アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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イタリア映画”木靴の樹”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
映画はヴィスコンティの”山猫”や”夏の嵐”を描いたリソルジメントの激動期を経てそれなりの過渡的な安定期を迎えた19世紀後期の北イタリアはロンバルディア地方、ベルガモやミラノの近郊の農村を舞台に描いている。

水田すれすれの狭い小川や、堤に添って連なるさびしげな樹木の連なりや廃屋のような倉庫や農機具置き場など、いまでも見慣れた都市郊外の風景として展在する。昨年北イタリアを旅した時も、ミラノを起点とした小旅行の旅に車窓に眺めた風景と同じものである。

一方都市化の極限にあるミラノはかって縦横に運河が開けていたと聞くだけでそのよすがもない。この映画の最後ら付近に、早朝に結婚式を挙げた二人が船でミラノまで行くくだりがあるが、ああ、運河が埋められる前はこんなふうだったのだな、と住み慣れた町でもないのに妙に納得していた。

オルミ監督のこの有名な映画については語りつくされている感があるので、なぜ19世紀後半を舞台としたドキュメンタリータッチの映像が、1970年代の後半に造られたのかを考えてみたい。この映画の農村風景を描いた映像美や自然描写の中に素朴な神への賛歌を読み取ったとしても、所詮は現代人の都合にすぎないのだろう。

物語の由来は”木靴の樹”。封建性以前の窮屈な身分制のもとで階級を離脱する方法には僧侶階級に身を連ねることと、もうひとつ軍隊での経験があった。一方支配階級である僧侶階級においても優秀な人材の補充は貴族階級だけに頼ることはできずに、こうした庶民に上昇願望を利用する形で育成する必要があった。

年端もいかない少年が利発であるがゆえに学校に行くことを”神の使命”と司祭様に説教され、父親は大事な労働力を失い、少年は往復12キロもある学校への道のりを通学する過程で靴をすり減らして壊してしまう。家に帰ると家では主婦に丁度子供が生まれたところで、父親は心配をかけまいとこっそりと小川のほとりの樹木を刈に行きそれで子供のための木靴をつくる。やがてそのことが発覚すると地主の逆鱗に触れ、一家は住みなれた家を放棄しどことも知れぬ旅へと追放されてしまう。主婦は、心配症の夫を慰めてこういう。子供を授かるということは、目に見えぬ恵みを授けてくださっているのだと。住み慣れた家を逃げるように去っていく、荷車の上で揺られていく少年の悲痛な泣きべそ顔を映してこの映画は終わる。せめてこの健気な母親が運命を切り開いてくれるだろうことを期待するばかりなのである。少なくともこの家族に限って神が微笑まれることはなかった。

神は沈黙を守るだけではなく、”時には”微笑まれる。もう一つの寡婦の母親は洗濯屋をしながら家族6人を扶養している。心配した司祭が保育院に下の二人を入れることを提案するが、15歳にしかならない長男が、僕が夜も働くから家族一緒にいようと健気なことを言うのでこの話は沙汰やみになる。もうひとつこの家のお祖父ちゃんがちゃっかりしていて、僅かな建物周りの空き地を利用して、今でいうトマトの早期栽培――と言ってもバスケット一杯のささやかな収穫にすぎないのだが――で町に卸しにいって孫娘にささやかな希望を与える。牛が重い病気になって一家が絶望の淵に沈んだとき、神は獣医の下した診断をそっと脇におどけになる。

早期栽培による商品経済における希少価値の実現、つまり現代人に劣らずの巧みさやずるさも描いている。もう一つの家族では父子の折り合いが悪く、息子は昼間から酒を飲むようになる。父親は映画の冒頭から軽量される荷車に石を忍び込ませて多く見積もらせることの常習犯であるらしい。この父親はおまけに村の祭りで拾った金貨を馬の馬蹄の底に秘匿しており、取り出そうとすると何かのはずみにそれがなくなっていたので、馬を相手に殴りつけるやらのやつあたりを演じた揚句、今度は怒った馬に家の中まで暴れこまれるという醜態を披露することになる。農民は素朴でもなければ偉大でもなく、真仰深く敬虔でもあれば恩寵の届かないところでは自分の才覚を生かして生き延びる他はない、つまりそれ以上でもなければそれ以下でもない民衆の等身性をもって描かれている。ただ一つ違うのは、この時代が子供を神の贈り物と考えていたこと、子供は共同体全体で育てなければならないという不文律がまだ生きていた時代であったことだろう。

最後の家族、ミラノの修道尼院を訪ねる新婚の二人を描くタッチだけはオルミ監督の色調までが異なる。まるで宗教画を思わせるような言葉少なの二人の微笑、そして神の国への道行のようなミラノに向かうロンバルディアの船旅、色彩も一変しミレーからルノワールへの明るく変貌する。まるで新婚旅行を兼ねたようなミラノへの旅の終わりに院長は二人に一人の乳児の保育を託す。まさに暗雲の中に射す雲の晴れ間のようにこの場面は小川の水面の煌きのように美しい。

この映画をネオレアリズモの名称で語ることはできないだろう。何ゆえ1978年にこの映画は作られたか。一世紀も前の農村風景の抒情詩を語りたかったためではないだろう。オルミ監督がまだ青年時代を過ごした頃の、高度成長期以前のイタリアの農村にはまだ、このような風景、このような人の善意というものが残っていたのではないのか。それを生き、経験した証人としてそれを一編の叙事詩として残すことは映像作家の義務としてではなかったか。

オルミ監督の映画を見るのは今回が初めてになったが、監督の名前を教えていただいた他のブログのmoさんに感謝します。


この映画に農民精神の偉大さなどを読み込むのは現代人の都合である。
以下、goo映画

あらすじ - 木靴の樹(1978)

あらすじ
19世紀末の北イタリア、ベルガモ。農村は貧しく、バティスティ(ルイジ・オルナーギ)一家は、他の数家族と一緒に小作人として住み込んでいたが、この農場の土地、住居、畜舎、道具そして樹木の一本までが地主の所有に属していた。フィナール(バティスタトレヴァイニ)はけちで知られており、収穫を小石でごまかしていた。ルンク未亡人(テレーザ・ブレッシャニーニ)は夫に死なれた後、洗たく女をして6人の子どもたちを養っていた。ブレナ一家の娘マッダレーナ(ルチア・ペツォーリ)は美しい娘で、勤めている紡績工場のステファノ青年(フランコ・ピレンガ)と交際していた。バティスティ家に男の子が生まれた。バティスティは靴を割ってしまった長男ミネク(オマール・ブリニョッリ)のために、河のほとりに並ぶポプラの樹の一本を伐ってきて、木靴をつくってやった。マッダレーナとステファノの結婚式が済み、ミラノへ新婚旅行に行った2人は、マッダレーナの伯母が修道院長であるサンタ・カテリナ修道院を訪ねた。そこで捨て子の赤児をひきとることにする。ある朝、ポプラが一本伐られていることが地主の目にとまり犯人追求の手がのびた。バティスティの仕業だとわかり、農場を追われることになったバティスティ一家が荷車をまとめていた。この光景を見る者は誰もいなかった。そして、人々は荷車が去ったあとを見守るのだった。

キャスト(役名)
Luigi Ornaghi ルイジ・オルナーギ (Batisti)
Francesca Moriggi フランチェスカ・モリッジ (Batistina)
Omar Brignoli オマール・ブリニョッリ (Minek)
Carmelo Silva カルメロ・シルヴァ (Don Carlo)
Mario Brignoli マリオ・ブリニョッリ (The master)
Emilio Pedroni エミリオ・ペドローニ (The bailiff)
Teresa Brescianini テレーザ・ブレッシャニーニ (Widow Runk)
Carlo Rota カルロ・ロータ (Peppino)
Giuseppe Brignoli ジュゼッペ・ブリニョッリ (Grandpa Anselmo)
Maria Grazia Caroli マリア・グラツィア・カローリ (Bettina)
Lucia Pezzoli ルチア・ペツォーリ (Maddalena)
Franco Pilenga フランコ・ピレンガ (Stefano)
Battista Trevaini バティスタトレヴァイニ (Finard)
スタッフ
監督
Ermanno Olmi エルマンノ・オルミ
製作
GPC
脚本
Ermanno Olmi エルマンノ・オルミ
撮影
Ermanno Olmi エルマンノ・オルミ
音楽
J. S. Bach J・S・バッハ
音楽演奏
Fernand Germani フェルナンド・ジェルマーニ
美術
Enrico Tovaglieri エンリコ・トヴァリエリ
衣装(デザイン)
Francesca Zucchelli フランチェスカ・ズッケリ
字幕監修
山崎剛太郎 ヤマザキゴウタロウ

『さくらんぼの実る頃』 2021/05/05

 週の半ば、水曜日のものぐさで気怠いある日の午前中、朝日を浴びながら朝食の準備からデザート、そして洗いものを終えるまでの一連の作業の流れのなかで 最後はエスプレッソの香りに包まれて長い長い午前中の食事を終えるのですが しばしの気休めにとテレビのスイッチを入れたらパリの街歩きの映像が流れていた。ちょうど町のカフェで男女の老人たちのグループが歌を歌っていて優雅なランチタイムの時を愉しんでいたかに見えたのだが、そのとき歌われていた曲が『さくなんぼの実るころ』・・・・・

 

 数ある恋の歌かとばかり思っていたこの歌が、パリコミューンの歌だということを初めてしりました。テーブルを囲んだ老人のひとりが述懐するようにそう言う事を問わず語りの述べて、さらに向かい合わせの老人が呼応するように 恋も革命も実らないのが宿命だ、などということを微笑みながら語る、ーーまるでパリコミューンの時代からそれほど時間が経っていないかのように。

 

 この歌の歌詞の中で、「開いた傷口」という言葉が出てきて胸に突き刺さります。

 

 さくらんぼの実る頃とはちょうど今頃の季節ですね、三月十八日に始まった人類史を画する祭典の七十二日間はこうして幕を閉じたのでした。

 

 

 

 歴史的過去の感慨にこころうたれて、思い出の日めくりページを捲るように、YouTubeが次に示した候補の画面をクリックして聴くと、それは生々しく臓腑のなかに過去を蘇らせるのでした。ーー老人の感傷とお笑いください。パリコミューンが潰えたとき、主導的な闘士のひとりであったヴァランのかっこいいこと!

 

 もはやこれまでと思い定めたこの老ジャコバンは、広場から敵が布陣する表通りへと、誰もいない影を潜めた戦闘までの最後の静寂だけが支配する大通りを、ひとり、銃口だけが蜂の巣のように無数に穿たれた鈍く光る敵の隊列に向かって 自若としてひとり静かに歩いていくのですね!そして一斉射撃を浴びる!硝煙が石畳とパリの街に流れて。。。

 これが伝えられるパリコミューンを飾る最後の映像であったようです。

 

 加藤登紀子さん、あなたの心の傷口はまだ開いたままですか。

 

 

 

 

 
 

フランス映画”ルージュ”――トリコロール 愛の三部作より アリアドネ・アーカイブスより

 
ポーランドの映画監キェシロフスキの映画を見るのは初めてである。蓮さんという人のブログで紹介されていて、気になっていて今回見る機会を得た。

キェシロフスキの映像は対象をしてそれ自身に語らせるという方法をとるため、観客は推理小説を読むように登場人物の断片的な会話やその一挙一道に気をつけなくてはならない。この結果ヒロインとヒーローが最後まで出会わないまま終わるという、独特の映画作法のつくりになっている。あるいは真の主人公は二人を神秘的な形で、――結果論的に、仲介する退役判事であるのかも知れない。

ドーバーの海難事故が生じる前夜初めて語られる退役判事の過去とは、司法修学生の過去に類似していく。退役判事の満たされなかった過去の愛の傷痕は司法修学生の現在に回帰し、ドーバーの霧の彼方に近未来の虹を結ぶ。スイスのジュネーヴポーランドドーバーの切りを挟んだEU の二つの大国イギリスとフランスの国境を横断し、愛の三部作をそれぞれにおいてフランス国旗の赤、青、白、から選ぶという、未来へのキェシロフスキのメッセージとも読める、この監督の映画人生の最後を飾る遺作となっている。

この映画のテーマとは?。愛とは何かをめぐって退役判事とバランティーヌ の二人が乏しいスタンドの光を頼りに会話する場面がある。愛とは、それが何の役に立つとか、それで何かができるというようなことではなくて、ただそこに存在するというだけで価値ある存在なのだ。

バランティーヌという若い女子学生の存在は、退役判事にとって、そこにいるだけで、ちょうどこの映画が室内光の壁に投げかける陰影の中で撮影されたように、そこに一人の人間が存在しているだけで、生きていることは良いことだ、明日があるということを信じて生きていける、そうした思いを信じさせるような、そんな稀有な存在の明るみなのである。

この映画の中で退役判事が意味するものは何か。物語の背景に法学というヨーロッパ諸学の典型たる理論体系にかかわる登場人物が複数存在することは偶然でない。ヨーロッパ的理性は真理とは何かを絶えず問い続け、良いにせよ悪いにせよ人の運命を裁きつつ自らの支配下にある人民に指示を与え続けた。ヨーロッパ的な認識の学、理性の人に、理想の人間像を託した啓蒙期以降の三色旗の理念の崩壊を、おそらくは暗示するものかもしれない。

真理とは何かを絶えず問い、生半可なバランティーヌの寛容主義的な憐れみや同情の念を問い詰める理性の人、退役判事。盗聴という非合法的な認識の極限態的手段を使役したとしてもそれで何ができるというわけでもない。なぜなら判事の楽しみとは認識のための認識にすぎないからである。わたしの何がいけないのかと退役判事は問う。あなたの全てが、と女子学生は答える。退役判事は自らの行為を社会に告発し、自らの過去に決着をつける。かれは人間を信頼することを学ぶ。しかしそれはドーバーの霧の彼方において生じる、海難事故という非情であるとともに奇跡にも似た愛の恩寵の時間の中においてであった。

奇跡的な生還を伝えるずぶ濡れの映像を伝える単数の生存者の最後に二人はいた。二人は退役判事の夢の中以外では、いまだ近未来において生じるであろう自分たちの運命をまだ知らずにいるのだった、愛というただ一つの、震えるような言葉の予感を除いて・・・


以下、goo映画より

あらすじ - トリコロール 赤の愛(1994)

あらすじ
バランティーヌ(イレーネ・ジャコブ)は、ドーバー海峡の向こうにいる恋人の電話を頼りにモデルの仕事をしながら毎日を送っている。通りを隔てたところには司法試験を目指しているオーギュスト(ジャン・ピエール・ロリ)が住んでいた。或夜、仕事の帰りに飛び出してきた犬を車でひいてしまったことからひとりの初老の男、ジョゼフ・ケルヌ(ジャン=ルイ・トランティニャン)に出会う。ジョゼフは、今や盗聴に人生の真実を見いだす退官判事だった。恋人同士、ヘロインの密売者、妻に秘密でホモセクシャルな関係を維持している男たちの会話を聞きながら、彼はバランティーヌの博愛主義を冷たく笑い、彼女の話から彼女の弟の父親が違うこと、彼が麻薬に溺れていることを言い当てる。しかし盗聴をやめてほしいと懇願するバランティーヌにジョゼフは心を動かされていき、自ら自分の行ってきたことを法の下に知らしめる。バランティーヌは電話で横暴な態度をとり続ける恋人への愛を疑い始めていた。そして司法試験に合格したが恋人が離れていってしまったオーギュストも悲しみに暮れていた。バランティーヌは仕事でイギリスに向かう数日前の自分の出演するファッションショーにジョゼフを招待する。ショーの後、彼女はジョゼフから彼の過去について聞かされる。2人の間には暖かい人間関係が生まれていた。バランティーヌのイギリス行きのフェリーには、オーギュストも乗っていた。ジョゼフは彼女の旅立った翌朝、フェリーが転覆事故に遭い、バランティーヌンとオーギュストを含めた七人が救出されたことを知るのだった。


キャスト(役名)
Irene Jacob イレーヌ・ジャコブ (Valentine)
Jean Louis Trintignant ジャン・ルイ・トランティニャン (Le juge)
Frederique Feder フレデリケ・フェデール (Karin)
Jean Pierre Lorit ジャン・ピエール・ロリ (Auguste)
Marion Stalans マリオン・スタランス (La v8fa1a5t8fa1a5rinaire)
Teco Celio (La barman)
Bernard Escalon (Le disquaire)
スタッフ
監督
Krzysztof Kieslowski クシシュトフ・キェシロフスキ
製作
Marin Karmitz マラン・カルミッツ
脚本
Krzysztof Piesiewicz クシシュトフ・ピェシェヴィチ
Krzysztof Kieslowski クシシュトフ・キェシロフスキ
撮影
Piotr Sobocinski ピョートル・ソボシンスキ
音楽
Zbigniew Preisner ズビグニエフ・プレイスネル
美術
Claude Lenoir クロード・ルノワール
編集
Jacques Witta ジャック・ウィッタ
衣装(デザイン)
Corinne Jorry コリンヌ・ジョリー
録音
William Flageollet
字幕
古田由紀子 フルタユキコ

四月のベスト5

四月のベスト5

テーマ:
 

ベスト5のご紹介です。1は昨年の八月以来一位を更新しています。

5位に、漱石と鷗外を論じたものが入りました。嬉しい限りです。 

 

 

右寄りと左寄り、あるいは政治の色分けについて | アリアドネの部屋 (am

 

eblo.jp)

 

村上春樹 短編『蛍』と『ノルウェイの森』 流行作家が見失ったものと見捨てたもの 2012-11- | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

☆”ノルウェイの森” を廻る二人の悪党 その2 レイコさんの場合――社会事象としての村上春樹・第 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

”ノルウェイの森” を廻る二人の悪党 その1 永沢さんの場合――社会事象としての村上春樹・第5夜 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

漱石『こころ』と鷗外『興津弥五右衛門の遺書』と――乃木希典の殉死をめぐって | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

四月のベスト10 6位から10位まで 

日本文学では、大正期の有島武郎志賀直哉に関するものが入りました。

9位、10位に、日本ではマイナーなヴァージニア・ウルフの本が二冊も入っています。このブログを読んでくださっている方々の傾向といえば言えるでしょうか。ありがとうございます。

 

日本と欧米の自然観の違いについて――富山和子”日本の米”其のほかを読んで(2011/7) アーカ | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

有島武郎 『一ふさのぶどう』 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

『城の崎にて』と『濠端の住まい』 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

ヴァージニア・ウルフ『ジェイコブの部屋』の女たち――黄昏のロンドン(73) | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

10

ヴァージニア・ウルフ『波』 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

デ・シーカにおける”駅”――”ひまわり”と”終着駅” アリアドネ・アーカイブスより

 
デシーカの中でとりわけメロドラマ性の高いこの二作品には、それぞれミラノ中央駅とローマのテルミニ駅が重要な貢献をなしている。とりわけ”終着駅”においては駅の構内でドラマは生れ、終始の全てをここに完結する。”ひまわり”では出征する夫を見送る場面と、戦後のお互いの特別な事情から別々の家庭を営むことになった二人がミラノで一夜を明かし別れる場面に使われ、時の経過を表現している。

この有名な映画を観てなくて、長い間なぜ”ひまわり”なのだろうと思っていた。ロシアに消息不明の夫を探しにいってそこに全面のひまわり畑があったのだが、戦時中戦死した何十万というイタリア兵やロシア兵をその畑の下に埋め尽くした、というのである。スクリーン全面に広がるひまわり畑はあんなに美しいのに、死者の世界から養分を得てあんなにも美しく咲き乱れていたのである。
この映画のテーマは、かけがえのない愛を失っても人は生きうる、あるいは生きねばならない、ということであり、戦後から経済復興を遂げる世の中の変遷を背景に時の残酷さを抒情的に描いていた。

”終着駅”は復興の影すら見いだせない戦後間もない時期のイタリア現代史の諸相を、駅の構内を行き来する群衆の、無目的とも云える彷徨をもとに描いている。このドキュメンタリーと並行してアメリカ人妻とイタリア青年の束の間の、儚い恋の別れが進行する。モノクロの映像は非情な汽笛音とともに叙情性を際立たせて終わる。日常性が崩壊し、いまだ再建の時は遙かに遠く思われる、戦後の過渡期の束の間の時間性ゆえに、あり得ないようなメロドラマが、日常性の尾びれをひきずりつつ映像表現にとどめたのである。

以下、goo映画

あらすじ - ひまわり(1970)

あらすじ
貧無目的とも云える彷徨しいお針子のジョバンナ(S・ローレン)と電気技師のアントニオ(M・マストロヤンニ)は、ベスビアス火山をあおぐ、美しいナポリの海岸で出逢い、恋におちた。だが、その二人の上に、第二次大戦の暗い影がおちはじめた。ナポリで結婚式をあげた二人は、新婚旅行の計画を立てたが、アントニオの徴兵日まで、一四日間しか残されていなかった。思いあまった末、アントニオは精神病を装い、徴兵を逃れようとしたが、夢破ぶられ、そのために、酷寒のソ連戦線に送られてしまった。前線では、ソ連の厳寒の中で、イタリア兵が次々と倒れていった。アントニオも死の一歩手前までいったが、ソ連娘マーシャ(L・サベーリエワ)に助けられた。年月は過ぎ、一人イタリアに残され、アントニオの母(A・カレナ)と淋しく暮していたジョバンナのもとへ、夫の行方不明という、通知が届いた。これを信じきれない彼女は、最後にアントニオに会ったという復員兵(G・オノラト)の話を聞き、ソ連へ出かける決意を固めるのだった。異国の地モスクワにおりたった彼女は、おそってくる不安にもめげす、アントニオを探しつづけた。そして何日目かに、彼女は、モスクワ郊外の住宅地で、一人の清楚な女性に声をかけた。この女性こそ今はアントニオと結婚し、子供までもうけたマーシャであった。すべてを察したジョバンナは、引き裂かれるような衝撃を受けて、よろめく足どりのまま、ひとり駅へ向った。逃げるように汽車にとびのった彼女だったが、それを務めから戻ったアントニオが見てしまった。ミラノに戻ったジョバンナは、傷心の幾月かを過したが、ある嵐の夜、アントニオから電話を受けた。彼もあの日以後、落ち着きを失った生活の中で、苦しみぬき、いまマーシャのはからいでイタリアにやってきたとのことだった。まよったあげく、二人はついに再会した。しかし、二人の感情のすれ違いは、どうしようもなかった。そして、ジョバンナに、現在の夫エトレ(G・ロンゴ)の話と、二人の間に出来た赤ん坊(C・ポンテイ・ジュニア)を見せられたアントニオは、別離の時が来たことを知るのだった。翌日、モスクワ行の汽車にのるアントニオを、ジョバンナは見送りに来た。万感の思いを胸に去って行く彼を見おくるこのホームは、何年か前に、やはり彼女が戦場へおもむく若き夫を見送った、そのホームだった。

キャスト(役名)
Sophia Loren ソフィア・ローレン (Giovanna)
Marcello Mastroianni マルチェロ・マストロヤンニ (Antonio)
Lyudmila Savelyeva リュドミラ・サベーリエワ (Masha
Anna Carena アンナ・カレーナ (Antonio's Mother)
Germano Longo ジェルマーノ・ロンゴ (Etolle)
Glauco Onorato グラウコ・オノラート (Returning Veteran)
Carlo Ponti Jr. カルロ・ポンティ・ジュニア (Giovanna's Baby)
スタッフ
監督
Vittorio De Sica ヴィットリオ・デ・シーカ
製作
Carlo Ponti カルロ・ポンティ
Arthur Cohn アーサー・コーン
製作総指揮
Joseph E. Levine ジョゼフ・E・レヴィン
脚本
Cesare Zavattini チェザーレ・ザヴァッティーニ
Antonio Guerra アントニオ・グエラ
Gheorgis Mdivani ゲオルギ・ムディバニ
撮影
Giuseppe Maccari
Giancarlo Ferrando ジャンカルロ・フェランド
音楽
Henry Mancini ヘンリー・マンシーニ
編集
Adriana Novelli アドリアーナ・ノヴェッリ


以下、名画倶楽部より

終着駅
原 題 : Stazione Termini
(Indiscretion of an American Wife)
製 作 : ヴィットリオ・デ・シーカ、ディヴィッド・O・セルズニック
脚 本 : チェーザレ・ザヴァッティーニ
監 督 : ヴィットリオ・デ・シーカ
撮 影 : G.R.アルド
美 術 : ヴァジリオ・マルチ
衣装デザイン : クリスチャン・ディオール
音 楽 : アレッサンドロ・チコニーニフランコフェラーラ


〈配 役〉
メリー : ジェニファー・ジョーンズ
イタリア人青年(ドリア) : モンゴメリー・クリフト
ポール : リチャード・ベイマー


解 説
 この作品の監督ヴィットリオ・デ・シーカは、ロッセリーニヴィスコンティと共に戦後イタリア映画の芸術的潮流であり、また世界の戦後映画の流れを変えた<ネオレアリズモ>の創始者の一人です。<ネオレアリズモ>とは、新しいリアリズムという意味のイタリア語で、現実(貧しさや社会的矛盾)を直視する態度、ドキュメンタリー的な撮影方法、ロケーションを主体とする現場主義、即興的な演出などがその特徴で、デ・シーカ作品では、1940年代後半の作品である「靴みがき」「自転車泥棒」がその典型的な作品とされています。1950年代に入り、イタリア社会の経済復興にともなって映画芸術運動としての<ネオレアリズモ>はそれぞれの映画作家のもとで分化し解消に向かいます。「終着駅」は、デ・シーカが<ネオレアリズモ>以降の新たな展開を模索していた時期の作品で、ハリウッドのプロデューサー、セルズニックとの合作映画となりました。

 物語は、ローマ・テルミニ駅を舞台にアメリカ人の人妻(メリー)とイタリア人青年との離別を描いたメロドラマです。デ・シーカは、当時新築された大理石とガラス張りのテルミニ駅全体を映画セットと見立てて、完璧なリアリズムの手法で‘終着駅’を映画的に構築しました。メリーとイタリア人青年とのきめ細かな恋愛描写とともに、二人をとりまく駅を行き交う人々(出稼ぎの家族、神父さんの団体、スリや酔っぱらい等々)の描写もまさに<ネオレアリズモ>の巨匠ならではのものです。そしてこの映画の特筆すべき演出手法は、描かれていくドラマの進行時間と映写時間が一致している点です。このドキュメンタリーの究極とも思える演出手法によって、観るものを完全にこのドラマに引きずり込んでいます。私たちは、この二人の男女の激しくそしてせつない別れを目撃したテルミニ駅に居合わせた乗客のような気分にさせられています。デ・シーカは‘愛の物語’を彼ならではのリアリズム手法で描き、映画史上前例のない濃密なメロドラマを作り上げたのです。

 主人公メリーを演じたジェニファー・ジョーンズは、「聖処女」でアカデミー賞主演女優賞を獲得したハリウッドきってのスター女優で、当時のハリウッドで‘恋する女の気持ち’を演じては右に出るものはいないと評されていました。‘恋する人妻’の揺れる心、心を乱しながらも高ぶっていくラブシーンの情熱的な表情など、この作品での彼女の演技は素晴らしく、「慕情」と共に彼女の代表作となりました。また、イタリア人青年の純粋で一途な気持ちを好演したモンゴメリー・クリフトのこの作品への貢献も見逃せません。甥のポール役を演じたのは、後に「ウエストサイド物語」でトニーを演じたリチャード・ベイマーです。

山縣義彦

フランス映画”田舎の日曜日”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
まるで見終わった後小津映画を見るような印象に捉われる。画家としての最晩年の悩み。父親ほどには感受性を受け継がなかった実務型の息子とそれに似合いの嫁。彼には賑やかな娘一人と息子二人の子供たちがいる。そこに長女のめづらかな帰宅が重なる。自己の本性と願望が一致しない不安定な娘、しかし父親の感性はこの娘に最もよく受け継がれたのかも知れない。田舎のレストランの庭園で踊る村人に交わって踊る父子。父親の死が間じかに迫っていることを暗示して映画は終わる。

映画を見終わるとスクリーンの残像のように、生あるものには終わりがあることをしみじみと観念させる。実直一方の長男の家族にも死の影は忍び寄っている。病弱の娘は長生きすることはないのだろう。奔放に生きる長女は父親を喜ばせるような家庭人になることはないだろう。たった一日のパリ郊外の画家のアトリエを舞台に親子三代集う喧騒と静寂を描き、死が常に隣り合わせであるがゆえにこそ、日曜日の午後のけだるい日の長さを思わせる二人のダンスと学音の響きは美しい。

以下 goo映画より引用

あらすじ - 田舎の日曜日(1984)

樹木美しいパリ郊外の田舎の秋。1912年のある日曜日の朝。画家ラドミラル氏(ルイ・デュクルー)は、パリから訪ねてくる息子のゴンザグ(ミシェル・オーモン)一家を駅に出迎える仕度をしている。ラドミラル氏の面倒を長年にわたってみている家政婦メルセデス(モニーク・ショメット)が今朝も台所の準備に余念がない。ラドミラル氏が門を出ると、白い服の少女ふたりが縄とびをしている。駅に向かったラドミラル氏は、道の途中でゴンザグ一家を迎えることになる。彼は70歳を越えた脚のおとろえをまざまざと感じるのだった。ゴンザグと嫁のマリー・テレーズ(ジュヌヴィエーヴ・ムニック)と、孫娘で体の弱いミレイユ(カティア・ボストリコフ)と孫息子たちリュシアン(クァンタン・オジエ)と、エミール(トマ・デュヴァル)らが訪れて、賑やかになったラドミラル氏の邸に、また一人めったに訪ねてこない娘イレーヌ(サビーヌ・アゼマ)がやって来た。それは、最新型4輪自動車ドラージュを運転して愛犬キャビアとともに、みんなが昼食を食べて午睡に入った時だった。パリでファッション・ブティックをオープンしたばかりで若々しく美しい彼女は、久しぶりに実家に帰りリラックスするが、彼女は恋に悩んでいる様子だ。恋人からかかってくる筈の電話を待っているのだ。今はいない母(クロード・ヴァンテール)のイメージが現われてイレーヌに言う。“人生にどこまで望めば気がすむの"。ミレイユが木に登って降りれなくなるという騒ぎが起こる。なんとか救い出されるが、今度は、パリからかかる筈の電話がかかってこないのに苛立ったイレーヌがパリに発つと言い出す。娘をなだめて、自分のアトリエに招いたラドミラール氏。彼は、数年前までは風景画を描いていたが、最近はアトリエの中の椅子等のオブジェを描くように変わっており、そこに父の絵に対する苦悩を見るイレーヌ。屋根裏部屋に行った彼女は、そこで美しいレースのショールをたくさん見つけるが、その奥に情熱的な画を発見し感動する。イレーヌに誘われてドライブに出たラドミラル氏は、森の中のレストランで妻の想い出をしみじみと娘に語る。そんな父にイレーヌはいっしょに踊ってと言い出す。二人が家に戻るとパリからの電話が彼女を待っていた。直後、とりみだして去る娘を、そっと送り出す父。夕方になり、ゴンザクたちをいつものように見送った彼は、帰路、ふたりの少女が目に映る。アトリエに入ったラドミラル氏は新しい画布に向かうのだった。

キャスト(役名)
Louis Ducreux ルイ・デュクルー (Monsieru Ladmiral)
Sabine Azema サビーヌ・アゼマ (Ir8fa1b8ne)
Michel Aumont ミシェル・オーモン (Conzague)
Genevieve Monich ジュヌヴィエーヴ・ムニック (Marie Th8fa1a5r8fa1b8se)
Monique Chaumette モニーク・ショメット (Merc8fa1a5d8fa1b8s)
Thomas Duval トマ・デュヴァル (Emile)
Quentin Ogier クァンタン・オジエ (Lucien)
Katia Wostrikoff カティア・ボストリコフ (Mireille)
Valentine Suard (Petite Fille 1)
Erika Paivre (Petite Fille 2)
スタッフ
監督
Bertrand Tavernier ベルトラン・タヴェルニエ
製作
Bertrand Tavernier ベルトラン・タヴェルニエ
原作
Pierre Bost ピエール・ボスト
脚本
Bertrand Tavernier ベルトラン・タヴェルニエ
Colo Tavernier コロ・タヴェルニエ
台詞
Bertrand Tavernier ベルトラン・タヴェルニエ
Colo Tavernier コロ・タヴェルニエ
撮影
Bruno de Keyzer ブルーノ・ド・ケイゼル
音楽
Gabriel Faure ガブリエル・フォーレ
美術
Patrice Mercier
編集
Armand Psenny アルマン・プセニー
衣装(デザイン)
Yvonne Sassinot de Nesle イヴォンヌ・サシノー・ド・ネスル
字幕
山崎剛太郎 ヤマザキゴウタロウ