アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

演劇空間の誕生 始原への旅・Ⅰ アリアドネ・アーカイブスより

演劇空間の誕生 始原への旅・Ⅰ

2011-02-04 07:03:36

テーマ:絵画と建築

概   要

 

1.はじめに

2.古典古代期のギリシア的演劇空間

3.コンウォールの中世イギリスの円形舞台から野外劇へ

4.大劇場の成立からバイロイトの祝祭歌劇場の演劇空間へ

5.ワグナー歌劇から映画芸術の誕生へ

6.おわりに

 

       劇場空間のなかで観客と演奏者とが、通常プロセニアムアーチと呼ばれる門型の額縁を介して対面する近‐現代の鑑賞の形式はいつの世も不変の、唯一の芸術鑑賞のスタイルなのであろうか。

 主‐客の論理的対立と云う近代主義的な認知構造とパラレルな関係にある近‐現代の演劇スタイルの起源を求めて、ギリシアの円形劇場、中世イギリスの野外劇や教訓劇、さらに私たちの鑑賞形式を根底のところで規定し、完成態として一世を風靡することになるバイロイト祝祭歌劇場におけるワグナーの試みについて触れながら、やがて20世紀に至って代表的でもあれば固有な芸術の一形式として演劇的空間にせり出してくる映画芸術の、現代と呼ばれる時代に占めるその象徴的な役割を文明論的に存在論的に問う。

   20世紀における映画芸術の成立を、主‐客が絶対的に対立する認知の絶対的な疎外態として、主‐客の相互疎外の完成系としてとらえ、そこから如何にして”親密なる空間”としてのギリシア古典古代期のオルケストラやコロスがありえたかの本源的な意味をとらえかえし、そこにおいてこそ初めて人間が人間でありうる“場”としての演劇の存在の意義を問う。

   演劇!諸芸術の王道としての演劇とは、ソクラテスニーチェが正反対の立場から見ぬいていたように恒久不変の絶対空間ではなく、流転し現成する“時制”をもった空間なのである。

 

 

 

1.はじめに

 

 博多座は日本の伝統でき古典芸能の一つである歌舞伎の公演施設として地方都市への文化の保存と振興を期して建設されたが、ミュージカルやコンサート、演劇等や演舞等多様な目的に対応できる、最新機能を生かした多目的ホールである。舞台から見渡すことのできる客席の空間的な広がりと解放感は、いまは客席の椅子に隠れて見えないオーケストラボックスを始めとする花道、脇花道、奈落やセリ、廻り舞台等の舞台設備と諸機構を始め、それを内外から内部の舞台構造まで見学するバックステージツアーに参加すると、まるで最新鋭の航空母艦かメカニズムに立ち会っているような気持ちが去来し、伝統的な古典芸能の幾つかに携わっているのだという感覚を一瞬忘れてしまいそうである。

去年は客席から一般の観客の一人として、今年は立場ところを変えて大学院の授業企画の一環としてツアーの一員としてステージ上という特権的な場所に立たせてもらっているのだが、ちょうどこの二年間の勉学に勤しんだ時間が、まるで一枚の透明な鏡を隔てて向かい合った二人の自分自身が対面しているようで、不思議な感慨に襲われるのである。むしろ私の意識は古典芸能よりも現在研究しているギリシア悲劇や劇場史の影響の方に強く吸引されていて、演歌と演芸が幕を降ろして間もない、紫雲が霞み漂う舞台上から遥かにうち眺められるプロセニアムの彼方の雛壇状の深紅の客席が、まるでエピダウロスの円形劇場かパッラディオの設計になるヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコ、さらにはメトロポリタンやスカラ座等と云った近代を代表する歌劇場の馬蹄状のボックス席に二重に重なって見えたのは、昨夜の夜なべ仕事と、今日の演舞劇が果てて間もない劇場の興奮消えやらぬ人口の紫雲の名残りとが、いまだ後片付けが終わらずに散見される桜吹雪の吹き溜まりが引き起こした半ば幻想と酩酊のせいであったろうか。

しかし、現代の舞台空間は古典古代期のギリシアの円形劇場に、また形状においてもまた精神的な類縁においても少しも似ていはいない。観客席を隔てるプロセニアムアーチの真下に立って客席の床に格納されてあるとされるオーケストラボックスの痕跡を学理的にあるいは機械・機構的に多少強引に想像上再現するにしても、又深い奥行きを持ってせり出してくる二階席や左右のバルコニー席がヨーロッパの主要な古典的な劇場に少しも似ていないことを確認するにしても、昨夜の疲労感と、ツアーに参加できたことからくる歓び、ささやかな私の精神的な興奮状態の中では、その差異は混沌とした天地開闢の坩堝の中に掻き消えてしまうかのようである。

 

 

 

2.古典古代期のギリシア的演劇空間

 

 私たちはいま、古典古代期のギリシアの円形劇場の一角にたっていると仮定する。そこは、例えばそこはシチリアシラクーサの劇場であると特定しても構わない。背後には地中海を球形に囲む蒼穹と青い水平線が広がっていたであろう。そこではいままさにアイスキュロスの“アガメムノーン”が演じられている。私たちはトロイ戦争の概要を知っており、アガメムノーンという人物がだれであり何を成した人物であるかを知っている。かれはいまや一連の一族の不吉な血と運命との廻り来る連鎖によって最終の悲劇的局面に至ろうとしている。その物語一部終始の出来事を中央に位置するオルケストラと呼ばれるこれは古典古代期ギリシア特有の円形の、舞台よりは一段低いステージで、これもまたコロスと名付けられたギリシア悲劇に特有の合唱隊によって語り歌われようとしている。アガメムノンがトロイ戦争の戦利品?カッサンドラを伴って勝利の凱歌を高らかに歌い上げながら、紫色の絨毯が敷かれた勝利の花道を奥へと歩を進める時、現代演劇との顕著な違いが明らかになる。

現代演劇においては物語の一部終始は神の如き位置にある作者の一点透視画的なオリジナル性によって強く規定されており、運命の女神といえどもこれを変えることは出来ない。ニュートン的絶対空間・時間による厳密性と言い換えても良い。同様にギリシア悲劇においては既に完結した歴史的事象としてのホメロス時代の物語と歴史的記憶の経緯とを語る紀元前5世紀のギリシア悲劇の作者と演者、あるいは観客にとってもまた物語空間の起承転結性は自明ではあるのだが、ここではコロスと云う名の合唱団が観客の代理人として、仮面に仮託された演者との一連の演劇的掛け合いを通じてそこに“現在”という時の時制を現出させる。演劇空間はそれが完結した物語的空間として語られる時現在と云う時制の他に過去と未来と云う複数の時制を所有することが出来るのだが、悲劇が現在進行形として生じつつある過程としては現在形以外の形式の取りようがない。悲劇的空間はまさに現成し生じつつあるホメロスの時代の時制に一瞬回帰することによって、悲劇の骨格自体は変わらないにしても、そこでは物語はなお進行中であり完結することのないある種の身体的な臨場性が誕生する。観客は固唾をのんで、あるいはコロスと云う演者兼観客と云う中間的媒介者を通じて舞台裏に、あるいはギリシア悲劇では通常スケーネと呼ばれていた舞台の背面の背後に演者たちが姿を消そうとする間際になってもまだ、正義とは何であるかの議論を通して、いままさに生じつつある舞台裏の不可視の悲劇に介入すべきか否かを自問自答する観客自らのあり方を少しも不思議に思わないのである。物語としては完結していても、演劇空間としては“その都度”的に時制が甦ることによって物語は完結することなく、引き延ばされた現在と云う名の特権的な時制の中に観客は永遠に放置されたままになるのである。ここにギリシア演劇のあるいはアイスキュロスの悲劇の特徴がある。

余談だが、プラトンの有名な“国家論”などに代表される芸術否定論と、プラトンその人が持つ老人性特有の臆病な警戒感は、主として演劇的空間が持つその都度的な臨場性と非完結性にあったことがうっすらとではあれ想像することができる。哲学者であるよりは政治家を志向したプラトンにとって、また芸術と哲学とは評価の位階制としては異なった評価を与えていたとしても、政治の手段としてしか考えていなかった古典古代のギリシア民主制のプラトンと同時代の人々にとっては、演劇的空間が導入する不確定性的な“現在”という時制の導入と、つねに進行過程にあることからくる未完結性は真理に対する許しがたい冒涜であるように彼の眼には映じた、と云うことだけをこの論考では付け加えておく。

 

 

 

3.コーンウォールの中世イギリスの円形舞台から野外劇へ

 

 15世紀に行われたコーンウォールの円形舞台や道徳劇と呼ばれるものの詳細は伝わっていない。僅かに“忍従の城”の舞台図が現存しておりリチャード・ササン博士により概要がほぼ明らかにされていることをサイモン・ディドワースがヨーロッパにおける劇場の変遷の歴史的過程を語ったその著“劇場”において書いている。以下その書に基づいて概要を紹介する。

 そこでは円形舞台のまわりが円周状に掘り状に掘り下げられ、その剰余の土を盛り上げて平たい台形状の演壇となし、観客席をも組み込んだ巨大な円形のステージが形成され、中央には城を象徴する巨大な樹木状のものが、反対の円周上には中心を取り囲むように複数の小高い丘かステージが、それぞれ中世のキーワードである“神”・“悪魔”・“欲望”・“肉体”・“世間“の隠喩的意味を代表して、つまり衆舞台も含めた都合六つの舞台で交互交互に、あるいは同時進行的に舞台進行が進められたものであるらしい。観客は堀で囲まれた台形の円周内に渾然一体として俳優や演出家と混在していたわけであり、物語を知りたいと思えばその何れかの舞台に注目し、そこまで出向いて”見聞“しなければならなかったのである。つまり近代芸術に固有の神の代理人の如き作者の万能性や観客の特権的鑑賞性を保証するような視座は無かったのである。知りたければ知るために”出かけていく“、当たり前のことのようなのだが、不動のものとしての作者や演出家、そして特権的に鑑賞するものとしての観客というあり方は顕著ではなかった。中世の野外劇は、自然という広大な有情の環境下で変幻自在の夢幻の演劇空間を現出させていたのである。

 

2月のベスト10(中間)6位から10位まで

 

 

7月14日 折りたたみ傘をを小脇に抱えて、歩く・・・”ふくろうの森”の折れ曲がった坂道たち | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

漱石『こころ』と鷗外『興津弥五右衛門の遺書』と――乃木希典の殉死をめぐって | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

1月31日(日)晴れ 小戸公園へ | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

有島武郎 『一ふさのぶどう』 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

10

揃洋子の”ラボエーム”――なぜ 私の名前は”ミミ”なのか。(2012/1 ) アリアドネの部屋ア | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

2月のベスト5(中間)

2月のベスト5(中間)

テーマ:
 

 

 

☆”ノルウェイの森” を廻る二人の悪党 その2 レイコさんの場合――社会事象としての村上春樹・第 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

右寄りと左寄り、あるいは政治の色分けについて | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

”ノルウェイの森” を廻る二人の悪党 その1 永沢さんの場合――社会事象としての村上春樹・第5夜 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

村上春樹 短編『蛍』と『ノルウェイの森』 流行作家が見失ったものと見捨てたもの 2012-11- | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

 

フクロウの森の坂道を自転車を押して。。。 | アリアドネの部屋 (ameblo.jp)

西洋舞台演劇史素描・10 アリアドネ・アーカイブスより

西洋舞台演劇史素描・10

2011-08-01 22:39:44

テーマ:映画と演劇

11.おわりに

 

 私たちは“親密な舞台と観客の原初的な関係”を如何にして取り戻すことが出来るのだろうか。それは芸術形式のあれこれの違いを論じることではなく、固有の演劇空間の成立の如何による。演劇空間の意味論的な定立は芸術概念の改変にある。つまりテスト氏の一夜を潜り抜け、その夜明けには何があるのか、という問いである。残念ながら私たちはそれに対応する術を豊富に持っているわけではない。本稿のギリシア悲劇の解釈や中世の道徳劇に関する事例から得られる知見は、若干の示唆と教訓と重要なヒントとを与えるであろう。さらに純粋芸術と大衆芸能の並立的状況を鑑がみながら、あの啓蒙期を生きたインマヌエル・カントが最晩年に志向したとされる美学、とりわけ趣味論は参考になるだろう。またファシズムの時代を潜り生き抜いたドイツの政治哲学者ハンナ・アーレントはカントの美学に準拠し敷衍しながら、味覚に関する秘私的な趣味性についての意義を語っている。そこでは食べ物の好き嫌いのような学問的には何の価値があるとも思えない、最も私秘的なものでもあれば個人的なことどもの底に潜む厳密性を帯びた拘り、プライヴェートでありながら手強いある種の客観的なものの感触を帯びた存在に直面した驚きについて語っている。あえて芸術と云う名の手垢が付いた呼称を用いることを避け、あえて私秘的なもの味覚・間隔・触覚という、従来視覚や聴覚が外部感覚と名付けられた分類からすれば所謂内分感覚として分類されたものを対置し、そこに私秘的ならざるある種の客観的な感じのする“あるもの”、そのあるものの由来こそ実は主観的であるようで主観的でなく、客観的であるようで客観的でもない、存在論的にニュートラルな芸術の起源があり、公共性の痕跡を求めようとする私たちの旅はまだ続くのである。

 古典古代期のギリシアは自由と云うものを知っていた。しかし平等の概念には割合鈍感であった。またギリシア時代は歴史上初めて“公共性”の概念を知っていたけれどもそれは政治的な公共性の意味を超えるものではなかった。そういう意味では芸術を公共性の概念のもとに捉えようとする試みは、かつて人類が経験したことのない新しいページを開くのである。

 

 

 

 

 

【参考文献】

一般に入手が容易な人文科学系や文学・哲学関係の文献は省略いたします。

劇場建築に関しては、下記の書物に多大な示唆を受けています。

S・ティドワース著 “劇場” 白川宣力・石川敏男訳 早稲田大学出版部 1997年

西洋舞台演劇史素描・9 アリアドネ・アーカイブスより

西洋舞台演劇史素描・9

2011-08-01 22:35:24

テーマ:映画と演劇

10.小津映画――銀幕の不思議な輝き

 

 二千数百年に渡る演劇空間史の掉尾を小津安二郎の映画を語ることで語り終わり語り納めようとすることは適当だろうか。一口に小津と云っても戦前と戦後の映画があり、晩年の二三作を除いてはモノクロの映画である。戦後の小市民の哀感を描いたという小津映画は内容的にも技術的にも映画産業の最盛期を代表するものとは言い難い。しかし小津映画の最高峰をなす“東京物語”と“麦秋”においては、人と人との交わりの中に成立する演劇的空間の長い歴史における一つの特殊な到達点を示していると考えられるのである。

 “東京物語”も“麦秋”も戦争の記憶が次第に遠ざかり、日常的な時間が支配的な意味を帯びて来つつある東京と云う都市空間の物語である。“東京物語”では東京と云う名の都市空間は戦後を引きずる記憶の重さゆえに老夫婦の入場を拒み、老婆は故郷で寂しく死んでいき、老人は一人残される。“麦秋”においては永遠の悔いとしての記憶は若い娘に寛容に微笑みかけ次第に日常的時間を取り戻して行くであろうことを暗示して終わる。小津は日本人を代表して喪と再生の儀式を銀幕の上に代行していたことになる。わたしたちが小津映画を見るたびごとに受ける感謝の気持ちは、実は小津映画が戦後において日本人の生と死の実存の様式を代行してくれたことによる。

 小津映画の重要な技法としてのローアングルとは、対象への敬意がもたらしたものであった。それは戦争で亡くなった霊魂に対するものであり、また自分たちに代わって戦後を支える伸びゆく若き世代に対する賛歌でもあった。その賛歌の中心には云うまでもなく東京・丸の内と銀座の空間があった。人々は東京をこよなく愛し、去りがたく“(色々あるけど)東京はいいところだぞ!”と云って惜別の辞を述べるのである。転勤のある朝去りゆく同僚が乗った電車を社窓から見送る、ここに後期の小津映画の一期一会とも云えるものがある。

 小津映画が家族を描いた風俗映画の外観にも関わらず文化史上に描きくわえたものとはなんだったろうか。小津映画は人が立ち去った後の廊下や戸外の洗濯物のはためきの中に非常とも云える超越性の美学を演出する。小津映画における典型性は、日常些事の折節を演出する冠婚葬祭を描く場面であろう。その当時の日本人の風習にしたがって彼らは整列して記念写真を撮る。レンズを通して見るものとみられるものの世界が絶対的に分離され、それは生と死の世界を分けるアナロジーともなる。“親密なるものとしての空間”としてのその反対極における映画芸術と云う名の疎外態芸術の行きつく先を、懐かしく哀しく、それでいて埋めることのできない心の疼きが映画芸術と云う固有の演劇的様式において到達した段階を、われわれは知ることが出来るのである。

西洋舞台演劇史素描・8 アリアドネ・アーカイブスより

西洋舞台演劇史素描・8

2011-08-01 22:32:39

テーマ:映画と演劇

9.20世紀の巨大長編小説の世界

――ジョイスの“ユリシーズ”とプルーストの“失われた時を求めて

 

 時代は前後するが、ここで20世紀初頭の実験的小説の試みについても触れておかなければならない。19世紀に成立した長編小説が西欧的市民社会叙事詩であると云われる意味は、小説がしばしば内的なモノローグの形式として、つまり芸術家が公共的な場から追放され、芸術もまた市民社会の論理、市場原理に則って生きていかなければならないことを確認した時点と奇妙にも符合している。

 さて、しばしば比較され、それにしても統一的に論じられることの少ない二人の作家、ジェイズム・ジョイスマルセル・プルーストという20世紀初頭に現れた巨匠が文学史上の試みは、一言でいえば芸術の力による現実の再構成であり現実の救済である。二人の作家が追い求めたリアリティの質が通常のリアリズムの作家と異なるのは、描かるべき現実は所与として与えられているわけではなく、あくまで再構成されねばならない当為のようなものとしてあった。

リアリティの質が異なれば文体の質もまた変わらねばならなかった。プルーストは”見出された時”と云う文体を創造したが、ジョイスは多様な文体の発見によって、文体と云う国民国家創設以来の19世紀的概念を破壊した。物理学の世界では近代の成立をニュートンの絶対空間と絶対時間と云う概念で説明することが多いが、この点は我が国における明治初年期の標準語の確立とパラレルな関係にある。標準語による多様な言語によって日本人の話し言葉と書き言葉は破壊された。これは文化革命あるいは文化反革命と言っても良いほどに広範囲に日本人の心性を蝕んだ。日本ほどその標準化が徹底化を見た例は世界でも少ないのだそうだが、破壊を文化の破壊として捉える感性を持ちえなかった点に別様の日本の悲劇がありえたのだが、この問題をこれ以上ここで論じるわけにはいかない。

ジョイスが英語を用いて作品を発表したのも偶然性を超える因縁が感じられる。敵性言語で自分の主要な作品を発表したという経緯が日本人である私には大変分かりにくい、多様な文体の創造と標準的言語(英語)の破壊、という事なら私にも分かるような気がする、ものごとを認識するには唯一とでも言える方法があるのかどうかと云うギリシア哲学以来の西洋哲学史上二千五百年をめぐる問いでもあり得る。唯一の知の在り方をめぐる華やかな”饗宴”をプラトンの著作に典型的に見出すことが出来る。 近代においても事情は変わらない。デカルトやカント以来、唯一の言語を求めて彼らは格闘した。事実インマヌエル・カントは自身の哲学をニュートンの主要図書の哲学版であると位置づけていたことはよく知られている。

ジョイスの”ユリシーズ”はマーテロ塔の夜明けを描く自然主義の文体によってはじまり、夜の彷徨を描く教義問答とリフィー川の自然への回帰を思わせる、夢うつつの無人称内的独白の文体で終わる。真理にはそれに接する最適の文体がある事をジョイスは明らかにした。あるいは文体があるごとに見えてくる真実がある、と言い換えても良い。哲学的な表現を使えば、超越論的な磁場の現成と云う事になるのだろうと思う。

一方、マルセル・プルーストは唯一の真理を語る形式(文体)とは、それが死んだものとして、つまり事後的にしか語りえないものであるとして、大幅な真理観の訂正を提案したと云える。人間は生きている限り真実を捉えることは出来ない、あるいは言語の持つ対象定立的な機能が真理とはアンビヴァレンスの関係にある、と言い換えても良い。

20世紀初頭に現れた二人の文学的巨匠が試みようとしたものは、芸術と呼ばれるものが公共性を失い、言いかえれば芸術の中から“劇的なるもの”としての共同性が失われた時、個人のみの力によって生の意義を、芸術の力で復元する事であった。ここにまた音楽の力によって劇的なもの、親密なるものとしての空間を恢復しようとしたオペラ草創期のルネサンスの巨人たち営為の遥かなる残響を聴いたようにも思えて感慨が深い。

西洋舞台演劇史素描・7 アリアドネ・アーカイブスより

西洋舞台演劇史素描・7

2011-08-01 22:30:49

テーマ:映画と演劇

7.大劇場の成立からバイロイトの祝祭歌劇場の演劇空間へ

 

 今日われわれが具体的な劇場としてイメージする近代的演劇空間の誕生がどの段階であったかについては詳細の論議と議論が必要だが、概略的・演劇史的には新古典主義の成立、つまり14世紀から15世紀にかけての“ルネサンス”とのちに呼称されることになる時代、代表例としては先述のパッラディオによるヴィチェンッアのテアトロ・オリンピコ劇場の成立をもって嚆矢とするということについては大きく論議が逸れることにはならないであろう。ヴェネツィアフィレンツェ都市国家から始まり、フランスを始めとする西欧諸国における国民国家成立におけるバロック期の華としてのオペラの隆盛に至るまで、この間の興味ある有為転変の事象や経緯については他書に譲りたい。ここでは国民国家の国威掲揚事象の極限態としてのバイロイト祝祭歌劇場の演劇空間が何であったのかを簡単に触れるにとどめたい。

 さて、私たちはいまバイロイトの祝祭歌劇場の観客席の一隅に座っているとする、そこで最初に気付くのは目の前にある大仰な三重のアーチに隈どりされたプロセニアムアーチと、その背後にある舞台空間である、観客席と舞台を厳密に区分するおどろおどろしさに圧倒されることであろう。さらに詳細に目を凝らすと舞台最前列のオーケストラボックスは灰色のフードに囲われて観客席からは全く見えない。やがて照明がおとされ神秘の彼方から“姿なき”オーケストラピットから立ち上ってくる音響の呟きはやがてファンファーレの奏でる大音響となって演劇空間を超越的なイメージで満たすであろう。

純粋な標準条件による純粋芸術の鑑賞、ここにおいて私たちは舞台の下に深くえぐられたオーケストラボックスを舞台機構上の知識を活用し“想像”しながら、かつての、ギリシア円形劇場で見聞したオルケストラとコロスの媒介的な役割、つまり演劇空間と観客席を繋いだ役割の完全なる消滅を確認するのである。オルケストラという場の演劇的空間の消滅は単に音響的効果や視覚的効果と云う観点のみでは評価できないある種の本質的な変化をヨーロッパの演劇空間に導入したかのようである。つまりここでは、ほの暗い客席に押し込められた観客は一方では絶対的な受動態としての美的傍観者、ディレッタントもしくは単なる美的鑑賞者として、他方ではワグナーの決まり切ったお涙ものの甘ったるい、男尊女卑のイデオロギーに露骨に粉飾された凡庸な道徳劇に付き合わされる羽目になるのである。ワグナーのオペラとバイロイト祝祭歌劇場の演劇空間から失われたものこそ、遠いギリシア時代の円形劇場にありえた、完結した定型性を嫌う古典古代のギリシアの雄渾な悲劇精神、たとえ悲劇的結末が避けられない運命として登場人物の上に君臨するものであったにしても、英雄とは怯むことなくそこに踏みとどまり、“現在”という名の時制変化を持ちこんだ古典古代のギリシアの人々の心意気こそ、古典古代期の生き生きとした都市国家市民社会における民主主義的精神の具現した偉大な姿なのである。

 

 

 

8.ワグナー歌劇から映画芸術の誕生へ

 

 建築家が演劇的空間において何を成しうるのかは一義的には語れないし言えもしないであろう。建築とはいつの世も支配的な時代的価値観の集大成として、歴史に“立ち遅れて”到達する。時代を先験的に読み解く技術としては建築は不適当な技術なのだ。総合芸術としての建築に与えられた偉大な役割は他にある。例えばアクロポリスフィレンツェの花の大聖堂が切り開いた偉大なる造形性と空間的告知のように。

 私たちは、ギリシアの円形劇場、中世の野外劇、そしてワグナーによるバイロイト祝祭歌劇場等の改革と結末と教訓を通じて、わずか三例のみのケーススタディーではあるが、概略、西洋における演劇空間の発展と省長の歴史を振りかえってみたのである。

 その中でもとりわけ現代に教訓を残した事例としては、ワグナーの諸改革とバイロイト祝祭歌劇場における試みであろう。ここで顕著に言えるのは、常に時代の後追いをするように自己実現を図って来た建築と名付けられた芸術の様式が、ここではワグナーとルードヴィッヒという理解者とパトロネージに恵まれて、初めて芸術家の理念が先行的に実現する劇場空間と劇場建築とが可能となったことである。そしてその評価はいままでの論述にもある通り現在においてもなお賛否両論の渦中にある。

 その理由の一つは、芸術と云う概念をどのように理解するかについての共同合意が学理的に成されていないことにあるのではないだろうか。より厳密な云い方をすれば芸術と共同性を繋ぐ意味論的な脈絡が希薄なのである。純粋芸術はこのあと、音楽の世界ではマーラーリヒャルト・シュトラウスからシェーンベルグをへて現代音楽へ、文学の世界でもボードレールによる芸術至上主義の宣揚からヴァレリーの“テスト氏”の一夜に至るまで、その他彫刻や絵画の世界においても純粋芸術の概念には揺らぎがないかのようである。そしてその対極としての娯楽芸術、大衆演劇もまた健在なのである。かかる両芸術の平和共存的なあり方の中で何が必要不可欠で、何が失われたのかという問いが切実に問われた事はなかったのである。

 最後に、純粋芸術であると同時に大衆芸能でもありえたワグナーの歌劇とバイロイトの祝祭歌劇場の演劇空間を意味するものが何であったか、これを20世紀以降著しい興隆を示してくる映画芸術との関係について論じることで締めくくりとしたい。

 再び話は古典古代のギリシアに戻って、あの円形劇場のオルケストラと云う名の円形の空間とコロスという名の合唱団が果たしていた中間的な役割の中で、観客は純粋な傍観者として芸術や自然に対峙するのではなく共同参画的な空間を生きていた。時制変化においても現在とは、未来と過去の中間に成立する抽象的な存在ではなく、生き生きとした臨場性あふれる現代の流行りの表現を使えば身体的な言語として成立していた。この関係を強引に擬-近代主義的な主客分裂へと持込み、ギリシア悲劇的な“対話”の理念から法廷的な“論争”へと屈折させたのはかのソクラテスプラトンとであった。こののちアリストテレスの努力があるにはあったが、この趨勢を根本的に挽回するには至らなかった。

 ソクラテスプラトンの哲学とは、端的にいえば“みること”に準拠する哲学、すなわち純粋なアタラクシア、“観照”の学なのである。プラトンの哲学を支配しているのは見ることに準拠した、より正確により精度よくものを見極めることのできる認識の学、なのである。近代市民社会と資本主義社会の勃興の時期と哲学的な認識論の隆盛がルネサンス以降プラトン哲学の再評価と結びついたことは怪しむに足りない。ここに正しくものを見るとは見るものの思惟と眼差しの鮮明度のほかに、主客を繋ぐ適度の距離感と云うものが前提されなければならない。近代人のものの考え方とは、この距離感を自明のものとすることによって成立した。この距離感の中から一方では人間の優位さと搾取されるものとしての自然観が、他方ではこの敵対関係に準拠する自然と人間の関係が、そのまま社会に持ち込まれて資本家と労働者の対立へと、資本主義的な貧富の格差の起源になった。こんにち我々が眼にするプロセニアムアーチを境にして鋭く分岐する舞台と観客席の関係は、また最前列の座席の下に押し込められたオルケストラの痕跡とは、かかるものごとの隠喩にほかならなかったのである。

 こうして疎外態(物象化)としての芸術、自己疎外の極限態としての芸術としての映画芸術が20世紀に誕生することになる。ここでは映画芸術の是非を、本質論としての良し悪しを論じているのではない。疎外態として現れた芸術の2500年の歩みの中から最も典型的な経緯として映画芸術が誕生することになる歴史的過程の、その象徴的な意味に注目していただきたいのである。

 周知のように、映画芸術においてはプロセニアムアーチは物理的にそれが有ろうが無かろうが本質的に映画芸術に内在的に固有なものとして本質化されている。例え屋外公園のような野外の仮設ステージで演じられるとしても、夜の暗闇がプロセニアムアーチの代役をする。映画の場合はプロセニアムサーチの存在はたまたま偶然にあるという在り方ではなく、より本質的なのである。つまり映画芸術は、自分ではないものとしての極限態としてのあるものの存在をスクリーンの彼方に華やかにも投影する。昔の日本人はこれをいみじくも“銀幕”と表象した。そこには手の届かない庶民の憧れと、銀幕やハリウッドスターたちのオリンポスもどきの天上的世界を垣間見る奇跡のような空間がありえた。映画芸術が20世紀後半、姉妹関係にあるとも言えるテレビジョンに一方では押されながらも、一定の影響力と視聴者の感性的支持とを保持できた最大の理由はここにあった。つまり20世紀の観客にとって“銀幕”の彼方の私生活とは、ちょうどフランツ・カフカの主要な登場人物にとっての社会機構や官僚制が、見通しが利かない有無を言わせない権威の絶対性を持つように、そこではその敵意の反転された形としての庶民の夢や憧れが逆投影された形として、つまり語の正確な意味における“現代芸術”として将に成立していたのである。

 もちろんかかる理由をもって映画芸術の存在が否定されるわけでもない。建築が歴史を後追い的に実現した技術であるように、映画には映画のまた違った特性と役割と云うものがある。映画がこの約束事を忘れる時、例えば1960年代のジャン・リュック・ゴダールの映画“ヴェトナムを遠く離れて”や、ペーター・ヴァイスの長大な題名を持つ映画“サド侯爵の指導のもとにシャラントン精神病院の演劇グループによって演じられたジャン・ホール・マラーの迫害と暗殺”劇のように、舞台と観客は敵対的な関係のものとなるのは象徴的である。こうして私たちはギリシアの円形劇場から2500年の時空を一巡するかのようにひと廻りして、殺伐とした現代の演劇空間の世界に佇む自分自身の肖像を見出すことになるのである。映画芸術とは、そうした時代に固有の、象徴的な表現形式なのである。