アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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鳩の翼があったら! アリアドネ・アーカイブスより

鳩の翼があったら!
2013-05-17 16:40:48
テーマ:文学と思想

・ ヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』の最初の方で、主人公のケイト・クロウが生活不能者の父親を訪ねる場面がある。普通であれば働かざる者食うべからざるの論理から云えばこの男に何事かを云える権利があろうとも思えないのだが、これがなかなかに言うし人間離れした押しの強さや厚かましさを発揮するところは、表現は穏当ではないが元牧師か元校長(教育関係者)と云う感じなのである。その中に、人生に起きる出来事は分からないもので、理解する前に人は死んでしまう、と云う述懐がある。全てを理解するためには人生は短いと云う懐古的言説なら分かるのだが、人生はほどほどの長さなのだが何事も解らないまま人生の方が勝手に終わってしまう、と云う云い方なのである。人生何が腹が立つかと云うとこの手の人間がしゃしゃり出てくるのを見るほど不愉快なことはない。

 さて、『鳩の翼』全編を読み終えて感じるのが、結局何事も解らなかったと云う奇妙な感じなのである。それはジェイムズが編み出した朦朧態の文章のみのせいではないだろう。真実の分かり難さが表現として形を取ったときに、結果として朦朧態の文体があると考えるべきなのだから。
 結局この長大な長編小説を読み終えて分かるのはケイトとマートンは別れるだろうと云う一点である。別れると云うよりも、二つの混じり合わない世界があって、ひとは複数の世界に隔離されて孤独であると云うことを確認するほかはないのだな、と云う感じである。愛は人を救わないし、得られる教訓は何もないと云うジェイムズの冷徹な認識を確認するほかはないのであろうか。人生とは、生きてみるに値しないほど本質的に貧しいものなのであるか、この世的人生の概念を超えるものを持たない日本人には少し困ったことである。

 『鳩の翼』とは真実はどのような物語であるのか。作者は開幕早々から主人公ケイトに肩入れし、彼女の生きた環境の劣悪さと反比例するような女性としての美しさ、素晴らしさを事あるごとに強調する。最初は読者としては作者の云うことだからと信じて読み進めるのだが、読んで行くうちにとても気高いとも褒められた行為とも云えないケイトの言動や思惑、姑息な画策の数々を知るにつけて、それでもケイトの素晴らしさについての賛辞を止めようとはしないジェイムズに異常なものを感じてしまう。この作者は果たして信じるに足る存在なのであろうか、それが正直な読者側が受ける感想である。
 結果的に云えば、主人公のケイト・クロウとは、作者が複数の登場人物が主張するような素晴らしい人間ではなく、美貌だけが取り柄の、婚期を逸した25歳の、節度を欠いた野心を秘めた娘の一人に過ぎないのではなかろうか。一人の青年が生涯をかけて愛を奉げるほどの人格でもなかったと云うのがこの小説を読んでの印象である。
 彼女に翻弄されるヒーローのマートン・デンジャーは優柔不断な無害な青年に過ぎない。蜂の一刺しと云うのを聞いたことがあるが、最初から牙を抜かれて文明と階級社会が生んだまるで去勢家畜のような存在である。不合理な出来事をなんとか辻褄を合せて理解しようとするのだが、その結果次々と生じる出来事は一層謎と混迷度を深めていく、フランツ・カフカの”K”の先駆的形態のようでもある。つまりここだけに焦点を合わせて読めばヘンリー・ジェイムズの文学は古色蒼然としているどころか、20世紀に花開く実存の文学の預言者なのである。
 同様に『鳩の翼』を代表する二人の大人物、モード・ラウダー夫人とマーク卿は本当に作者の云うように”大物”なのであろうか。小説の最初の方でラウダー夫人とモートン卿のインテリアや趣味にかこつけて彼らの人格が描写されるが、俗悪な趣味と云うほかはない。どこを見てジェイムズは器量の大きさとか貴族の高雅な性格とかと云うような大法螺を吹聴するのだろうか。趣味に関してだけ云うならば作者によって悪し様に書かれるマーク卿の方が幾分ましで、古き良き貴族性の片鱗は残されていていくらか分があるとわたしならいいたいほどである。ラウダー夫人などは複数のジェイムズ的人間の証言にもかかわらず単なる俗物に過ぎないのではあるまいか。
 それに物語の後半で重要な役割を演じる英国医学会の最高権威ルーク・ストレット卿についてだが、彼は本当に名医であるのか、そう信じてジェイムズは書いているのであろうか。わたしには責任逃れの藪医者としか思えない。この医者はミリー・シールの闘病生活の中で何時も肝心な時にいないか影が薄いのである。肝心な決め球をそらしてフォアボールを狙う有能な8番打者、自己のアイデンティティ証明を最優先させる学会と云う世界に生息するシーラカンス的俗物、治療と云う治療を殆どしない誤診なき”迷医”、医療ミス回避上手の斯界の権威と皮肉るべきだろう。

 『鳩の翼』は、本当はケイト・クロウが主人公であるはずなのに、まず主人公の言動が信用できない。加えて作者ジェイムズが大嘘吐きの確信犯であるときているのだから、解らないはずである。
 僅かに信用できるのは、マートンとミリー・シールと彼女の保護者ストリンガム夫人だけと云うことになるが、この物語的世界の中で最も非力なのもこの3人なのであるから結論は屁の突っ張りにもならないとと云うことだろう。彼らに共通するのは自らに主導権がないと云う階級社会の中における絶対的受動性、カードの切り札を欠いた絶対的非拘束性である。マートンは貧しいゆえに、ミリーとストリンガム夫人は外国人であるがゆえに貴族社会と云う入国資格を与えられず、この関係はフランツ・カフカの小説を読むときに感じる閉塞感と無力感とそっくりである。彼らの他者にない卓越した特性として作者が述べ立てるものも、聴きあきるようなミリーの膨大な資産、マートンの頭の良さ、についても本当にそれを信じて書いているのかどうか極めて疑わしい。有名な資産家である割には資産管理人の姿すら見えない。マートンの思考回路や趣味に関する考え方の中に有能な知性が感じられるか。作者がそうだと書いているから信用して読むしか方法はないのである。さらに、この小説の中で唯一無私性の権化のようなストリンガム夫人、善良であるがゆえに悪を直視しえない夫人はジェイムズによってニューイングランド生まれと紹介されているように、こちこちのピューリタニズムによってその価値観は大きく制限され、ミリーの唯一の味方とされながら時にはミリーその人からも蔑視を受け、孤独で非力な闘いを最後まで展開をしなければならないのである。

 最後にもう一人のヒロイン、ミリー・シールはどうであろうか。皆が云うように彼女は本当に素晴らしいのであるか。ジェイムズの記述をよく読んでみると、容貌的には顔の各部品に武ばったところがあってとても洗練された美女とは云いかねる。それが彼女をしてケイトの美貌に幻惑させる遠因となる。ありのままに読めば、たいして教養があるわけでもなく洗練されたところもない彼女の長所と云えば、背後に控えている莫大な資産だけなのである。資産が欲しいと云えばいいものを、イギリスの階級社会の俗悪な人間どもはそれを固有の美学と方便で飾り立て、あれこれあることないこと逆しらに云いたてるのである。
 まるでドンキホーテのような純粋無垢だけが取り柄のミリーが、凡そ人を保護したり悪を見抜いて闘ったりすることの不向きなニューイングランド気質の善人サンチョ・パンさことストリンガム夫人を配して、それを好餌のように待ちうける文明国の野蛮人どもが待ちうける受難の物語、もうひとつの≪聖ウルスラの殉教≫の物語なのである。


 結果的に、文豪ヘンリー・ジェイムズの力量に脱帽する、と云う結果になる。
 育ちの良さだけが取り柄の薄命の美女を主人公に配して、まるでガラクタのような少女趣味的な素材を逆手にとって、これはまた偉大としかいいようのない文学を築き上げた力量はただ事とは思えない。この小説は愛の物語でありながら、最後は愛するとかしないとかそんなことがどうでもよくなるような偉大なる境地に達する奇跡のように美しい物語へと変貌する。最後にヒーロー・マートンが云うように、ミリーを本当に愛したかどうかと云うよりも、彼女は”偉大なる友人”なのである。読み終わってみれば薄命と資産だけが取り柄の何処と云って卓越したところのない女性が生涯を終えてみれば聖者のような後光に包まれていた、と云うお話しなのである。

 ヘンリー・ジェイズムの文学つにいてずいぶん悪ざまに、随分辛辣な書き方をしてきたが、誰でも自分自身の人生を振り返るてみるがいい。どこかジェイムズの辛辣で冷酷な人間観察の方が妥当だと思わせるところがないだろうか。文学だからといって特別でもなければ高尚でなければならないと云う訳でもないのである。わたしの生涯は広く建築関係の仕事に従事したことから、下は日雇いの人夫さんから上は企業のキャリア組まで様々の小バルザック的なとでも云えそうな環境で生活してきた。内装の仕事は企業のトップ近くと接触し、かつ組織の裏面にも触れることになる。コンサルタントの業務が企業の不祥事に接触すると云うのももっと上位の環境ではあるのだろう。ここから得られた結論は多くの日本人が云うような所謂”前向きの”教訓を引き出せるようなものではなかった。清濁併せ呑むと云うけれどもそのような世界に生きて見聞を広めることができたことはいまでも感謝している。しかしジェイムズが最後に描いたように、人生やお金が全てではないのである。市場原理や経済法則を超えるものを想定しない社会は『鳩の翼』の登場人物たちのように自ら窮屈な生き方の中に自閉せざるを得ないのである。神経を病みながら異常さと正常の区別が出来ない集団社会が出現する。ここは何処かダンテの描く煉獄篇の風景に似ていないだろうか。そう云う意味でわたしは文学をやるとは”鳩の翼があったら!”と云う風に読みたい。