒にいても苦しいし、離れていればなお苦しい”という愛の悲劇性に二人が気づいたのはいつか。物語は二人の愛の再現と牽制という緩慢な繰返しを経て最後の悲劇的な結末に至るのだが、町のスーパーで出会った二人が”お友達でいましょうね”という大人の関係を確認した直後における逆転、人気ない地下駐車場で交わした接吻と女が失神してしまう事態にその異常性が暗示される。

この二人を支えるそれぞれの夫と妻も普通の生活者として描かれており、この愛の異常性を際立てている。愛の無私性は純愛に高まることもあれば、浄化されない愛はひたすらにこの世に向かって代償を求める。この映画の恐ろしさは十分に大人で、知性もあるはずの二人が、とりわけ女が、緻密に計算されたような冷徹さで執行する愛と生贄の儀式にある。

物語の最後の場面で、悲劇を回避するために旅行に旅立つマチルドたちの送る屋外のパーティがある。彼女に気がある美術雑誌の編集者の男性の膝に乗ってみたり、ドレスをわざと裂いてみたりする一種の痴態によって女は男を挑発する。自分自身の秘めた思いと思っていたものが、女のあられもない痴態によって男は激高し、自制心を失う。女もまた日常の時間に生きながらえることが心身的な嘔吐となってあらわれ、精神科医の対象となる。しかし女の知性は嫣然とした笑いを秘めて精神科医を嘲笑する。

最後のシーンは、人気のなくなった引っ越し後の家に再び立ち戻った女の物音に不審を抱いた男が訪れ、闇と影のような映像の中で一つとなった二人は女の引いた二つの凶弾によってこの物語の幕を引く。せめてお墓だけでも一つにしてあげたかった、というのが登場人物の一人のモノローグである。



goo映画より

解説
妻と息子をもち平凡な生活を送っていた男と、偶然彼の隣に引越して来た昔の恋人との激しい恋と葛藤を描く。監督は「終電車」のフランソワ・トリュフォー、原案・脚本はトリュフォー、シュザンヌ・シフマン、「恋のマノン」(67)の監督で知られるジャン・オーレル、撮影は日本初登場のウィリアム・ルプシャンスキー、音楽はジョルジュ・ドルリュー、編集はマルティーヌ・バラーク、美術はジャン・ピエール・コユ・スヴェルコ、製作責任はアルマン・バルボウ、録音はミシェル・ローランが各々担当。出演はジェラール・ドパルデューファニー・アルダン、アンリ・ガルサン、ミシェール・ボームガルトネル、ヴェロニク・シルヴェル、ロジェ・ヴァン・オール、フィリップ・モリエ・ジュヌーなど。ロケはすべてグルノーブル近郊で行なわれた。


あらすじ
32歳のベルナール(ジェラール・ドパルデュー)は、妻アルレット(ミシェール・ボームガルトネル)と幼ない息子と平穏な日々を送っていた。ある日隣にボーシャール夫妻が引っ越してきた。夫のフィリップ(アンリ・ガルザン)は、空港に勤めるベテランの菅制官である。美しい妻マチルド(ファニー・アルダン)は、フィリップとはかなり歳が離れていた。しかし、彼女が隣人であるベルナールに向ける表情は、何かを含んでいた。彼らが引っ越して来た翌日マチルドはベルナールに電話した。実は二人は、昔恋人同士だったのだ。電話の内容は、お互いの相手に、自分たちの過去を打ち明けたか、ということだった。翌日、ボーシャール夫妻を夕食に招いたとアルレットから聞いたベルナールは、ジューヴ夫人(ヴェロニク・シルヴェル)の家から電話し、仕事で帰れないと嘘をついた。ジューヴ夫人は、20年前に愛していた男に裏切られ、そのために窓から飛びおり杖をつく身となっている中年女性で、恋の痛手をベルナールに話して聞かせた。しかし、ベルナールとマルチドは、お互いに罪の意識を持ちながらも、旧交を取り戻していった。遂にホテルでひとときを過ごした二人は、過去を振り返りお互いの不運を嘆いたが、もう二度と会うのはよそうとマチルドは言いきった。しかし、再び燃え出した炎はたやすく消えない。マチルドの家に行くベルナール。フィリップに全てを打ち明けようとするマチルド。しかし、数日後、ボーシャール夫妻は、予定通り、おそい新婚旅行に出かけて行った。その間、ベルナールは妻に全て打ち明けた。そして、その時彼は妻が妊娠していることを知った。そのころ、ジューヴ夫人は、彼女を拾ててニュー・カレドニアに行っていた男が来ることを知り、パリに姿を消していた。今の自分を見られたくないためか、それとも彼のせいで足を悪くしたのを知らせたくなかったためか。旅先で、マチルドは、フィリップとのベッドでベルナールの名を呼んだ。彼女はやがて神経衰弱で入院し、そのことをフィリップはベルナールに知らせた。しかし、妻の妊娠を知ってからは、彼はアルレットにつきっきりだった。ある夜今は空家のはずの隣家で物音を聞いた彼は一人、調べに入った。暗聞の中に拳銃を手にしたマチルドの姿があった。


キャスト(役名)
Gerard Depardieu ジェラール・ドパルデュー (Bernard Coudray)
Fanny Ardant ファニー・アルダン (Mathilde Bauchard)
Henri Garcin アンリ・ガルサン (Philippe Bauchard)
Michele Baumgartner ミシェール・ボームガルトネル (Arlette Coudray)
Veronique Silver ヴェロニク・シルヴェル (Madame Jouve)
Roger Van Hool ロジェ・ヴァン・オール (Roland Duguet)
Philippe Morier Genoud フィリップ・モリエ・ジェヌー (Le Docteur)
スタッフ
監督
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
原案
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
Suzanne Schiffman シュザンヌ・シフマン
Jean Aurel ジャン・オーレル
脚本
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
Suzanne Schiffman シュザンヌ・シフマン
Jean Aurel ジャン・オーレル
撮影
William Lubtchansky ウィリアム・ルプシャンスキー
音楽
Georges Delerue ジョルジュ・ドルリュー
美術
Jean Pierre Kohut Svelko ジャン・ピエール・コユ・スヴェルコ
編集
Martine Barraque マルティーヌ・バラーク
録音
Michel Laurent ミシェル・ローラン
字幕
山田宏一 ヤマダコウイチ
製作進行
Armand Barbault アルマン・バルボール

ポランスキーの”テス”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
ヴィクトリア朝期とはどんな時代であったか。映像は産業革命の波に洗われるイギリス農村部の荒涼とした風景を背景に、当時の機械化が導入され始めた農作業の風景や、他方では封建的な村落共同体の掟やキリスト教、没落する貴族階級と勃興する中産地主階級の階級変動を背景に”家門”のゆくへと重ね合わせるように、不運な一人の貧しい娘の悲劇的生涯を追う。

揺るぎつつある階級制度の変動はアレックス・ダーバヴィルよって代表される。テス・ダービフィールド一家の誤解はダーバヴィル家が買収された(金銭で購われた)爵位であり、ダービフィールド家の幻想とは何の所縁もないことである。長女であるテスは一家の貧困と、父親とは”家門”の幻想を教諭するが故に、ダーバヴィル家の使用人として奉職することになる。映画の最初の場面でこの父娘の関係を、テスは父の言うことしか聞かない娘として紹介されている。

テスのアレックスに対する嫌悪は、偽られた家門故の欺瞞性故であり、他方で経済力によって全てを囲い込む込むことができるという自信、背後の資本主義の無思想性故にである。

反面、奪取されつつあるとはいえ旧弊の村落共同体やキリスト教の信徒制度は強力に生きており、階級的規範から逸脱した場合の残酷性が示される。アレックスとの間に生まれた赤ん坊が不幸にも死別したときには、共同墓地への埋葬を阻まれる。この世にもあの世にも生きる場所がないということなのである。

現世にも来世にも生きうる場所が閉ざされたとき、魂は内的な世界に飛躍するほかはない。テスは農場での従業員食堂での語らいの中で、魂が時に遊離する経験を話して皆を驚かせる。理想や憧れというものがテスから如何なる現実的な条件も失われた事を意味している。

こうして牧師の息子エンジェルとテスとの出会いが必然化される。テスは愛は二人が出会う以前にすでに成就されているかのようである。なぜなら、アレックスという青年の存在が”家門”とかを何ほども評価しない人間であるという娘たちの噂話を聞いた時から既に”恋していた”からである。

テスにとってはどう生きるかよりも、愛の観念に殉じることのほうがより高位にある生き方となる。アレックスの奉じる”純潔”観念もまた精神的な同型性を持っているが、それはまだ世俗の強いしがらみ絡めとられているという意味ではいまだ不徹底である。ブラジルでの入植活動等による挫折経験や世俗の相対化が必要であった。

テスの精神的な特性は魂が世俗のしがらみや関係性を超えうるという経験である。歴史の流れは人間の内的な経験や魂の固有さが社会的な関係性によって強力に拘束されうる時代を迎えつつあった。いわゆるヴィクトリア朝的偽善性である。

愛のために殺人を犯し、その行為が導く地獄への道行きを是認する。恋の逃避行の最も美しい場面である。二人の愛の成就であると同時に破綻でもあった別の一室で二人は初めて結ばれる。かってテスが貧しさと無知ゆえに汚したとされる純潔性はこの時まで失われることはなかった。二人が最後の夜を明かすストーンヘンジは文明なるものの否定である。ストーンヘンジとは、物語の中で何度か語られるダーバフィールド家の伝承、アングルサクソンがブリテン島に侵入した時を一家の興亡の起源とする伝説的な始原的場所でもあり、その構造から古英語では”兆番”を意味する”絞首台”の意味があったらしい。

愛が命じる倫理性は時に世俗の道徳や宗教を超えうるということだろう。この恋愛至上主義的な観念は人類が神という超越的な存在を失って以来発明したロマン主義時代の観念であった。愛のために恋人の道行きには地獄であろうともお付き合いしようという男の決意を待って初めて私たちは、ようやくこのヴィクトリア朝時代の中途半端なインテリを許す気持ちになる。

イギリス文学におけるロマン主義的な心情を、ナターシャ・キンスキーの鋭角的な美貌と荒涼としたイングランドの風景は、幸せであることよりも愛の純粋性に殉じた生き方を詩情豊かに描いていた。


goo映画より

解説
19世紀末のイギリスの東北部の農村を舞台に、貧しい行商人の子として生まれた娘テスの波乱に富んだ生涯を描くトマス・ハーディ原作『ダーバヴィルのテス』の映画化。製作総指揮はピエール・グルンステイン、製作はクロード・べリ、監督は「チャイナタウン」のロマン・ポランスキー。ハーディの原作を基にジェラール・ブラッシュ、ロマン・ポランスキージョン・ブラウンジョンが脚色。撮影はジェフリー・アンスワースとギスラン・クロケ、音楽はフィリップ・サルド、編集はアラステア・マッキンタイア、製作デザインはピエール・ギュフロワ、美術はジャック・ステファンズ、衣裳デザインはアンソニー・パウエルが各々担当。出演はナスターシャ・キンスキー、ピーター・ファース、リー・ローソン、ジョン・コリン、デイヴィッド・マーカム、ローズマリー・マーティン、リチャード・ピアソン、キャロリン・ピックルズ、パスカル・ド・ボワッソンなど。


あらすじ
19世紀の末、イギリスのドーセット地方にある村マーロット。ある日の夕暮時、なまけ者の行商人ジョン・ダービフィールド(ジョン・コリン)は、畑の中を行く村の牧師に声をかけられた。彼は地方の歴史を調べており、ダービフィールドが、実は征服王ウィリアムに従ってノルマンディから渡来した貴族ダーバヴィルの子孫であることを告げた。突然の話に驚きながら、彼は家の者達に伝えようと、帰路を急いだ。その頃、タ闇の野原では、白いドレスに花飾りをつけた村の娘たちがダンスを楽しんでいた。その中に、ひときわ目立って美しい娘がいた。ジョンの長女テス(ナスターシャ・キンスキー)である。彼女は踊りを終えると一人で家に帰った。ジョンからダーバヴィルの子孫であると聞かされた妻(ローズマリー・マーティン)は、早速テスをダーバヴィルの邸に送りこみ、名のりをあげて金銭的な援助を受けようと考えた。家族の為にダーバヴィル家を訪れたテスは、着く早々その家の息子アレック(リー・ローソン)に会った。彼はハンサムだが、なまけ者のろくでなしで、美しいテスを見るなり夢中になった。そして、彼はいやがるテスを無理やり森の中で犯した。アレックの情婦になったテスは、ある日の夜明けダーバヴィル家をぬけ出した。両親のもとに戻ったテスは、やがてアレックの子供を産むが、わずか数週間でその子は死んだ。新しい生活をはじめようと、ある酪農場で働くことにしたテスは数人の娘たちと共に乳搾りに精を出した。そこで、農業の勉強をしに来ている牧師の息子エンジェル(ピーター・ファース)と知り合いになったテスは、このまじめで静かな青年に心を惹かれた。彼もテスに恋心を抱き、ある日、彼は正式に結婚を申し込んだ。暗い過去をもつテスは、この申し込みを拒み続けるが、その悩みを手紙につづり彼の部屋の戸ロにすべりこませた。翌日、何の変化も見せないエンジェルの態度に安心したテスは、彼と幸福の時を過ごす。しかし、それも束の間だった。手紙は床に入りこみ、読まれないままだったのだ。それを知ったのは結婚式の前夜だった。式を終えハネムーンを過ごすためにやってきた別荘で、エンジェルが過去の誤ちを告白し、それに続いてテスもアレックとの一件を告白した。しかし、その告白を聞いたエンジェルは、別人のように冷たくなり、一人外に出てしまった。エンジェルの理想生活は崩れ、テスに別れを告げブラジルの農場に発っていった。絶望にくれるテスは、また一人荒地をさまよい、昔の同僚マリアン(キャロリン・ピックルズ)をたよりに農仕事に戻った。そんなある日、アレックがテスを求めてやって来た。彼の申し出を拒むテスだったが、今はジョンも死に、貧しさに苦しむ家族のことを考えると、アレックに従うよりなかった。便りのないエンジェルを諦め、テスは遂にアレックと共に生活を始めることにする。やがてブラジルから戻ったエンジェルは、テスに対する厳しい仕打ちに自責の念を抱き、テスの居所を探していた。やっとテスの住む所が避暑地サンドボーンであることを聞きだしたエンジェルはその豪華な家のべルを鳴らした。そこでエンジェルが会ったテスは貴婦人のような物腰の以前とは別人のテスだった。すべてが遅すぎたと言うテスの前を、エンジェルは肩を落として立ち去った。部屋に戻って泣くテスを、アレックはなじった。出発まぎわの列車に、ひとり寂しく乗り込んだエンジェルは、そこにテスの姿を発見した。彼女はアレックを殺し、エンジェルを追ってきたのだ。今こそ抱き合う二人。森の中の別荘で初めて結ばれたテスとエンジェルは、しかし、逃亡の果ての遺跡で、追ってきた騎馬警官に捕われるのだった。


キャスト(役名)
Nastassja Kinski ナスターシャ・キンスキーTess
Peter Firth ピーター・ファース (Angel Clare)
Leigh Lawson リー・ローソン (Alec d'Urberville)
John Collin ジョン・コリン (John Durbeyfield)
David Markham デイヴィッド・マーカム (Reverend Mr. Clare)
Rosemary Martin ローズマリー・マーティン (Mrs. Durbeyfield)
Richard Pearson リチャード・ピアソン (Vicar of Marlott)
Carolyn Pickles キャロリン・ピックルズ (Marian)
Pascale de Boysson パスカル・ド・ボワッソン (Mrs. Clare)
スタッフ
監督
Roman Polanski ロマン・ポランスキー
製作
Claude Berri クロード・ベリ
製作総指揮
Pierre Grunstein ピエール・グルンステイン
原作
Thomas Hardy トマス・ハーディ
脚色
Gerard Brach ジェラール・ブラッシュ
Roman Polanski ロマン・ポランスキー
John Brownjohn ジョン・ブラウンジョン
撮影
Geoffrey Unsworth ジェフリー・アンスワース
Ghislain Cloquet ギスラン・クロケ
音楽
Philippe Sarde フィリップ・サルド
美術
Jack Stephens ジャック・ステファンズ
Pierre Guffroy ピエール・ギュフロワ
編集
Alastair Mcintyre アラステア・マッキンタイア
衣装(デザイン)
Anthony Powell アンソニー・パウエル
字幕監修
山崎剛太郎 ヤマザキゴウタロウ

七月のベスト5

七月のベスト5

テーマ:
 

 Amebaに引っ越してほぼ二年近くになります。

 1位から3位までに例によって春樹ものが並びました。

 4位に堀辰雄、5位にヘンリー・ジェイムズが入りました。嬉しいです。

 やはり、こうした文学界の主流的な位置にある作家が並ぶとほっとしますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

七月のベスト10 6位から10位

七月のベスト10 6位から10位

テーマ:
 

 6位にヴァージニア・ウルフ、7位にゲーテモーツアルト、8位にオペラの『ラ・ボエーム』、西洋文化の精華ともいわれるべき項目と作家群が並びましたね。嬉しいです。

 9位に日本の近現代の文学者のものが入りました。志賀直哉と団一雄。志賀直哉は今でも読まれているのでしょうか。檀一雄は、細々とではあれ郷里の愛好者によって読み継がれています。

 今月はベスト10の中に、私の日々の徒然や逍遥を書いた雑文、サイクリングやドライブ日誌などの身辺ものが入らなかったのは喜ばしいことです。今後の傾向となることを祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

10

 

 

 

 

トリコロール”白の愛” アリアドネ・アーカイブスより

 
トリコロール三部作の最後に見る機会を得た”白の愛”。第一作目の”青の愛”が愛の不可能性と人間不信を底辺として、生きていくことの相対的な折り合いを描いていたのに対して、ここでは性的不能がテーマとなる。

主人公のカロルは性的不能が原因でフランス人の妻に一方的に離縁され、その日からクレジットカードも取引停止となり路上生活者となる。地下鉄の構内で知り合った同郷の男との不思議な出会いと友情、彼の手助けでどうにか祖国ポーランドに帰ることができた。ポーランドの荒涼とした白の世界とぬかるんだ地道が懐かしい。

ドラマが急遽展開を見せるのは、祖国ポーランドで実業家として成功したカロルが復讐するために自己の死を偽装し、別れた妻ドミニクに遺産を譲るとの遺言状を残して、これが原因でドミニクは殺人罪で逮捕され刑務所に収容されることになる。最終シーンは未決の彼女を慰問品を持って訪ねて行くカロルが窓こしにドミニクと言葉を使わずに、パントマイムで交信を交わす場面で終わっている。冷たい冬の窓の明かりを双眼鏡を当てて見つめるカロルの頬をとめどない涙が伝う。この涙が許しの涙なのか悔悟の涙なのか、最後まで確信を持てなかった。

ドラマ作りに少し無理があり、女性心理の単純化近代主義的なドラマツルギーとは異質である。ただしフランス国旗を象徴するといわれる”青の愛”、”白の愛”、”赤の愛”をひとつながりのものとして考えると、いずれも偶然がもたらす愛の局面を描いたものであり、心理ドラマではない。この点、評価が分かれるところだろう。


goo映画より

解説・あらすじ - トリコロール 白の愛(1994)
リンクするには
解説
フランス国旗を構成する三つの色、青、白、赤をモチーフにしたキェシロフスキ監督のトリコロール三部作の二作目。弁護士で理論家でもあるクシシュトフ・ピェシェヴィチが共同脚本。製作はマラン・カルミッツ。撮影はエドヴァルト・クオシンスキ、美術は、ハリナ・ドブロヴォルスカ、クロード・ルノワールが担当。「青の愛」のジュリエット・ビノッシュに続き今回ヒロインを演じるのはジュリー・デルピー。「ゴダールの探偵」「汚れた血」などで注目され近年は、フランス、ポーランドアメリカなどで国際的に活躍している。もうー人の主役を演じるのは、キェシロフスキ監督にTVシリーズ十戒・10』でその演技を認められたズビグニエウ・ザマホフスキ。その他、アンジェイ・ワイダの「鉄の男」などに出演しているヤヌーシュ・ガヨスが脇を固めている。



あらすじ
パリ。まだ片言のフランス語しか話せないポーランド人のカロル(ヤヌーシュ・ガヨス)は、性的不能が原因でフランス人の妻ドミニク(ジュリー・デルピー)に離婚を求められている。カロルは裁判所で時間がほしいと哀願するがドミニクはもう愛してない、と言い捨てる。行き場をなくしたカロルは地下鉄の通路で同郷のミコワイ(ズビグニエウ・ザマホフスキ)に出会う。2人は奇妙な友情を温め始める。彼はカロルに人生に絶望して死にたがっている男に手をかす気はないか、ともちかけるがカロルは断わる。彼はミコワイのトランクに隠れ、パリで見つけた少女の胸像を抱えながら故郷に再び戻る。カロルは再び働き始めるが、美容師稼業に見切りをつけ、やくざな両替屋の用心棒になる。そして両替屋たちの土地買収の計画を出し抜くため動き始める。またフランス語も本格的に学び始める。そんなある日ミコワイに再会した彼は殺してほしいと願っている男の頼みを聞く。しかしその男はミコワイ自身であった。カロルの銃で一度死を見たミコワイは生まれ変わる。一方、大金持ちになったカロルは電話をしても受け付けてくれないドミニクをポーランドに来させるために自ら死を偽り、遺産の受取人をドミニクにした。葬儀に現われたドミニクが予想外に涙を浮かべているのを遠くから確認したカロルはその夜、彼女の前に現われ、2人は裸になり深く愛を誓い合う。カロルが満ち足りた顔で眠っているドミニクを後に去った後、彼の自殺に不審を抱いた警察がホテルに現われ、ドミニクを逮捕してしまう。カロルは人目を避け、ドミニクのいる収容所のまえに立つ。おりの中からのドミニクの視線とカロルの視線は愛を交し合う。


キャスト(役名)
Zbigniew Zamachowski ズビグニエウ・ザマホフスキ (Karol Karol)
Julie Delpy ジュリー・デルピー (Dominique)
Janusz Gajos ヤヌーシュ・ガヨス (Mikolaj)
Grzegorz Warchol (L'elegant)
Jerzy Nowak イェジー・ノヴァク (Le vieux paysan)
Aleksander Bardini アレクサンデル・バルディーニ (Le notaire)
Cezary Harasimowicz ツェザリ・ハラシモヴィッチ (L'inspecteur)
スタッフ
監督
Krzysztof Kieslowski クシシュトフ・キェシロフスキ
製作
Marin Karmitz マラン・カルミッツ
脚本
Krzysztof Piesiewicz クシシュトフ・ピェシェヴィチ
Krzysztof Kieslowski クシシュトフ・キェシロフスキ
撮影
Edward Klosinski エドワルド・クウォシンスキ
音楽
Zbigniew Preisner ズビグニエフ・プレイスネル
美術
Halina Dobrowolska ハリナ・ドブロヴォルスカ
Claude Lenoir クロード・ルノワール
編集
Urszula Lesiak
録音
William Flageollet
字幕
古田由紀子 フルタユキコ

鹿島茂の『失われた時を求めて』の完読を求めて〜「スワンの家の方へ」精読

 
 初めて読むプルーストの入門書というよりも、読んでみようとして挫折した経験のある読者向けの解説書、と言えばいいだろうか。
 内容が豊富なので、わたしは次の点に興味を抱いた。
 
 一番目は、同性愛の問題。生物学的、生殖学的意味を除けば、精神と肉体の関係に還元される。イデアなるものと物質・物象の関係といってもいい。この両者は、並行的、正比例の関係には必ずしもない、という点にわたしは以前より関心を抱いている。風俗としての同性愛関係については無知だし、ほとんど興味がない。
 
 二番目は、サディズムマゾヒズムの関係。誰しもにある両者の傾向、どこから来てどこにいくのかさっぱりわからない。鹿島茂の本で面白いのは、サディズムマゾヒズムの関係が端的には分けることができなくて、事情や状況によって相互に転移し返還する点にあるという指摘が面白い。
 つまり、同性愛もまた相互に転換し転移するのだから、類似の精神的構図を持つということになる。
 
 この本の特徴は、プルーストの交錯した迷宮のようなこの大著を、謎解きの探偵小説的手法を用いて、知的に、あくまで論理的に改名しようと心がけた点にある。
 印象に残ったのは、第一巻『スワンの家の方へ』の第三部「さまざまな土地の名、名前というもの」として訳した経緯を綴った部分だろう。最後のLE NOMは、定冠詞であることを根拠に、「・・・というもの」と訳した、というのですね。定冠詞を冠されているということは、NOMがここでは固有のものやこと、つまり最終的にはジルベルトという固有の女性を意味暗示している、と言うことになると言うのですね。鹿島によれば、複数ある日本語訳ではこうした事例ーー定冠詞と歩定冠詞に違いに着目して訳した事例はないのだそうです。これが三番目にわたしの印象に残ってことです。
 
 最後に、全七巻にも及ぶ大作を、最初の一巻のみに置いて「精読』!することの意義を考えると、もともとこの大著が円環構造をなしており、全体の概要を知っておればこの巻だけでも全体を展望しうる、と言う鹿島の意見なのです。それは大作を通じておきるさまざまな事象や事件がそれぞれ入れ子構造をとっており、相似関係にあることが見て取れるからです。
 
 最後に、わたしの注文を一つだけ付け加えれば、この大作における「超越的・特権的時間」のことなのです。
 鹿島は、全てを個人の意識や心理作用によって説明しうると言う考えのようですが、芸術作品というものは、最終的には人格を超え、言語自身へと回帰するものなのです。
 プルーストの物語が偉大な人間ドラマであるのは、平凡さや凡庸さと見えるものが時に、本人にも気づかれることなく、時の豊穣としてして現れる、と言う転移あるのではないかと思うのですが。
 例えばゲルマント夫人、オペラ座の観劇の場面で海底を泳ぐ華麗な水の女神たちとして描かれている有名な場面がありますが、実際はプライドだけ高い貴族社会の俗物なのですね。その俗物が改心することなく、そのままの在り方で人類的時間の偉大さを本人の意識するところを遥かに超えて顕現する、と言うイロニーがあるのです。
 同様に、語り手以上に重要な役を振られているスワン氏にしても、彼の奇妙な恋愛遍歴の終始を負いながら、苦悩する間は後期でもあれば偉大でもあったこの人物が、最後はオデットとはその程度の温案であったか、と述懐する段階で、よくある俗物へと転落するのです。つまり定冠詞と不定冠詞の違いに拘れば、固有名詞(定冠詞)から普通名詞(不定冠詞つまり任意の存在)なるものへと転落するのです。
 
 これはゲルマント夫人夫人やスワン氏と言う重要人物だけに言えることではなくて、ほんの橋役であるコタール夫人が失意のスワンとすれ違う場面でも典型的に現れています。この人の良い夫人は、実際には夫の不貞を知りません。このやがては陰りの中に消えていく橋役の一人においてすらプルーストは王冠ににも似た、特権的時間をプレゼントしているのです。
 
 
 
 
 

パヴェーゼを読みたくて〜『女ともだち』 

 
 パヴェーゼ最晩年の本、と言うことは、この本を書いてから一年後に彼は亡くなるのだが、あのスキャンダラスでもあればミステリアスな事件とともに。
 
image
 
 先回書いた『美しい夏』とともに、小説設定は似ている。二人のヒロイン、男たちが主要なテーマを演ずることはない。パヴェ〜ゼにとって、何故女流作家のような作品が際立つのか!人は性差の違いを論ずる以前に、何故パヴェーゼがかくも、異性の心理を描きうるのか、と言う点について、不思議に思わなければいけないだろう。
 
 性とはなんなのか。性差とは?
 
 閑話休題。主人公も二人の女たち。戦後の、未だ戦争の傷跡が生々しく残るトリノ、そこにローマから里帰りしてきた熟年の女性デザイナーがいる。小さな街なので彼女はちょっとした有名人になる。故郷に錦を飾ったと言う意味ではないけれども。彼女の周りに群がるトリノの若者たち。なぜか、彼女と同世代の物は少ない、一人の聡明らしい男友達を除いて。彼との間に、恋愛話が成立するのかと思っていたら、そうではなかった。もう一人の、自殺願望の強い、上流階級の娘が一人。ヒロインがトリノに到着した晩に同じホテルで彼女は自殺未遂事件を起こす。二人をつなぐのは、そんな儚い偶然性だけなのである。経歴をとっても、人生に対する態度をとっても、性格や趣向は言うに及ばず共通点は少ない。
 
 しかし経歴こそ語られないけれども、ヒロインは過去に事件を起こしたことのある、「事後」の人間?なのではなかろうか。実際にそう言うことがあったと言うことではなくて、そうした願望を秘めた生き方をしてきた人間の一人であったとしても、かまわない。そうでなければ思春期の小娘の自殺願望にかくも親身に付き合うはずがないではないか。しかもヒロインはローマの本店からトリノに新規に店を開くために派遣されてきた多忙なビジネスマンという設定であったのではなかったか。
 
 物語は、トリノショールームの改修工事と、煩わしい建築家や現場監督たちとのややこしい交渉ごとの記述とともに同時進行する。店はどうにかトリノの一角に竣工し、気難しいローマのおばちゃまワンマンオーナーを迎えて、どうにか開店の目処も立ちそうな雰囲気の中で、あの若い娘は二度目の自殺を試みてそれに成功する。小説はそこで終わる。
 
 パヴェ〜ゼの本は例によって、暗示や言外の黙示によって記述される。説明はなく、所感と客観的記述だけがある。
 誰も若い娘の自殺願望を止めることはできない。もしかしたらヒロインだけがそれができたかもしれない。しかし、彼女は動かなかったし、自殺を阻止する積極的な理由を見出せなかった。
 
 ここで描かれているのは、自殺という名の生命の過剰!のことなのである。
 
 誰もがパヴェーゼの自殺を止めることはできなかった。文学賞を取ったばかりで、これから有名人たちの群像の中に名を連ね始める直前の彼の死、早すぎる青年作家の死!-ー自殺の理由についてはさまざまに噂され、推測されたけれどもいまだに合理的な理由がわかっていない。
 
 自殺に理由など要らないのである。
 
 政治と文学、彼には異質なものの対立を秘めた内面生活と戦前戦中戦後の時間があった。
 戦争を挟んだ動乱の時代に死んだ者たち、彼の戦友とも言える友人知人たち、その中にはギンズブルクもいたはずだ。
 死することによって絶対となった死者たち。
 
 有名人になって、これから華やかな戦後の時代が幕開けされようという時になって、パヴェ〜ぜは重たさに生きていけないと思ったのではなかろうか。戦後の華やかさが予感されればされるほど、そのような時代とは異質なものとしての彼がいた。
 
 戦前中戦後を切り抜けて、本書のヒロインは生きるだろう、パヴェーゼの対極にあるものとして。その生き方は、あるいは生き延びる、という語感こそ相応しいかもしれない。パヴェーゼは自分自身をネガとしてポジを描いた。しかしそうだからと言って、そうだからこそ、より逞しく生きうるのかもしれない、彼女は。
 
 戦後の繁栄の中で、内面にはあの「荒野」を秘めたまま。轟々となる荒野を!風荒む荒野を!
 
 
(追記)
 このほとんど半世紀以上も前の翻訳本を紐解いて改めて思ったことーーこの時代のイタリア文学の本は、フランス語や英語を通じての二次翻訳であったのですね。本格的なイタリア文学者というものはまだ戦後の我が国の文学界には存在していなかった?あるいはいても、とても数が少なかった?ーー須賀敦子の本を読んでいるとなんとなくわかります。