アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画”魔笛”をみる

映画”魔笛”をみる

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モーツアルトの”魔笛”が他愛ない筋書きのオペラであるということは言っておかなければならない。単純な善悪二元論と、王子タミーノの婚約者を獲得するまでの成年期固有の成長物語である。この物語は、実は途中で逆転物語となる。タミーノを救った夜の女王が実は悪者で、悪逆非道と思われていた元夫のラザストロが実は、聖者にも比すべき善人であったという設定である。

そのような意味では、終始黒ずくめの衣装で登場する夜の女王の描き方は生彩を欠く。本当は理性の光によって追放された神々の含意を意味していたはずなのであるが、オペラではこの上ないアンサンブルを響かせる三人の侍女とともに、その描き方に物足りなさを感じる。

魔笛”がモーツァルトオペラにおける位置は、この最後のオペラが他のモーツアルトオペラと異なりドイツ語で歌われているという点にあるといわれている。事実、映画”アマデウス”にもあるように、モーツァルトの一生は、権威とイタリア音楽への絶えざる反抗の人生であった。生涯の終りにドイツ語でオペラを歌うとは、モーツァルト個人にとっては反骨の一生を仕上げる総決算のようなものであった。

このオペラにはまた、これもまた最晩年の問題作”レクイエム”に見るように、ドイツ音楽、とりわけプロテスタント系のバッハの音楽への回帰が見られるという。終始バスで朗々と歌うラザストラの歌唱は、興隆するドイツ音楽の伝統を暗示している。翻って、追放される夜の女王を特徴ずける歌唱法、”コロラトゥーラ”とはイタリアオペラを象徴する歌唱法だったのである。

魔笛”そのものの中に、ヨーロッパオペラ史が象嵌されているともいえるわけで、ここに”魔笛”の音楽史上の重要さ、さらにはモーツアルト音楽の集大成がある、という指摘はその通りだろう。しかし高名なオペラであるにもかかわらず、歌唱の持つ艶や音楽性の点で、やはり盛期を過ぎているという印象は否めない。


作品解説・紹介 - 魔笛 2007年日本公開

第一次世界大戦下の塹壕で、若い兵士タミーノは毒ガスに命を狙われ気絶する。それを救ったのは夜の女王の侍女を務める三人の従軍看護婦だった。タミーノの前に現れた夜の女王は、さらわれた娘パミーナの救出を依頼し、彼に魔法の笛を託す。タミーノは兵士パパゲーノと共にザラストロの城砦へと向かい、そこでパミーナを見つけた。二人はすぐに恋に落ちるが、タミーノは愛を成就するたこのめ、困難な試練に立ち向かうことになる。

魔笛」はモーツァルトの晩年に作られた彼の最後のオペラであり、また彼の最高傑作とも言われている。ストーリーの軸は若い男女の恋物語だが、モーツァルトが会員だったフリーメイソンの教義や、ゾロアスター教善悪二元論なども盛り込まれ、興味はつきない。今回の映画化は、『ヘンリー五世』『ハムレット』などシェークスピア作品の映画化の第一人者である英国の巨匠ケネス・ブラナーが演出を担当。舞台を中世のファンタジックな世界から第一次世界大戦下のヨーロッパに移し、平和への祈りをテーマにした9.11以降の今日的な作品に脚色。CGを多用した映像は大胆で、とくに冒頭のワンシーン・ワンショットは見るものに強い印象を残すだろう。

監督・脚本
ケネス・ブラナー
音楽
ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト
出演
ジョセフ・カイザー
エイミー・カーソン
ルネ・バーベ
リューボフ・ペドロヴァ
ベンジャミン・デイ・デイビス

六月のベスト10(中間)

 

 

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六月のベスト5(中間)

六月のベスト5

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 六月のベスト5(中間)は以ーが下の通りです。

 オペラのついてのエッセーが初めて首位に出てまいりました。嬉しいです。

 2位から4位は例によって村上春樹のもの、5位には私の政局論が、昨年の八月以来保っていた首位の位置を手放したことがこの位置に、決定的な現象として現れました。

 

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ル・コント”髪結いの亭主”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
ル・コントの映画は二本目ということになる。”仕立て屋の恋”同様、映画作りの巧みさには驚ろかせれる。この映画で描かれたした町の片隅の理髪店で密かに成就された秘められた中年の恋物語はフランス映画ならではと思われる。素材の特殊性がを処理するためには、ある程度の文化や感受性の蓄積がなければ不自然な映画に仕上がったであろう。

この映画は生の充実と老いというものを描いて、そのエピソードは神話的な域に達している。主人公が結婚することになる美容室の女店主がこの世のものとは思えない美しさなのである。ところで美しさというものは長続きしない。だから美しさがしぼむ前に女店主は主人公の前から姿を消す。雷が鳴り響く嵐の夜の最後の愛欲シーンがたとえようもなく哀しい。

とはいえ、前作とは異なって愛そのものがル・コントという人には分かっていたのだろうかという疑念を密かにもった。女性への神がかりじみた憧憬や無垢であることの喜びは、例えばフランソワ・トリュフォーであればもう少し違った形で描いたであろう、という気がする。

同じ少年の感受性がそのまま大人になったといっても、ルコントとトリュフォーでは何かが違う。その違いは愛を描く作家の眼差しが、ル・コントにおいて、モノ化の熟成度が遙かに高いのである。トリュフォーの場合は性にしても会いにしても少年期のたゆたいのままに、明瞭な像を結ぶことを拒否しているような処がある。ル・コントの場合は少年期の眼差しが中年の肉体にそのまま接木されたような不自然さがある。

トリュフォーにおいては、少年期の感受性が、それはそれであるがままに、年齢に応じて再定義され進化されていたのかも知れない。無時間的な純粋性を保つとはそうした普段の定義と再定義の交互作用を常に自分自身に課すことなのかもしれない。記憶や感受性というものがそのような動的な作用を失って、過去のある段階で成長を止め、固着化するようであれば、それはこの映画に見るような何か過去の生けるがごとき標本類を見せられた時に感じる 違和に通じているような気がする。


goo映画より

あらすじ - 髪結いの亭主(1990)

あらすじ
ドーヴィルの海岸沿いの家に住む少年アントワーヌ(アンリー・ホッキング)。彼は床屋に行くのが大好きだった。一人で店をやっている、ふっくらとした美人のシェーファー夫人(アンヌ・マリー・ピザーニ)の髪に触れる手触りや彼女の体臭にうっとりする時間は彼にとって至福のときだった。ある暑い日、白衣のボタンを多めにあけたシェーファー夫人の胸に見入ったアントワーヌは、興奮して何も手につかず、夕飯の時に「女の床屋さんと結婚する!」と宣言してしまう。突然のことに驚いた父(ローラン・ベルタン)は彼をブン殴ってしまうが、彼は心を固く決めたのだった。それから10数年後、大人になったアントワーヌ(ジャン・ロシュフォール)は、一軒の床屋で美しい女理髪師マチルド(アンナ・ガリエナ)を見かける。「自分の結婚相手はこの人しかいない」と心に決めたアントワーヌは店に入り、散髪の途中で唐突に求婚の言葉を咳く。彼女は聞こえなかったようにそれを無視し、彼を外に送り出す。彼女の気持ちを測りかねながらも、アントワーヌは、「強く念じれば必ず願いは叶う」という父の言葉を胸にひたすら念じる。三週間後、店を訪れたアントワーヌにマチルドは「あなたの言葉に心を動かされました。あなたの妻になります」と。彼の夢は叶ったのだ。ささやかな結婚式をあげ、2人は一緒に暮し始める。夢が叶ったアントワーヌは彼女以外何も要らなかった。仕事も、友人も、子供さえも。2人の店に様々な客がやって来ては帰って行き、幸福で静かな日々が続く。昔のことはあまり語りたがらないが、アントワーヌを深く愛しいつも静かに微笑んでいるマチルド。しかし、ある雷雨の日、客のいない店の中で愛を交した後、マチルドは「買い物にいく」と言って雨の中に飛び出していく。次に出会った時、マチルドは川から引き上げられ息をひきとっていた。彼女は水の中に身を投げたのだ。「あなたが心変わりして不幸になる前に死にます」という手紙を残して。マチルドのいない店の中で、一人アラブの音楽にのせて踊り続けるアントワーヌの姿があった。

キャスト(役名)
Jean Rochefort ジャン・ロシュフォール (Antoine)
Anna Galiena アンナ・ガリエナ (Mathilde)
Henry Hocking アンリー・ホッキング (Antoine 8fa1b7 12 ans)
Anne Marie Pisani アンヌ・マリー・ピザーニ (Madame Shaeffer)
Roland Bertin ローラン・ベルタン (P8fa1a5re Antoine)
Maurice Chevit モーリス・シュヴィ (Agopian)
スタッフ
監督
Patrice Leconte パトリス・ルコント
製作
Thierry de Ganay ティエリー・ド・ガネー
脚本
Patrice Leconte パトリス・ルコント
撮影
Eduardo Serra エドゥアルド・セラ
音楽
Michael Nyman マイケル・ナイマン
編集
Joelle Hache ジョエル・アッシュ
字幕
寺尾次郎 テラオジロウ

ロメール監督”パリのランデヴー” アリアドネ・アーカイブスより

 
この映画はオールロケーションであり、手持ちカメラや、車いすにカメラを積んでドキュメンタリータッチで造られた映画である。第一話では、不実な恋人が喫茶店でほかの女性と逢い引きをしているという噂を聞きこんで、幾つかの偶然が重なり、恋がご破算になる話。特に美しいわけでもなく醜くもないパリの学生街を点景に若者たちの日常を、さして深刻でもなく描いている。(当事者たちにとってはそうとも言えないかもしれない)
第二話は、中年男女の取るに足らない恋の駆け引きの話。ここでは大学の教員である男は、不実な恋人を持て余す女性の心理的な均衡を保つための代償行為として利用されるだけである。大学教員のわびしさが際立つ幕切れだが、女性の絶望と苦悩はあえて描かない。リュクサンブール公園をはじめとする何気ないパリの公園風景が背景として紹介されている・
第三話はピカソ美術館のある界隈が舞台である。行きずりの男女がアトリエで絵画論をかわすというだけの映画である。二人はお似合いであり、ロマンスがあってもいいなという気はするが、女性は新婚早々であるらしく、背後には充実した生活があるようだ。女性は主人公のしつこいアタックにも思いやりをこめて、しかしあとくされの言質は与えないようにきっぱりとして去っていく。物語以前の普通の人々を、それ以上にも以下にも描かないロメールのカメラは暖かい。


goo映画より

あらすじ - パリのランデブー(1994)


あらすじ
〈第一話:7時の約束〉法学部の学生エステル(クララ・ベラール)は試験を控えているが、恋人のオラス(アントワーヌ・バズレル)が自分に会わない日の7時ごろに喫茶店で別の女の子とデートしているという話を聞かされて勉強も手に付かない。朝、市場で買い物中のクララは見知らぬ男に愛を告白され、ふと思いついてオラスがデートしていたという例の喫茶店に夜7時に来るように言う。その直後彼女は財布がないのに気づき、さてはあの男にスラれたと思う。夕方、アリシー(ジュディット・シャンセル)という女の子が財布を拾って届けてくれた。彼女は7時に例の喫茶店で待ち合わせがあるというので、エステールも件のスリとの待ち合わせの話をして一緒にいく。予想どおり、アリシーのデートの相手はオラスだった。エステルは彼に愛想が尽きる。アリシーも事態を察して去ると、そのテーブルに朝の市場の青年が腰掛け、人を待つ風でビールを注文する。

〈第二話:パリのベンチ〉彼(セルジュ・レンコ)は郊外に住む文学教師、彼女(オロール・ローシェール)は同棲中の恋人が別にいるらしい。9月から11月にかけて、二人はパリの随所にある公園でデートを重ねる。彼は彼女を自宅に連れていきたいが、彼女は貴方の同居人がいやといって断る。彼女の恋人が親類の結婚式で留守にするとかで、彼女は観光客になったつもりでホテルに泊まろうと提案する。いざ目的のホテル前で、彼女は恋人が別の女とホテルに入るのを見る。別れるのは今がチャンスという彼に、彼女は恋人がいなければあなたなんて必要ないわ、と告げる。

〈第三話:母と子1907年〉ピカソ美術館の近くに住む画家(ミカエル・クラフト)を知人の知り合いのスウェーデン女(ヴェロニカ・ヨハンソン)が訪ねる。彼は彼女を美術館に連れていく。八時に会う約束をしてアトリエに帰るその途中、彼は若い女(ベネディクト・ロワイヤン)とすれ違い、彼女を追って美術館に入る。彼女は『母と子1907年』の前に座る。彼はスウェーデン女と合流し、その名画の前で例の女性にわざと聞こえるように絵の講釈を始める。彼女が席を立ち、彼はあわてて別れを告げて女を追って美術館を出て、道で声をかける。彼女は自分は新婚で夫は出版業者、今度出る画集の色を原画と比べに来たのだという。彼はめげず、彼女も興味を覚えて彼の絵を見にアトリエに行く。二人は絵画談義を交わし、結局何もないまま女は去る。画家はしばし絵筆を取って作品に手を加え、スウェーデン女性との待ち合わせの場所に行く。だが時間が過ぎても女は現れない。家に帰った画家は絵の中の人物を一人完成させ、「それでも今日一日まったく無駄ではなかった」と呟く。

解説
ヌーヴェルヴァーグの映画手法をもっとも忠実に守りながら、70歳を越えてなおシンプルでみずみずしい作品を連発し続けるエリック・ロメールが3話構成のオムニバスで描く恋愛コメディ。前作「木と市長と文化会館 または七つの偶然」に続き、スタッフは、製作のフランソワーズ・エチュガレー、撮影のディアーヌ・バラティエ、録音のパスカル・リビエ、編集のメアリー・スティーブンがそれぞれ担当。出演は、人気モデルで映画出演は「アリア」ロバート・アルトマン編以来となるベネディクト・ロワイヤン、これが日本初公開作になるクララ・ベラール、演劇を勉強中の新人のオーロール・ロシェほか。三話のうち最後の挿話の題「母と子1907年」はパブロ・ピカソの絵画の題名から。

キャスト(役名)
Clara Bellar クララ・ベラール (Esther)
Antoine Basler アントワーヌ・バズラー (Oras
Mathias Megard (市場の男)
Judith Chancel ジュディット・シャンセル (Alichie)
Malcom Conrath (Felix)
Cecile Pares (Ermione)
Olivier Poujol (カフェのボーイ)
Aurore Rauscher オーロール・ロシェ (彼女)
Serge Renko セルジュ・レンコ (彼)
Michael Kraft ミカエル・クラフト (画家)
Benedicte Loyen ベネディクト・ロワイヤン (若い女
Veronika Johansson ヴェロニカ・ヨハンソン (スウェーデンの女)

スタッフ
監督
Eric Rohmer エリック・ロメール
製作
Francois Etchegaray フランソワーズ・エチュガレー
脚本
Eric Rohmer エリック・ロメール
撮影
Diane Baratier ディアーヌ・バラティエ
編集
Mary Stephen メアリー・スティーブン
録音
Pascal Ribier パスカル・リビエ

五月のベスト10

五月のベスト10

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 7位と9位に、私のサイクリング日誌とウォーキング日誌が、二つも入ってしまいました。

 そのほかは、富山和子の環境論、志賀直哉に関するもの、檀一雄について書いたものなどが入りました。

 まだまだ他に素材としてだけ言うならば価値のあるものが沢山あります。ギリシア悲劇シェイクスピアについて書いたもの、ヘンリー・ジェイムスやジョイスヴァージニア・ウルフ、E・M・フォースターに関するものなど、読んでいただきたいですね。

 

 

 

 

 

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五月のベスト5

五月のベスト5

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 特に目新しい事はないのですが、昨年の八月より一位を保持していた「右寄りと左寄り、・・・」が首位を明け渡すことになりました。村上春樹については、一応評価はするものの、全体的な基調としては否定的な判断を下している現状では、私にとっては不本意な出来事です。文学は、好き嫌いの問題であるので如何ともし難いのですが、一言で私の趣意を説明すれば、村上の文学が過去の伝統とも切断されていること、文学の進行途上国的な意味での植民地的雰囲気が私の愛国心と日本の矜持の意味から見過ごせないのです。反面、伝統との切断はそれだけ読者を選ばず、平民的で平等主義的であることは認めなければなりません。しかし文学や文化は平等主義では論じきれないのも間違いのないことなのです。悪しからず!

 また、その他のベスト5の中に村上春樹ものが三項目入っているのはやむを得ないことだとは思いますが、5位にゲーテの『親和力』論が入ったのは嬉しいです。ゲーテなどのこの本を読むと、つくづく彼の怖さというものを感じます。反面彼が偉人然とした風貌の傍で見せる人間性を哀惜します。