アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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プルーストとカントの美学 アリアドネ・アーカイブス

プルーストとカントの美学
2010-09-26 00:48:44
テーマ:文学と思想

失われた時を求めて”という表題は作者によって命名されたものだそうだが、果たして正確にこの小説の主題、内容と符合しているのだろうか。”見出された時”の末尾の大団円までくると、失われたときの意味が明らかにされる。失われた時とは、あの第一巻”スワンの家の方”において、スワンの呼び鈴のようにずっと鳴り続けていたのであり、それが聞こえなかったのは、丁度昼間の喧騒に災いされて聞こえなかった教会の鐘楼の鐘の音が、夕暮れの静寂を迎えるとともに聴こえてくるようなものなのである、とプルーストは説明している。時の音色は決して途切れることはなかったのである。これは意志的な回想に対する無意識的記憶の優位という従来の説明の仕方よいのかどうか、全然誤っているとまでは言わないにしても、これはかなり割り引いて理解しなければならないと思う。

無意識的記憶の代表例とされる、これも有名なプチットマドレーヌやマルタンヴィルの三つの塔や三本の木の挿話はどうだろうか。これらはまさに”失われた時”のエッセンスであるかのごとく多くの解説者や批評家によって語りつくされた気がするのだが、これらの神秘主義的なメタファーは暗号のようにわたしたちが何度読んでも意味を明らかにしない。解説者がこの部分を例文として引いて如何に賛嘆の辞を奉げようとも読者としてはここに如何なる意味を読み取ることも出来ない。何のことは無い、プルーストとしては時を越えた経験というものが言葉では言い表しがたいと言うことを言っているに過ぎないのに、後代の研究家たちはここに何か過剰な意味を読み取ろうとする。プルーストが生きていたら失笑したであろう。プティットマドレーヌに固有な意味はないし、夕暮れに泥むマルタンヴィルの三本の鐘楼にしてもそこに固有な意味があるわけではない。それらは言語では語りえぬものの表徴として、しかも感覚だけが思い出す度ごとに不思議な歓びの感覚を伴っていることの不思議さに、真理の持つ厳粛で厳かな気配に、プルーストは打たれたのである。

感覚は現在の味覚や嗅覚といったささやかな日常の所作の中に時の秘密を保存するがそれを言葉で語ることも言い表すことも出来ない。いっぽう記憶と想像力とは対象の不在に関わる能力であるがゆえに、時制としての”現在”に、つまり感覚の片隅に保存した神秘を理解することが出来ない。また理知や意志的記憶は客体を弁別的に対象化する能力であるがゆえにかかる神秘に近づくことは出来ない。プルーストはこの青ざめた理知の横顔を、愛を例題に引きながらレントゲン写真のような冷徹さでもって語る。――すなわちわれわれが恋人の顔を正確に思い浮かべることが出来るためには、その恋が終わって一定の時間が過ぎた後でなければならない、と。”理解する”ためには、一旦失われなければならない、とプルーストは言うのだ。

プルーストに先立つ100年ほど前、ドイツ東部の僻地、ケーニヒスベルグというプロイセンのロシアと国境を接した飛び地にある小都市で、インマヌエル・カントは感覚という能力のもつ不思議さに、その霊感に打たれていた。
最晩年のカントを捉えていた関心は感激を持って迎えたフランス革命の行く末であり、プロイセン政府を初めとする政治的反動との対決であり、”公共”的なもの考え方、公共的な概念を確立することによって人類が初めて手にした人間的自律の理念を擁護することであった。しかしカントの偉大さはたんに公共性の政治的な意味合いを確立することだけではなかった。政治的に自律した近代市民社会における個人を、その個的人格のかけがえのない固有な意味において人間を一個の実存として基礎付けることだったのである。それが彼が味覚や嗅覚に拘った理由である。

周知のようにプルーストの”失われた時を求めて”は壮大な時の時制と五感のポリフォニーであり、とりわけ味覚や嗅覚に関わる挿話が重要な場所を占めている。プルーストは有名なプチットマドレーヌの挿話において味覚と嗅覚が持つ特権的な地位について語る。この感覚が背後に秘めた源泉は何か、それは最もプライヴェートな印象でありながら主観的なものであるとも言えず、ましてや客観的な事物とも言えず、プルーストによれば”精神的な等価性”としか言えないようなものなのである。

同様な事情がドイツの老哲学者カントを驚愕させた。味覚や嗅覚に纏わる秘私的な不思議さ、――なぜある者は牡蠣を好み、他のある者はそれを好まないか、これを人は論理的に説明することができない。こうした私的なものに関する事例は日常いくらでも見出すことが出来る。カントを驚愕させたのは、この個人に備わった揺ぎ無い実存、一人一人が人称を持ちかけがえのない個性を持つ不思議さばかりではなかった。この個的存在の揺ぎ無さは単に主観的であるとも言えず、さりとて客観的な事象であるわけでもない。その個人の尊厳、個的存在の揺ぎ無さはどこか芸術に似たものがあるとカントは感じていた。

マルセル・プルーストにおける時の回復とは、失われた事象、個的な経験の意味を再帰的に生き直すことであり、それゆえ芸術的形象の意味を見出すことであった。鳴り止まぬ呼び鈴の音、階段の壁を照らすおぼろげな蝋燭の光、そしてさんざしに向けられた少年の頃の別れの涙、その固有な意味を、随分と遠回りの道のりを経由してではあったが、再現前させることだったのである。それは失われた時というよりも、ずっと存在いていて見いだされるものを待っているケルトの妖精のようなものであった。