アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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西洋舞台演劇史素描・8 アリアドネ・アーカイブスより

西洋舞台演劇史素描・8

2011-08-01 22:32:39

テーマ:映画と演劇

9.20世紀の巨大長編小説の世界

――ジョイスの“ユリシーズ”とプルーストの“失われた時を求めて

 

 時代は前後するが、ここで20世紀初頭の実験的小説の試みについても触れておかなければならない。19世紀に成立した長編小説が西欧的市民社会叙事詩であると云われる意味は、小説がしばしば内的なモノローグの形式として、つまり芸術家が公共的な場から追放され、芸術もまた市民社会の論理、市場原理に則って生きていかなければならないことを確認した時点と奇妙にも符合している。

 さて、しばしば比較され、それにしても統一的に論じられることの少ない二人の作家、ジェイズム・ジョイスマルセル・プルーストという20世紀初頭に現れた巨匠が文学史上の試みは、一言でいえば芸術の力による現実の再構成であり現実の救済である。二人の作家が追い求めたリアリティの質が通常のリアリズムの作家と異なるのは、描かるべき現実は所与として与えられているわけではなく、あくまで再構成されねばならない当為のようなものとしてあった。

リアリティの質が異なれば文体の質もまた変わらねばならなかった。プルーストは”見出された時”と云う文体を創造したが、ジョイスは多様な文体の発見によって、文体と云う国民国家創設以来の19世紀的概念を破壊した。物理学の世界では近代の成立をニュートンの絶対空間と絶対時間と云う概念で説明することが多いが、この点は我が国における明治初年期の標準語の確立とパラレルな関係にある。標準語による多様な言語によって日本人の話し言葉と書き言葉は破壊された。これは文化革命あるいは文化反革命と言っても良いほどに広範囲に日本人の心性を蝕んだ。日本ほどその標準化が徹底化を見た例は世界でも少ないのだそうだが、破壊を文化の破壊として捉える感性を持ちえなかった点に別様の日本の悲劇がありえたのだが、この問題をこれ以上ここで論じるわけにはいかない。

ジョイスが英語を用いて作品を発表したのも偶然性を超える因縁が感じられる。敵性言語で自分の主要な作品を発表したという経緯が日本人である私には大変分かりにくい、多様な文体の創造と標準的言語(英語)の破壊、という事なら私にも分かるような気がする、ものごとを認識するには唯一とでも言える方法があるのかどうかと云うギリシア哲学以来の西洋哲学史上二千五百年をめぐる問いでもあり得る。唯一の知の在り方をめぐる華やかな”饗宴”をプラトンの著作に典型的に見出すことが出来る。 近代においても事情は変わらない。デカルトやカント以来、唯一の言語を求めて彼らは格闘した。事実インマヌエル・カントは自身の哲学をニュートンの主要図書の哲学版であると位置づけていたことはよく知られている。

ジョイスの”ユリシーズ”はマーテロ塔の夜明けを描く自然主義の文体によってはじまり、夜の彷徨を描く教義問答とリフィー川の自然への回帰を思わせる、夢うつつの無人称内的独白の文体で終わる。真理にはそれに接する最適の文体がある事をジョイスは明らかにした。あるいは文体があるごとに見えてくる真実がある、と言い換えても良い。哲学的な表現を使えば、超越論的な磁場の現成と云う事になるのだろうと思う。

一方、マルセル・プルーストは唯一の真理を語る形式(文体)とは、それが死んだものとして、つまり事後的にしか語りえないものであるとして、大幅な真理観の訂正を提案したと云える。人間は生きている限り真実を捉えることは出来ない、あるいは言語の持つ対象定立的な機能が真理とはアンビヴァレンスの関係にある、と言い換えても良い。

20世紀初頭に現れた二人の文学的巨匠が試みようとしたものは、芸術と呼ばれるものが公共性を失い、言いかえれば芸術の中から“劇的なるもの”としての共同性が失われた時、個人のみの力によって生の意義を、芸術の力で復元する事であった。ここにまた音楽の力によって劇的なもの、親密なるものとしての空間を恢復しようとしたオペラ草創期のルネサンスの巨人たち営為の遥かなる残響を聴いたようにも思えて感慨が深い。