アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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上田閑照「マイスター・エックハルト」について アリアドネ・アーカイブスより

上田閑照「マイスター・エックハルト」について
2009-04-03 10:47:57
テーマ:宗教と哲学

アリストテレスからトミスムを含む中世キリスト教史をあつかった浩瀚な書物の全容を解説しようというのではない。前にもふれたように、没後の須賀週間とでもいう時期に、神谷光信さんのブログを参考に、ヴェーアという人のエックハルトに関する評伝を並行して読むことにした。神谷さんなら須賀敦子風強引さ、パスティッシュ本歌とり、というものをやってみようか、というところまで考えていたわけではない。なにせ一方は多国籍の言語の天才なのである、様になるはずがない。

宗教関係の本は用語も目新しく、特に異端の思想家ということになると、背景になるキリスト教関係の論争史についての概要的知識が必要で、お手上げになった。ただ前にヴェーアの本のところでもふれたように、「マルタとマリア」の話は、シンプルでもあり上田の本においても巻末に多くのページを割いている。今回は私のような耳慣れない初心者のために、該当するルカ書第十章を引用してみる。

一同が旅を続けているうちに、イエスがある村に入られた。するとマルタという名の女がイエスを家に向かいいれた。この妹にマリアという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言葉に聞き入っていた。ところが、マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、イエスのところにいて言った。「主よ、妹が私だけに接待させているのを、なんともお思いになりませんか。私の手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は、答えて言われた。「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてはならぬものはただ一つだけである。マリアはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである。

自然に読めば明瞭この上ない。キリスト教でないわたしのようなものでも誤解の余地はない。ところが前記ヴェーアにしても上田閑照にしても、ここから反対側の結論を導いてくる。マリアの観照的態度よりも実生活を通じての認識、アウティヴつまりマルタにおける認識の活動性の方が優位にあるというのである。しかもエックハルトをして「最も高貴な認識」と言わしめている。さらに驚くべきことは、当時ケルンやシュトラスブルグには、かかるエックハルトの解釈を支持するかなり広範な社会層が存在した事実である。ヴェーアは当時のこのイエスをめぐる光景を描いた絵画の存在を教示して、単なる解釈上の問題ではないことを証明している。

こうなると見解の相違ということではすまされなくなる。対象が歴史的実在であり歴史的対象であるからだ。だからキリスト教思想史における一大ミステリー、アヴィニヨンにおける異端尋問にまで発展したのだろう。背景になる13世紀の、歴史、社会思想史の知識を得なくては、本当の結論は出せないのだろう。

そうはいってもしょうがないので、現在の私の届く範囲の射程で言っておく。
問題は、受胎告知における、二つの過程である。
(1)乙女であること(マリアの場合)
(2)妻女であること(マルタの場合)
あるいは、
(1)神への認識 の問題と
(2)神性の自己産出
の問題とである。
これはキリスト教における神認識の表裏をなすものであり、二元論的構図の中ではとらえることができない。

上田閑照は書いている。上田の「誕生」と「突破」を巡る、本国ドイツの現代エックハルト研究における「解釈の葛藤」,無理解極まる論難について。しかしもともと、聖書の書き出しからして、はじめに言葉ありき、であるのだから、言語の限界を問題にすること自体ヨーロッパ社会では、昔から異端の嫌疑をかけかねられないことではあったのだ。

それにしても、神受容における第二過程、つまりマルタにみられる日常性への突破が、なぜ<突破>と感じられるのだろうか。<離脱>という表現も同様である。主意主義的モチーフがどうしても必要なのだろうか。わたしは、ここにハイデガーの先験的決意性の尾びれを感じる。<突破>という禅的な表現が一部の西洋人の不必要な反感をかっている、というようなことは無いのだろうか。師エックハルトにとって、伝道と講和とは、単なる著作活動や静態的な学術研究とは異なって、そこでは真理自身が臨在して自らを語る場であったはずだ。説教とは、現代的語法からは想像できない臨場性の場であったはずだ。

認識の問題として考えるならば、静態的な認識のありようから、アクティヴ活動性へと高まりゆく契機であったろうし、認識を超えた領域においては、愛の照り返し、到来するものとしての愛、という表現の方が上田の趣旨のそって理解する場合においても、似合っているようにも感じられる。愛という表現がこの場合相応しいのかどうか、もちろん所有の概念を有しない愛があるとしてだが。