アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

回想のイングマール・ベルイマン――”日曜日のピユ”について アリアドネ・アーカイブスより

 
日曜日に生まれた子は幸運をもたらすことができる、という伝承があるようだ。

最晩年のベルイマンが何であったかを、息子のダニエル・ベルイマンが映画化している。イングマール脚本の忠実な映画化だと思われるので、親子の理想的なコラボレーションの成果と受け止めたい。

ベルイマン映画はそんなに多く見ていないので大局的な総論風には論じることができない。通常神の沈黙であるとか、神の不在であるとかの重いテーマが描かれているというのだが、わたしには自然性と宗教性の相克のドラマであると、みた。

少年のころの日曜日の存在がまるで小―奇跡であったように、ベルイマンは自分の生涯を終わろうとする頃に、自分の少年時代から奇跡のような、ある日曜日の風景を切り取ったのである。

表題は、日曜日に奇跡のようなことが起こったからではない。その時間の切り取り方が、まるで奇跡のように感じられたのである。

平凡な時間性が、まるで奇跡のように描からたということは、その背後に、凍りつくような暗澹たる日々と無限の時間の集積があった、ということなのだろう。

この映画の背景には、父と子の相克と和解というテーマがあったことが想像される。聖職を手に入れることによってスウェーデンの上流階級に足を無味入れた父親と、裕福な母親が属する感受性豊かな家族や親族らを背景に、生まれたばかりの無垢な感性が父親にそそぐ眼差しが、奇跡のように、哀しい。

家族も階級も富も教養も、そして宗教や国家も、そんなものを全て捨て去って生きることができたらどんなにいいだろう、そんなベルイマンの人生の最後に達した感慨が、みずみずしい子どもの感性に重ね合わされて、まるで奇跡のように美しかった日曜日の記憶として描かれているのである。

この映画の場合も、ラストシーンに全てがある。

息子は父親の村の布教活動についていくことになり、その帰りに雷雨に見舞われる。乗っていた自転車もこけて故障するし、雨に打たれて自転車を押しながら初めてこの親子は人間としての時間が何であったかを理解するに至るのである。自転車を押して森の中の曲がりくねった道をゆくどこか頼りない姿を何時までも、いつまでも遠く映しながら、この映画はまるで人生のフィナーレのように終わる。

バッハの、二台のヴァイオリンのための協奏曲がたとえようもない効果を発揮している。


<あらすじ> すべて ”ウィキペディア” より

1920年代、スウェーデンの田園の夏。8歳のイングマ_ール(ヘンリク・リンロース)は、皆が赤ん坊のように“ピュ”と呼ぶのが不満だ。彼は周囲の女性の胸が気になりはじめる一方で、古い時計の中に住む魔女を殺して自分も自殺した時計職人の話を聞いて、死の恐怖におののいている。ちょっと変人のカール叔父さん(ボリエ・アールステット)や、いたずらでひどい目に遭わせるが、時折こっそりヌード写真集を見せてくれたりする4歳年上の兄、ダーグ(ヤコブ・レイグラーフ)と過ごす日々は楽しいものだった。だが、彼は牧師である父(トミー・ベルグレン)があまり自分に打ち解けてくれないことに悩み、さらにある時、偶然に父と母(レナ・エンドレ)の口論を立ち聞きし、初めて知った両親の不仲にショックを受ける。その夜、ピュは夢であの時計職人の亡霊に出会う。68年、初老のイングマールはすっかり老いた父を訪ねた。父は亡き妻の日記を読んで、「自分が妻を理解していなかったことを後悔している」と彼に語る。イングマールは少年時代の記憶に思いを馳せる。ある日曜日、遠くの教会へ説教をしに行く父から珍しく同行を誘われた彼は、川を渡るはしけの上で水に足を浸すと「水に落ちたら助からんぞ」と父から厳しく叱られる。むくれたピュは口もきかず、こっそり入った教会の礼拝堂でハエのたかった死体を見て震え上がった。帰り道、父は優しく接してくれ、一緒に泳いだり自分の考えを喋ったりするうちに、ピュはとても幸せな気持ちになる。父は「お前も私も、幸運な日曜日の子供だよ」と言う。「幸福とは今のような状態のことかな」と彼なりに理解したピュは、夕立の中で父と2人、何となく楽しくなってくるのだった。


<データ>
"日曜日のピュ"
原題: Sunday's Children
製作国: スウェーデン
製作年: 1992
配給: セテラ=アスク講談社配給(配給協力=オンリー・ハーツ)
スタッフ
監督: Daniel Bergman ダニエル・ベルイマン
製作: Katinka Farago カティンカ・ファラゴー
脚本: Ingmar Bergman イングマール・ベルイマン
撮影: Tony Forsberg トニー・フォルスバーグ
音楽: Klas Engstrom クラス・エングストレム

Sven Wichman 
編集: Darek Hodor 
衣装(デザイン): Mona Theresia Forsen 
字幕: 関美冬 セキミフユ
キャスト(役名)
Thommy Berggren トミー・ベルグレン (Father)
Lena Endre レナ・エンドレ (Mother)
Henrik Limmros ヘンリク・リンロース (Pu)
Jakob Leygraf ヤコブ・レイグラーフ (Dag)
Marie Richardson マリー・リチャードソン (Marianne)
Irma Christensson イルマ・クリステンソン (Aunt Emma)
Birgitta Valberg ビルギッタ・ヴァルベルイ (Grand mother)
Borje Ahlstedt ボリエ・アールステット (Uncle Carl)

回想のベルイマン監督・映画”処女の泉”について――原罪とキリスト教的聖性(教会)の起源 アリアドネ・アーカイブスより

 
映画の結末を長い時間をかけて反芻するうちに少しづつ意味が違ってくる、そんな映画です。
最初は人間の原罪の起源とキリスト教的聖性の成立の由来を語った”神話”として理解しました。つまり未開社会にキリスト教がもたらされる罪と浄化の物語です。反面――、

無垢な少女を凌辱して殺すなどというおぞましい弱肉強食的自然の論理や欲望の支配する地上の出来事と、祭儀のように冷静に履行された復讐の論理のいずれが真に恐ろしいといえるのか、そんなことを考えさせる映画なのです。

掘り起こされた土くれの中から変わり果てた愛娘の亡骸を抱き起こすと、そこからまるで罪の許しを象徴するような泉がこんこんと湧きだすというラストシーンがありますが、ここで父親はある啓示を受けます。つまりここに教会を建てねばならない、と。この暗い内容の映画の最後に付け加えられたこのエピソードの効果について、ベルイマンは、シナリオライターや当時の映画界のニーズに応えざるをえなかったのだ、というような弁明をしているますが、むしろこの場面を入れることでこの映画は本当の意味で恐ろしい真実を告知する映画になっているのです。

<あらすじ>
舞台は土着信仰とキリスト教が混在する中世のスウェーデン。裕福な地主テーレとその妻メレータ、彼らの一人娘であるカリンの一家は敬虔なキリスト教徒である。しかし一家の養女であるインゲリは密かに異教の神オーディンを信奉し、苦労を知らずに育ったカリンを呪詛している。

ある日教会への勤めを両親に命じられたカリンとインゲリ。途中でインゲリと言い争いをしたカリンは、彼女と別れて一人教会に向かう。道中カリンは貧しげな三人の羊飼いの兄弟に遭遇する。彼らに同情して食糧を分け与えるカリンだが、清純なカリンに魅了された長男と次男はカリンを強姦、更に勢い余って彼女を殺害してしまう。その様子を物陰から目撃していたインゲリはカリンを助けようとするが、結局何も出来ない。

カリンを殺害した夜に羊飼いの兄弟が宿を乞うたのは、偶然にも彼女の両親が経営する農場だった。そうとは知らず母親のメレータにカリンから剥ぎ取った衣服を売りつけようとする羊飼いの兄弟、そして娘の運命を察したメレータは、夫のテーレに誰が娘を殺したかを告げる。妻にカリンの衣服を見せられ、更に人目を忍んで帰宅したインゲリから娘の死の様子を聞きだしたテーレは、羊飼いの兄弟に復讐することを誓う。娘に乱暴した長男と次男を斃したのち、テーレは激情に任せて罪の無い末っ子の少年の命まで奪ってしまう。冷静になったテーレは自らの犯した罪の大きさに慄然とし、神に許しを乞う。

羊飼いの兄弟を皆殺しにしたテーレは、インゲリによって森に放置されたカリンの亡骸まで案内される。変わり果てた娘の姿にショックを隠しきれないメレータ、そしてテーレは娘の死と彼自身の冷酷な復讐を看過した神を糾弾する。神の無慈悲に絶望しながらも、それでもなお神の救済を求めるテーレは、娘の遺体の側に罪滅ぼしのために教会を建設することを約束する。

テーレとメレータが娘の亡骸を抱きかかえたその時、彼女が横たわっていた場所から泉が湧き出してくる。神の恩寵を目の当たりにした一行は、跪いて神に祈りを捧げるのだった。(ウィキペディアより)

<データ>
”処女の泉”
Jungfrukällan
監督 イングマール・ベルイマン
製作 イングマール・ベルイマン
アラン・エーケルンド
脚本 ウラ・イザクソン
出演者 マックス・フォン・シドー
ビルギッタ・ヴァルベルイ
グンネル・リンドブロム
ビルギッタ・ペテルソン
音楽 エリック・ノードグレーン
撮影 スヴェン・ニクヴィスト
配給 昭映フィルム
公開 1960年2月8日
1961年3月
上映時間 89分
製作国 スウェーデン
言語 スウェーデン

歌舞伎”木下陰真砂白浪”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
“六月博多座歌舞伎”  6月2日~26日

博多座パンフレットより

<1.木下陰真砂白浪>
尾張国矢作橋、ともに将来を夢見る若者の友市と猿之助は出会い、友市は日本中の金が懐にいる、猿之助は日本国を手に入れるという不思議な夢を見る。そこに女盗賊お峰が現れ、二人の若者はいずれ傑出した人物になると見込み客人に迎える。武将・仁木太郎輝秋は蓮葉屋余六と素性を隠し、使えていた足利家に伝わる宝刀雄龍丸・女龍丸を探していたが、偶然にも二本の宝刀は余六に一目惚れをしたお峰が所有していた。ところが自らの待望を成さんとする友市にお峰の家に伝わる忍術の巻物とともに雄龍丸を奪われてしまう。時は経ち石川五右衛門として世を騒がす友市は、今は真柴久吉としてその名を馳せる猿之助、そして仁木太郎、お峰と再開し・・・
 例によって、妹小冬の自害の場面はあわれをとどめた。
 橋之助石川五右衛門扇雀のお峰とお冬、愛之介の真柴久吉、勘太郎の仁木太郎など個性的な登場人物が宝刀と巻物をめぐり繰り広げる物語は、屋台崩しに雪の中の立ち回り、そして葛籠抜けの宙乗りなど派手な演出に加え、「絶景かな~」などのお馴染みの名セリフもあり、理屈抜きにお楽しみいただけます。

<2.藤 娘>
暗い場内の長歌が流れる中、ぱっと明かりがつくと藤娘が現れる。娘は実は大津絵から脱け出した藤の精で恋に酔う女心を華麗な舞に託します。

<データ>
博多座 2009年6月22日 月曜日 午後4時半~

石川五右衛門橋之助
真柴久吉:愛之助
石川村治左衛門・三好長慶亀蔵
仁木太郎:勘太郎
女盗賊お峰・妹小冬:扇雀

藤娘:七之助

大学院の課外授業の一環で初めて歌舞伎を見る機会を得る。例によって史実と空想が入り混じった荒唐無稽な歌舞伎の世界!舞台装置の派手な演出もさりながら、花道と呼ばれるものの位置づけに今更ながら感心する。それから見得を切るという歌舞伎特有の表現があるが、派手な衣装とともに、テレビではわざとらしく感じられるものが、舞台では祖ほどでもない。いずれにしても、舞台と観客席というものが厳密に区分された近代の劇場の方が世界の演劇史上では特殊なのかもしれない、と感じた。
藤娘は、長歌の、なんとも春ののどかな感じが、古典芸能の情緒纏綿である。

なお、当日歌舞伎鑑賞の位置は、3階の最上段、一番安い席、これを学生価格で購入した。この席は贔屓の役者に向けて、掛け声が上がるところで、それも間遠く、間近く聞こえて、新鮮な体験だった。

小此木啓吾/河合隼雄 『fフロイトとユング』――たとえば木村敏の現存在分析の立場から アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 少し古い本だが、20世紀の精神分析をおさらいするのには良いかもしれない。文体も通常の記述体ではなく、小此木啓吾河合隼雄の対談形式である。河合が二歳ほど年長であることから、小此木は自らのフロイディズムの足元を確認しながら、ユンギャンである河合にお尋ねする、と云う形式をとっている。
 
 興味を感じたのは、例の「元型」理論を、日本を代表する二人の精神分析家が如何様に考えていたか、と云うことである。この問題は、後で書く。
 いま一つは、古沢平作と小此木たち、師弟の関係の厳しさである。古沢は我が国における臨床的精神分析の基礎を造った先駆的存在として知られている。単なるフロイトの紹介者ではなく、オディップス・コンプレックスの向こうを張った東洋版・阿闍世コンプレックスの提唱で有名である。小此木たち第二次のフロイディアンたちは、余りにも日本化された古沢のフロイト理解に対して反旗を翻し、一時は相当師弟の間に厳しいものがあったと云うのである。小此木によれば、この純学理的追及が古沢の寿命を縮めたとも云う。その激しさは、晩年古沢がもう一度フロイトの基本資料を検討し直したことにも現れていると云う。ことの是非はおくとして、それにしても偉大なる師弟関係とは言ったものである。教授会の学位序列の順番待ちに汲々とする我が国のアカデミスムの現状との違いゆえに、まるで外国の話を聞くような思いである。それだけ我が国の黎明期における精神分析に関わった人材は卓越していた、と云うべきだろう。
 
 さて、偉大なる二人のフロイドとユングの孫か曾孫に当たる世代の、我が国を代表する二人が、例の「元型」を如何に考えていたか、である。大いに興味がそそられるところではあるが、結果は「がっかり」と言わざるを得ない。それかきちんとした学術論文を読んでいない私の方が悪いのかもしれないが。
 
河合:これがなかなか説明がむずかしくて困るのです。だいたいユング自身も混乱しているといっていいんじゃないですか。私の受け止めている元型というのはわりあい単純であって、元型そのものは分からないんだということです。元型そのものは意識されることはなくて、人間は元型的なイメージをいろいろと意識する。ところが、その元型的なイメージをいろいろと取り上げていくと、それらの背後に一つの型を想定していいんじゃないだろうかと思うんです。たとえば、父親の元型と云うものがあるとして、われわれはそれを見ることはないにしても、父親の元型のイメージを私の父に見たり、ユングに見たり、あるいは師匠に観たりするということはある。ところが、私がその師匠に恐れを感じたり、父親に恐れを感じたりする。その元みたいなもの、共通因子というのはどうしても予想される。それに元型という名前がつけられていると私は思う訳です」
 
小此木フロイトは一九一六、七年の『精神分析入門』の中で、原空想、ウール・ファンタジーという言葉を使っているのですが、これはユングとかなり深い関係にあるんじゃやないかと思うんです。というのは、最初、フロイトは患者さんが回想するいろいろな性的な体験というものが事実の記憶だと思ったのですが、一九〇〇年ころには、これは半分は患者の空想だ、というふうに変わってきた。そこでいわば、性欲動論が出てくるのですが、さらに進むと、どの患者も共通して、ある空想の類型性を持っているということを問題にしたのです。そういう意味でいうと、エディプス・コンプレックスというのは人間に遍在している一種の共有化された幻想だ、だからそれは、個体発生的なものというよりはもっと系統発生的なもので、原空想、ウール・ファンタジーというのだ、とフロイトも言葉でいっています。こういう考えをフロイトがいうようになったのは、一つには、さっき申し上げたユングからの取り込みがあったんじゃないかと思うんです」
 
 ユング心理学の中心である「元型」概念を、むしろ小此木の方がより説得的に語っているというのが印象的である。
 河合がここで言っていることは、ユング心理学における元型が、実体的に語られたりイメージ的に語られたり、ユング自身にも混乱がある、という事だけである。なぜ実体論が駄目でイメージ把握が良いのか、河合は語ってはいない。実体論が現代で流行らないという以上の意味を認めることはできないように思われる。また、元型の概念をここまで拡大して一般化すると、当たり前すぎて何も云わないのに等しい。読者としては肩透かしを喰らった感じである。
 論理が小此木の方が精緻になるのは、小此木は自分のフロイディアンとしての足元の論点整理をしながら、あくまで年上の河合に伺うという立場であるのに対して、河合の場合はインタヴュアーである小此木の軌道に乗せられたまま尋ねられて応えるという、一方的に受動的な立場に置かれている互いの位置関係の所為かも知れない。それにしてもフロイディアンの小此木の方が「元型」理解に於いて遥かに説得的である、と云うのは皮肉である。
 
 小此木の発言で注目しておいて良いのは、患者の性的な体験告白が事実ではなく、半分ほどは空想である、というフロイトの報告である。小此木は書いていないけれども、患者は嘘を言っているのだろうか。フロイト流のセラピーの経過を見て行くと「嘘」がどの患者にも共通する類型性を持っている、という事実にフロイトはある段階で気づくようになるという、そうなるとそれは「嘘」とはもはや言えなくなるのではないか。その「嘘」こそ、共有化された幻想、ウール・ファンタジーなのではないか、と小此木はフロイディズムの立場からユング原型心理学を補強し、精神分析と云う同志的立場から補注を加えているわけである。
 
 しかし「嘘」を「幻想」と名付けて良いのであろうか。それを「嘘」と名付けるにせよ「幻想」なり「ファンタジー」と名付けるにせよ、それらは言語の手前の意味文節性を前提として成立する世界であることに注目しよう。既に私が展開してきた元型論は、元型とは意味文節作用の向こう側の、先‐言語的な世界経験、なのであった。
 
 元型とは、通常の心理的抑圧とその背後の無意識の世界といった日常的な世界の出来事ではなく二元論的な説明原理を越えて、決して日常的世界には現れない、恐るべき精神病理学的な世界の事象なのである。それは先‐言語的な世界であるために、語ることも知ることも感じることもできない、なぜなら西田哲学流に言えば、対象認知的な認識の枠組みで捉えることに馴染まない性質を持った世界であるからだ。
 統合失調症の世界で現れる自我の分裂とは、人格の崩壊あるいは人称的世界の圧力比の基で生じるある種の気化現象に似ている。内面と外界が入り混じり世界が混乱するのではなくて(先‐言語的世界に於いては混乱するとかしないとかは言えないから)、知的認知も感情もそれ自体としては致命的なダメージは受けていないにも関わらず、それぞれの認知の諸機能が別々に独立して機能するために、一面では極めて正確でありながら、ちっともレアリティが感じられないという世界が出現するのである。つまり痴呆症に於けるある面では正常、ある面では混乱が認められるという所謂「まだら呆け」の事例報告が参考になるだろう。
 このようにして出現する世界を単に「幻想」であるとか「異常」であるとかで済ませて良いのだろうか。むしろかかる事態を異常だと考える見方こそある種の独断、「普通である」と胸を張る世人の「幻想」性を秘めており、異常と考えられ、患者の「幻想」としか評価され無かった世界こそ却ってありのままの世界ではなかったのだろうか。ここに言う「ありのまま」性とは、人間以前の世界のことを意味する。「ありのまま」性とは先‐経験的な構造に於いて言いうる。
 
 ここから言えるのは精神分析における現存在分析の立場は、「狂」なり「異常」とは健常者の立場から見た、「健全」な世界が単に破壊されたものだとは考えいないのである。むしろ日常的な時間とは危うい「狂」的な時間の均衡の上に成立している、奇跡的とも云える事象なのである。
 日常性なり日常的な時間とは出発点として無前提に無条件的に与えられているわけではない。人間がそこに於いてこそ人間であり得るという意味での、一種の共同主観性と云う名の共同幻想が生んだ、祖先が育み後続世代に伝えた価値ある遺産なのである。
 
補注: カント哲学の立場を戦前では「先験主義」と訳されていた。私が1960年代に読んだ翻訳本でもこのように訳されていたと記憶する。それが戦後現象学の興隆に伴い、「先験的」は「超越論的」と訳される方が相応しいということになったらしい。経験に先立つ先後関係よりも、認識論的な地平の違いが強調されたためであろう。
 しかしこの世の世界経験としての事象を、(意識ではなく)言語を中心に於いて言語の先後関係で考える場合、カントを言語哲学として考える場合は、あるいは戦前の「先験主義」と云う旧訳の方が相応しく感じられると思うが、如何であろうか。「超越論的」と云うのでは、如何にもおどろおどろしい中世の形而上学じみて感じられるからである。

フランス映画『冒険者たち』とユダヤ性 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
 
 
  お伽噺めいた冒険活劇なのに、前後の脈絡から外れて出てくる、まるで中世の様な山の寒村の風景、羊の群れの中に埋もれるようにして沈黙の言語を語る風景が遠い昔の予言者じみて、そこだけが妙に印象にのこる映画ですね。
 三人の、それぞれに持ち味を異にした俳優の、素朴と云うよりどこか稚拙な演技がみせる長閑さ、その中で突如語られるユダヤ性、フランス系ユダヤの人々が戦時下に被った惨禍が沈黙として語られ得ないがゆえに、棚引く風が揺らす少女の茶褐色の髪の毛の中で埋もれるようにして見返してくる眼差しの金色の透明さと云うものが、わたしたちが観念的に考えるユダヤ性と云うものと不思議に合致するのです。
 
 
 
 
。 感傷的な冒険活劇、と云うだけでは済まない感じですね。ヒロインのジョアンナ・シムカスと云う女優さんが、美人と云うよりも中性的な感じで、ドタバタ劇の渦中であっけなく死んでしまうのですが、彼女を中においた二人の男の友情と云うか、死んでしまったものたちに対する慕情と云うか、特に今回観て感じたのは、ついでのように映像の中で、唐突に触れられるヒロインの過去の儚い過去と履歴、戦時下を潜り抜けたフランス系ユダヤの人々の歴史、寡黙に語る羊飼いの山村の老夫婦の沈黙の言語、石積みの、これは廃墟か中世の僧院を思わせる、コルシカか離島の山奥を思わせる僻地の、厳しい環境で語られる一枚の写真を間に挟んだ老夫婦の語らい、沈黙ですね。戦時下に、こんなところにまでナチスの手は及び、そしてどのようにして子供を守り抜いたかをこの映画は語らない。
 
 対照的なのは、もう一つの、物心がついてからヒロインがお世話になった、これはブルターニュと思われる海辺の寒村での遠い親戚たちの回想に出てくる、正反対のヒロインの肖像である。彼らの断片的な思い出話から分かるのは、始終、問題を起こしていたのかもしれない反抗的な思春期の肖像である。
 一方では、良い子だったと過去を懐かしむように語られ、他方ではその存在が厄介者視された、二つの相異なる証言の間にこそ、挽歌として語られなければならない自伝があった、ということだろうか。
 
 映画は、車のスクラップ置き場から始まる。ヒロインは工業製品のスクラップから金属溶接でオブジェを造る前衛芸術家、という設定、二人の男はレーシングカーの開発に夢を掛けるアマチュアのエンジニアと、凱旋門の下を二翼のプロペラ機で潜り抜けようとして失敗するパイロットの、何れも俗世や世間と云った戦後世界から外れたところにいる三人の物語、だから「冒険者」。
 映像は、60年代のパリの変貌も映していて、そこには郊外に林立する高層アパート群やハイウェイを描き出す。戦後が、物質的な安定をもたらし、日常性の枠組みが確固たる実在性の感じを与えるにつれて、彼らはことごとく自分たちの夢の実現に失敗するし、「戦後」を「冒険」と感じなければならない、そういう意味で「冒険者」。
 
 ヒロインがあっけなく死ぬことの意味はなんだろう。少年のように性も未発達であれば人生観も未発達な少女があっけなく死ぬ。それを悼む青年と中年男は、終始、少年のように描かれる。この映画には、性が不在なのである。
 二人の男が、ヒロインに寄せる恋情は儚く、友情のないまぜられたものとしてある。思春期の終わりのように、友情か恋情かのいずれかを選ばなければならない時が来る、しかしその時を選ぶことは、自分たちの最も美しい何かをみ失う時でもある、だから美しきヒロインは死ななければならぬ、こうした感傷の美しさはフランス映画特有の現象であって、思春期と青年期の間の束の間の過渡期を、ある種の独立性あるものとして描くと云う事は、映画がどうである以前の、背景の文明が成熟していなければならない。この映画のヒットを機縁として様々な類似の映画が造られたと聴くが、フランス文化の、戦後の過渡期と云う、限られた時間と空間の中に限定的に成立した事情を、他国の文化がそれなりに消化すると云うのは、興味ある条件かもしれない。
 
 さて、お話の方は、ヒロインが死んでも後日談が続いて、ヒロインが第二の故郷に夢見た、モンテクリスト伯に出てくるような海上の要塞を人の住める場所にしたいと云う、残された二人の男たちのお話は続く。ついでに言い忘れていたのだが、戦後のそれぞれの夢に挫折した三人は、巧いこと、夢のようなアフリカのコンゴ沖で宝物を探すと云う冒険譚を実現するのだが、その金銭をめぐるお伽噺の活劇の中でヒロインはあっけなく死ぬことは先に書いた。そこで残された二人は、そこで得た資金を基に死者の残夢の残り香を実現しようと云うのである。
 
 これは、お話であるので深刻に受け止める必要はない。ヒロインの薄幸と云う事とユダヤ性と云う事が、映像の美しさの中で十分な均衡を保っていたと云う事を言いたい。そのヒロインの残夢の実現の場である海上の要塞にも悪者たちの現世の欲望は追っかけてきて、仕掛けられた銃撃戦の中で若者は負傷し亡くなる。死ぬ間際に二人の男たちは、本当にヒロインが愛していたのはどっちだったろうかと、長閑な議論を交わすのがご愛嬌である。中年のおじさんの方は実際に愛を打ち明けられており、それで青年の方は一時はパリに去っていたのだが、ここは友情のために、死に逝くものに、お前の方を愛していたのさ、と云う。青年は、嘘つきめ!と云って笑みを浮かべて死んでいく。
 
 感傷的な場面だが、こうした場面を臆面もなく描けると云うのがフランス映画と云うものの王道なのですね。それで、感傷は脇において、本当に愛されていたのはどちらだったろうかと、わたしなりに謎解きをしてみる。
 キーポイントは、この映画は性を介在させない映画である、と云う事である。結論はヒロインが愛していたのは青年の方である。それはヨットでの船上生活の所作から明らかである。ヒロインにとって青年の愛を受け入れることは現実の様々に困難な雑事を受け入れることである。愛を受け入れる用意が出来ていないともいえるし、愛によって損なわれるものを愛おしんだともいえる。二人の男から愛を申し受けたものの不決断の決断、決断の不決断である。ヒロインはかかる過渡的な存在の象徴であるがゆえに、あっけなく死ぬのであるし、慕情だけを男たちに残すのである。
 ところで性を介在させない愛とは、父性愛もその中の一つである。父と云うものを知らないこと、父性と云うものが歴史の過酷な運命の中でユダヤの一人の子供を守るための城壁として機能したエピソードがあったこと、それが海上に浮かぶ城塞都市の隠喩でもあるし、そんな戦時下の異常な記憶が、この映画の中で描かれるわけではないが、水際だったユダヤ性の記憶としてこの映画を記憶にとどめるものにしているのである。
 

演劇空間の誕生 始原への旅・Ⅲ アリアドネ・アーカイブスより

演劇空間の誕生 始原への旅・Ⅲ

2011-02-04 07:11:31

テーマ:絵画と建築

6.おわりに

 

 私たちは“親密な舞台と観客の原初的な関係”を如何にして取り戻すことが出来るのだろうか。それは芸術形式のあれこれの違いを論じることではなく、固有の演劇空間の成立の如何による。演劇空間の意味論的な定立は芸術概念の改変にある。つまりテスト氏の一夜を潜り抜け、その夜明けには何があるのか、という問いである。残念ながら私たちはそれに対応する術を豊富に持っているわけではない。本稿のギリシア悲劇の解釈や中世の道徳劇に関する事例から得られる知見は、若干の示唆と教訓と重要なヒントとを与えるであろう。さらに純粋芸術と大衆芸能の並立的状況を鑑がみながら、あの啓蒙期を生きたインマヌエル・カントが最晩年に志向したとされる美学、とりわけ趣味論は参考になるだろう。またファシズムの時代を潜り生き抜いたドイツの政治哲学者ハンナ・アーレントはカントの美学に準拠し敷衍しながら、味覚に関する秘私的な趣味性についての意義を語っている。そこでは食べ物の好き嫌いのような学問的には何の価値があるとも思えない、最も私秘的なものでもあれば個人的なことどもの底に潜む厳密性を帯びた拘り、プライヴェートでありながら手強いある種の客観的なものの感触を帯びた存在に直面した驚きについて語っている。あえて芸術と云う名の手垢が付いた呼称を用いることを避け、あえて私秘的なもの味覚・間隔・触覚という、従来視覚や聴覚が外部感覚と名付けられた分類からすれば所謂内分感覚として分類されたものを対置し、そこに私秘的ならざるある種の客観的な感じのする“あるもの”、そのあるものの由来こそ実は主観的であるようで主観的でなく、客観的であるようで客観的でもない、存在論的にニュートラルな芸術の起源があり、公共性の痕跡を求めようとする私たちの旅はまだ続くのである。

 古典古代期のギリシアは自由と云うものを知っていた。しかし平等の概念には割合鈍感であった。またギリシア時代は歴史上初めて“公共性”の概念を知っていたけれどもそれは政治的な公共性の意味を超えるものではなかった。そういう意味では芸術を公共性の概念のもとに捉えようとする試みは、かつて人類が経験したことのない新しいページを開くのである。

 

 

【参考文献】

一般に入手が容易な人文科学系や文学・哲学関係の文献は省略いたします。

劇場建築に関しては、下記の書物に多大な示唆を受けています。

S・ティドワース著 “劇場” 白川宣力・石川敏男訳 早稲田大学出版部 1997年

演劇空間の誕生 始原への旅・Ⅱ アリアドネ・アーカイブスより

演劇空間の誕生 始原への旅・Ⅱ

2011-02-04 07:08:32

テーマ:絵画と建築

4.大劇場の成立からバイロイトの祝祭歌劇場の演劇空間へ

 

 こんにちわれわれが具体的な劇場としてイメージする近代的演劇空間の誕生がどの段階であったかについては詳細の論議と議論が必要だが、概略的・演劇史的には新古典主義の成立、つまり14世紀から15世紀にかけての“ルネサンス”とのちに呼称されることになる時代、代表例としては先述のパッラディオによるヴィチェンッアのテアトロ・オリンピコ劇場の成立をもって嚆矢とするということについては大きく論議が逸れることにはならないであろう。ヴェネツィアフィレンツェ都市国家から始まり、フランスを始めとする西欧諸国における国民国家成立におけるバロック期の華としてのオペラの隆盛に至るまで、この間の興味ある有為転変の事象や経緯については他書に譲りたい。ここでは国民国家の国威掲揚事象の極限態としてのバイロイト祝祭歌劇場の演劇空間が何であったのかを簡単に触れるにとどめたい。

 さて、私たちはいまバイロイトの祝祭歌劇場の観客席の一隅に座っているとする、そこで最初に気付くのは目の前にある大仰な三重のアーチに隈どりされたプロセニアムアーチと、その背後にある舞台空間である、観客席と舞台を厳密に区分するおどろおどろしさに圧倒されることであろう。さらに詳細に目を凝らすと舞台最前列のオーケストラボックスは灰色のフードに囲われて観客席からは全く見えない。やがて照明がおとされ神秘の彼方から“姿なき”オーケストラピットから立ち上ってくる音響の呟きはやがてファンファーレの奏でる大音響となって演劇空間を超越的なイメージで満たすであろう。

純粋な標準条件による純粋芸術の鑑賞、ここにおいて私たちは舞台の下に深くえぐられたオーケストラボックスを舞台機構上の知識を活用し“想像”しながら、かっての、ギリシア円形劇場で見聞したオルケストラとコロスの媒介的な役割、つまり演劇空間と観客席を繋いだ役割の完全なる消滅を確認するのである。オルケストラという場の演劇的空間の消滅は単に音響的効果や視覚的効果と云う観点のみでは評価できないある種の本質的な変化をヨーロッパの演劇空間に導入したかのようである。つまりここでは、ほの暗い客席に押し込められた観客は一方では絶対的な受動態としての美的傍観者、ディレッタントもしくは単なる美的鑑賞者として、他方ではワグナーの決まり切ったお涙ものの甘ったるい、男尊女卑のイデオロギーに露骨に粉飾された凡庸な道徳劇に付き合わされる羽目になるのである。ワグナーのオペラとバイロイト祝祭歌劇場の演劇空間から失われたものこそ、遠いギリシア時代の円形劇場にありえた、完結した定型性を嫌う古典古代のギリシアの雄渾な悲劇精神、たとえ悲劇的結末が避けられない運命として登場人物の上に君臨するものであったにしても、英雄とは怯むことなくそこに“現在”という名の時制変化を持ちこんだ古典古代のギリシアの人々の意識と心意気こそ、古典古代期の生き生きとした都市国家の民主主義的精神の具現した偉大な姿なのである。

 

 

 

5.ワグナー歌劇から映画芸術の誕生へ

 

 建築家が演劇的空間において何を成しうるのかは一義的には語れないし言えもしないであろう。建築とはいつの世も支配的な時代的価値観の集大成として、歴史に“立ち遅れて”到達する。時代を先験的に読み解く技術としては建築は不適当な技術なのだ。総合芸術としての建築に与えられた偉大な役割は他にある。例えばアクロポリスフィレンツェの花の大聖堂が切り開いた偉大なる造形性と空間的告知のように。

 私たちは、ギリシアの円形劇場、中世の野外劇、そしてワグナーによるバイロイト祝祭歌劇場等の改革と結末と教訓を通じて、わずか三例のみのケーススタディーではあるが、概略、西洋における演劇空間の発展と省長の歴史を振りかえってみたのである。

 その中でもとりわけ現代に教訓を残した事例としては、ワグナーの諸改革とバイロイト祝祭歌劇場における試みであろう。ここで顕著に言えるのは、常に時代の後追いをするように自己実現を図って来た建築と名付けられた芸術の様式が、ここではワグナーとルードヴィッヒという理解者とパトロネージに恵まれて、初めて芸術家の理念が先行的に実現する劇場空間と劇場建築とが可能となったことである。そしてその評価はいままでの論述にもある通り現在においてもなお賛否両論の渦中にある。

 その理由の一つは、芸術と云う概念をどのように理解するかについての共同合意が学理的に成されていないことにあるのではないだろうか。より厳密な云い方をすれば芸術と共同性を繋ぐ意味論的な脈絡が希薄なのである。純粋芸術はこのあと、音楽の世界ではマーラーリヒャルト・シュトラウスからシェーンベルグをへて現代音楽へ、文学の世界でもボードレールによる芸術至上主義の宣揚からヴァレリーの“テスト氏”の一夜に至るまで、その他彫刻や絵画の世界においても純粋芸術の概念には揺らぎがないかのようである。そしてその対極としての娯楽芸術、大衆演劇もまた健在なのである。かかる両芸術の平和共存的なあり方の中で何が必要不可欠で、何が失われたのかという問いが切実に問われた事はなかったのである。

 最後に、純粋芸術であると同時に大衆芸能でもありえたワグナーの歌劇とバイロイトの祝祭歌劇場の演劇空間を意味するものが何であったか、これを20世紀以降著しい興隆を示してくる映画芸術との関係について論じることで締めくくりとしたい。

 再び話は古典古代のギリシアに戻って、あの円形劇場のオルケストラと云う名の円形の空間とコロスという名の合唱団が果たしていた中間的な役割の中で、観客は純粋な傍観者として芸術や自然に対峙するのではなく共同参画的な空間を生きていた。時制変化においても現在とは、未来と過去の中間に成立する抽象的な存在ではなく、生き生きとした臨場性あふれる現代の流行りの表現を使えば身体的な言語として成立していた。この関係を強引に擬-近代主義的な主客分裂へと持込み、ギリシア悲劇的な“対話”の理念から法廷的な“論争”へと屈折させたのはかのソクラテスプラトンとであった。こののちアリストテレスの努力があるにはあったが、この趨勢を根本的に挽回するには至らなかった。

 ソクラテスプラトンの哲学とは、端的にいえば“みること”に準拠する哲学、すなわち純粋なアタラクシア、“観照”の学なのである。プラトンの哲学を支配しているのは見ることに準拠した、より正確により精度よくものを見極めることのできる認識の学、なのである。近代市民社会と資本主義社会の勃興の時期と哲学的な認識論の隆盛がルネサンス以降プラトン哲学の再評価と結びついたことは怪しむに足りない。ここに正しくものを見るとは見るものの思惟と眼差しの鮮明度のほかに、主客を繋ぐ適度の距離感と云うものが前提されなければならない。近代人のものの考え方とは、この距離感を自明のものとすることによって成立した。この距離感の中から一方では人間の優位さと搾取されるものとしての自然観が、他方ではこの敵対関係に準拠する自然と人間の関係が、そのまま社会に持ち込まれて資本家と労働者の対立へと、資本主義的な貧富の格差の起源になった。こんにち我々が眼にするプロセニアムアーチを境にして鋭く分岐する舞台と観客席の関係は、また最前列の座席の下に押し込められたオルケストラの痕跡とは、かかるものごとの隠喩にほかならなかったのである。

 こうして疎外態としての芸術、自己疎外の極限態としての芸術としての映画芸術が20世紀に誕生することになる。ここでは映画芸術の是非を、本質論としての良し悪しを論じているのではない。疎外態として現れた芸術の2500年の歩みの中から最も典型的な経緯として映画芸術が誕生することになる歴史的過程の、その象徴的な意味に注目していただきたいのである。

 周知のように、映画芸術においてはプロセニアムアーチは物理的に有ろうが無かろうが本質的に映画芸術に内在的に固有なものとして本質化されている。例え屋外公園のような野外の仮設ステージで演じられるとしても、夜の暗闇がプロセニアムアーチの代役をする。映画の場合はプロセニアムサーチの存在はたまたま偶然にあるという在り方ではなく、より本質的なのである。つまり映画芸術は、自分ではないものとしての極限態としてのあるものの存在を銀幕の彼方に華やかにも投影する。昔の日本人はこれをいみじくも“銀幕”と表象した。そこには手の届かない庶民の憧れと、銀幕やハリウッドスターたちのオリンポスもどきの天上的世界を垣間見る奇跡のような空間がありえた。映画芸術が20世紀後半、姉妹関係にあるとも言えるテレビジョンに一方では押されながらも、一定の影響力と視聴者の感性的支持とを保持できた最大の理由はここにあった。つまり20世紀の観客にとって“銀幕”の彼方の私生活とは、ちょうどフランツ・カフカの主要な登場人物にとっての社会機構や官僚制が、見通しが利かない有無を言わせない権威の絶対性を持つように、そこではその敵意の反転された形としての庶民の夢や憧れが逆投影された形として、つまり語の正確な意味における“現代芸術”として将に成立していたのである。

 もちろんかかる理由をもって映画芸術の存在が否定されるわけでもない。建築が歴史を後追い的に実現した技術であるように、映画には映画のまた違った特性と役割と云うものがある。映画がこの約束事を忘れる時、例えば1960年代のジャン・リュック・ゴダールの映画“ヴェトナムを遠く離れて”や、ペーター・ヴァイスの長大な題名を持つ映画“サド侯爵の指導のもとにシャラントン精神病院の演劇グループによって演じられたジャン・ホール・マラーの迫害と暗殺”劇のように、舞台と観客は敵対的な関係のものとなるのは象徴的である。こうして私たちはギリシアの円形劇場から2500年の時空を一巡するかのようにひと廻りして、殺伐とした現代の演劇空間の世界に佇む自分自身の肖像を見出すことになるのである。映画芸術とは、そうした時代に固有の、象徴的な表現形式なのである。