アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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初期の須賀敦子――”ミラノ 霧の風景”と”コルシア書店の仲間たち”(2010/3) アリアドネ・アーカイブスより

初期の須賀敦子――”ミラノ 霧の風景”と”コルシア書店の仲間たち”(2010/3) アリアドネA
2019-08-26 17:11:06
テーマ:アリアドネアーカイブ


原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505535287.html

初期の須賀敦子――”ミラノ 霧の風景”と”コルシア書店の仲間たち”
2010-03-10 15:45:21
テーマ: 須賀敦子

特に事件というほどのものが語られるわけではない須賀さんの随想風の連想的な語りの中で、当初何が注目を引いたのだろうか。よく言われているのは、須賀さんは当初自分自身の身辺雑記に語るべき内容があるとは思っていないし、読者が耳を傾けてくれるとも思っていなかった。それで初期の“ミラノ 限の風景”や“コルシア書店の仲間たち”では、彼女が十二年間のミラノ生活の中で出会った様々な人々、――上は貴族やブルジョワ階級から定職を持たない移民生活者までの、様々な人々について彼女は語った。

とりわけ彼女の描写が成功していると感じられるのは、上流階級出身の人たちを描いた部分である。チェデルナ、ツィア・テレーザ、フェデリーチェ夫人、それからラウラ・ステファノなどは忘れがたい印象を残す。

たとえば若いころ哲学の博士号を取得しているフェデリーチェ夫人についてはこのようである。
“・・・そんなとき、還暦をすぎたフェデリーチェ夫人の、生気にあふれた黒い目は、コートに降り立った少女のように、きらきらとかがやいた。”

ラウラ・ステファノについては次のようである。
“・・・そう、私は思うけど、としめくくり、それから、はずかしそうに笑った。てれたような、声をださないで肩だけをふるわせるあの笑いを彼女が笑うと、みなの緊張がいっぺんに解け、なんとなくそれでいいと思ってしまう。・・・夏の日の涼しい風のように、彼女の意見を待つことがあった。”

たった一人の身内である妹を亡くしたところでは、
“(ラウラは)、時間をかけて一人哀しんでいた、孤独で透徹した哀しみが、私には尊いものに思えた”

もし自然科学的言語というものがあって、これらの人物群像を対象指示的に描くならば、なんだ、須賀さんはスノッブだったのかと思われるかもしれない。事実日本の社会には存在しなくなって久しい、もう今日では化石か恐竜のような存在に成り果てた貴族や上流社会の記述は日本人の目には目新しかっただろう。須賀敦子という作家が当初広く日本の読書界に迎え入れたれたにはそういう理由もあっただろう。

須賀さんを驚かせたのは、個人主義心理学では手の届かない人物像の背後に広がる背景、社会の階級的厚みだった。同時代の日本の現状を鑑みれば、アメリカ流の民主主義が一世を風靡し、たとえば丸山正夫の“である”と“する”の論理が試験問題にも出されるという時代だった。須賀さんの時代認識がどれほど日本の水準とは異なっていたが理解できるだろう。

須賀さんの異国の体験が、たとえば同時代の遠藤周作森有正と違っているのは、異文化を異質なものとしてみる感受性、心理的なコンプレックスである。もちろん、日本の海外研究者の中には海外の研究者以上の見識を有する人もいるかもしれない。現状の日本の水準からすれば、それだけの自負心があっても不自然ではないと一応は言いえるかもしれない。しかし須賀さんのヨーロッパ理解に関する矜持はこれら戦後の日本人とは著しく異なっていた。たとえば例として適当なのかどうか解らないが、“きらめく海のトリエステ”には次のような箇所がある。

“とくにマスケリーニの口調には、きみたち他国のものにサバの詩などわかるはずがないというかたくなな思い込み、ほとんど侮たちのような響きがあった。また、他の客たちの口にするサバも、トリエステの名誉としてのサバであり、一方では、彼らの親しい友人としての日常の中のサバであった。そのどちらもが、私をいらだたせた。私と夫が、貧しい暮らしの中で、宝石かなんぞのように、ページの上に追い求め、築き上げていったサバの詩は、その夜の、マスケリーニの美しいリヴィングルームには、まったく不在だった。こっちのサバがほんとうのサバだ。寝床に入ってからも、私は自分に向かってそう言いつづけた。”

須賀さんは西欧と日本の間に通約できない断絶を感じていたが、個人の感受性の質としてそれを感じていたわけではない。巨視的にいえば明治維新と戦後という二度の階級社会の崩壊を経験して、人間を個人の出自と社会的階級性と歴史性とからなるコンプレックスとみる視点を失った。真の断絶は文明と文明の間にあるのではなく、人間をその社会的属性をも丸ごと含めた人間観を理解できるかいなかの、個人の感受性の質の中にこそあった。

須賀敦子は、戦後日本の中にあって、欧米という名の対象性を、追いつけ追い越せの観点でも、または所詮は理解し得ない民族の秘密、コンプレックスの裏返しとしての、伝統の固有性や日本社会の特殊性として語らない、初めての人だったのである。