アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズ・ジョイスのことなど アリアドネ・アーカイブス

ジェイムズ・ジョイスのことなど
2010-10-08 01:04:17
テーマ:文学と思想

葵サン、アイルランドのダブリンに住まれて思う存分好きなジョイスの写真を撮られておられるとか・・・

私も久々にジョイスを思い出しました。ご存じない方のためにジョイスの代表的な作品は、”ダブリン市民”、”若い芸術家の肖像”、”ユリシーズ”、そして”フィネガンズウェイク”でしたね。

この中で、時を経るごとに輝きを増したのは、当初陳腐なレアリスム小説と思た”ダブリン市民”でした。勿論、”痛ましき事件”は傑作です。しかしゲイブリエル・コンロイの人となりと、コンロイ夫人の長く秘められた嘆きは、深深と降りつづける雪のイメージと共にこの作品がジョイス文学のへその位置、転回点であったことを印象付けるのです。

”西へ旅立つときがきた。”

とは”死者たち”の一節ですが、この述懐とは反対にジョイスはこの時祖国を見捨てました。この作品が美しいのはまるでケルト神話を思わせる古風な悲恋物語を題材にしているからではありません。ジョイスの祖国への惜別、彼の歌の別れでもあったからです。

ジョイスはなんに別れを告げたのでしょうか。
祖国アイルランドであり、限定的にはアイルランド文芸復興運動と独立運動であり、普通の人間としての生き方だったと思います。普通の生を断念するとは、貧困と心理的圧迫を家族の成員に強いるということでもあり、見知らぬ土地で彼らの全員を精神的な危機に追い込むほどの不安定さを背負い込むことになったのです。

トリエステ―チュウリッヒーパリ”

ジョイスは”ユリシーズ”の末尾に書きこみました。彼のこの作品にかけた決意と書き終わったあとの感慨が手に取るようですね。

しかしそれ以上に自然主義的な手法では書かない、という意味でもありました。英語を主要な言語とするという宣言でもありました。こうして普通の文体では書かない文体の革命家としてのジョイスが誕生したわけです。

短編集”ダブリン市民”の最後の”死者たち”は、余韻さめやらぬアイルランド文芸復興運動を伝える貴重な作品です。これ以降ジョイスは二度と文芸復興運動そのものを直接語ることはありませんでした。それでもあの記念碑的な夜会があったゲイブリエル・コンロイが訪ねた叔母の邸宅がまだ残っているというのですね。ゲイブリエルの妻の魂を清冽に洗った西部地方の――ゴールウェイの、原野の風景は今も昔のままであるというのですね。
               ◇ ◇ ◇

ジョイスの”ユリシーズ”を丸谷訳で読んだのは四十年以上も前で、二つの点で重要でした。
一つは日本がいまだ大国になる以前の、経済的繁栄の端緒に向かおうとする時期の、後進国日本が抱える特殊性の問題でした。仰ぎ見る欧米の思潮とどのように対峙するかという問題なのですが、今日では想像することが困難なほど遠い昔になってしまいましたね。”土着”とか”自立”とかが真面目に語られた時代のことです。”ユリシーズ”を読むとは、普遍と特殊を同時に解決するよな手法のように思われました、文学の力によって。

ユリシーズ”が持った二番目の意味とは、通常小説を書く場合のミメーシスの問題、――現象と本質、作品と作家という対概念を破棄し、テキスト性へと還元したことです。作品は作家や背後の現実との照合関係から自由になり、自律せる言語空間が出現しました。こうしてユリシーズは夥しい量の象徴主義的な隠喩に取り囲まれたタブローとなったのです。文学とは予感される破局の中で漂流する浮き灯台のようなものに変化していました。

でもジョイスのような文学感、世界文学とも言える普遍主義、――自律せる象徴主義の体系としての意味的内部空間との出会いは幸せだったろうかと思う。この象徴主義的文学観が背中合わせに、壁一つ隔てて政治的季節に隣接し、胚胎し始めていたことを当時の私はまだ理解できないでいました。―ー例えば、ジャン・リュック・ゴダールが”ヴェトナムを遠く離れて”というドキュメンタリー・オムニバスが持つ反ドキュメンタリー性において、過剰なともいえる政治的メッセージ性、反文学的意味言説とやがて拮抗し釣合うようになるだろうとは、その時予感したでしょうか?

表現形式としての象徴がアレゴリーに変化するとき、それはいち文明の終焉を意味しているとしたヨハン・ホイジンガの文明史観と、天国の門を潜るためにはプロレタリアートは自らの名において一度否定しなければならないというジェルジ・ルカーチの予言者然とした言説と、”天国は近い!”にもかからず”この席の中に一人の裏切り者がいる”という教説に包囲されて、私の象徴主義は如何にも無力でした。これらの20世紀の神話的言説が孕む文明の中に潜む野蛮について、当時気付くこともなく抗うこともできませんでした。時局の閉塞と文学の放棄はパラレルな関係にありました。ダンテの”この門より入るもの、あらゆる希望を捨てよ!”がこの時代を象徴する表現であったのかもしれません。

さて、ダブリンの夜の果ての彷徨の終わりにジョイスは、ダイダロス親子が並んで立小便をする場面を書きこみました。1904年6月6日のダブリンという世界史上最も長い一日の終わりです。

この場面は”教義問答”という問いと答えからなる最も醜い、ある意味ではiいかがわしい形式で書れています。ジョイスにとっては敵性言語である英語で、しかも大団円ともいえる父と子の出会いという大事な場面と局面とを、”ユリシーズ”や”若き日の芸術家の肖像”などにおいて表現されている、最も妥協することなき反感の対象であったカットリックの”告解”というおぞましい形式で書く意味は何でしょうか。ジョイスの心中と内面の複雑さを思ってみるとき、果たして彼にとって文学は救いであったかとの感慨深きものがあります。