アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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マルセル・プルースト、二十歳の恋文(2019/2)アリアドネの部屋アーカイブㇲ

マルセル・プルースト二十歳の恋文(2019/2)アリアドネの部屋アーカイブ
2019-08-25 22:27:03
テーマ:アリアドネアーカイブ

原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505580558.html
マルセル・プルースト二十歳の恋
2019-02-06 15:57:46
テーマ: 文学と思想

 
 鈴木道彦の『マルセル・プルーストの誕生』を読んでいたら、こんなところがありました。
 孫引きになりますが、下記の恋文をお読みください。

「単に色気があるというだけの、単なる渇望の対象にしかすぎない婦人は、その賛美者たちを分裂させ、お互いを相手に腹を立てさせます。これはまことに自然な話でしょう。でも芸術作品のような一婦人が、この上もなく洗練された魅力、この上もなく繊細な優美さ、この上もなく崇高な美、この上もなく官能的な知性を、われわれの前に示してくれれば、その婦人に感嘆する共通な気持ちが人を結び付け、兄弟のような存在たらしめます。われわれみながロール・エーマンに帰依する同宗の信者になるのです。」

 ロールエーマンの画像は、こちらのブログからお借りしました!
プルーストがこの恋文を彼女に奉げたとき四十一歳、彼の母親ジャンヌが十九歳で結婚して彼を生んでいるわけですから、奇妙な符号からある種の結論を導き出すのは可能です。ですがこの問題にはここではこれ以上触れません。
 私が興味深いといま感じているいまひとつ別のことは、ロール・エーマンのなかに永遠の女神信仰を幻想的に再現させているらしい若きプルーストと、『スワンの恋』などで描かれた、理想と現実の落差が生む女性的美と魅力のリアリズムですね。取るに足らないものを至高のものと錯覚する幻想と、取るに足らないもののなかにすら存在する永遠なるものを発見せずにはおられないプルーストの、幻想的リアリズムとも言うべき特異な資質ですね。しかしこの問題もまた、現在の私の能力ではこれ以上探求することができません。

https://blogs.yahoo.co.jp/parispeko/16594130.html


 さて、こ私がこの短文で言いたいのは以下のことです。
 この恋文を書いたとき、マルセル・プルーストは二十歳でした、ませていたと云うか、逆に瑞々しいまでにいじらしい感じがいたしますね。一読して受ける印象はプルーストの女性観としての老成、という感じなのですが、恋愛観照としての老成のなかには、何時の場合でも愛や恋には初々しさが含まれています。若さや老い、時の流れとともに成熟する、時熟と云う時間性に関わる概念が愛のなかには不思議にないのです。つまり永遠が現勢し現前し空間を変容させる、と云う意味です。しかも変容させると云う気持ちにはなくて、本来の時間性に戻った、という気持ちにさせられるのです。
 失われた時を求めて最終巻『見出された時』の末尾の部分で、ゲルマント家のサロンで思いがけずも遭遇した親友サン・ルーと初恋の人ジルベルトの一粒種であるひとり娘に再会して語り手は、長らく秘められていたプルーストの人生における二つの方向、――「スワンの家の方」と「ゲルマンとの方」という二つの道の合流点に図らずも立って、蘇りとしての永遠の若さと云うものに遭遇いたします。その時去来した自分の気持ちの高鳴りを彼はある種の感慨を籠めてかく書きました、――青春に似ていた」、と。一般的な通念からは少しも青春に似ているとは思えない思春期を過ごしたプルーストにしてかく書いているのです。成人の愛とか大人の愛とかを洗練性と取り違えて云う人がいるけれども、老成した愛などと云うものは存在いたしません。愛はプルーストが言うように、常に若くあるものなのです。
 それにしても、こういう文章を書ける社会とはどのようなものだったのでしょうか。青春と云うものの前途の多様さとブルジョワジーと呼ばれたものの階級的上昇の過程と展望がかかる見晴らしとしての風景を生んだのでしょうか、わかりません。翻って見て、自分の在り方として、仮にこういう文章を書けるとは、どういう状態にあるときだろうか、と単純に思いを揺曳させてみます。私が自分の内面に見出すのは木魂ではなくため息だけなのです。
 反対に、女性としてこんな恋文をいただいたら、ひとりの女性として、どんな気分だろう、とぼんやりと考えます・・・・・。いただく方も嬉しいけれども、書く方の魂の高鳴りの方を羨ましく感じます。

 こういうものがベル・エポック期とと云われたパリ世紀末のサロン、と呼ばれたものの雰囲気なのだろうか。かけ離れているし経験がないので、見当もつかない。しかし文学の経験としては、分かるし、理解できる。

 それにしても「官能的な知性」とはどういうものだろうか?具体的なイメージとして湧かない!が、ぎりぎり、分かるような気がする。
 マルセル・プルーストの一連の大袈裟な賛辞のなかで、この語句だけが際立っている。言葉は自由だから、何とでも云えるし、可能なら最大級の誇張的な表現も可能であろうし、個人の表現の自由度としてあり得るが、この語句は個性的である。個性的だけれども孤独ではない。
 僅かに比肩できるのは、遠いむかしの『饗宴』におけるソクラテスとディオティーマとの関係だろうか。

 世知に闌けていて、知性的で官能的でしかも冷静、客あしらいや社交のマナーには長じているので、洗練と云う言葉が身につき、場数を踏んでいるので少々のことには動じない、ある意味での達人なみの女丈夫。しかし真実の言葉に出会うと、『椿姫』のヴィオレッタのように儚く震えるように、脆い!

 プルーストが生涯をかけて関心を持った美とは、完全無欠の美ではなく、時のなかに置かれた美、時に流される美、時の腐食に抗いながら蘇りを見せる、川の流れの諸相を複雑に重ね合わせた動態としての美ではなかっただろうか、そう思うのです。