アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

社会事象としての村上春樹の”ノルウェイの森” ・第1夜

社会事象としての村上春樹の”ノルウェイの森” ・第1夜
2011-12-23 13:09:11
テーマ:歴史と文学


http://t3.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRmf9pRsg8gozyUTwB1mFVt0_uayWX_oFTmW8rLlS6bgiioBxx3jA

 じつは昨年の今ころ、トラン・アン・ユン監督と云うヴェトナム生まれの方の ”ノルウェイの森”を久し振りに封切り館で見たのですが、何を思い考えたのでしょうか、クリスマス・キャロル的と云うか、こと改めて映画館に行く等年末のこの慌ただしい時期にしか起こりえないことでしたね。この封切りの映画館に行く等と云う ”わたくし的” な動機ですら、何かしら ”村上春樹的?” で、つい微笑んでしまいそうですね。このあと、キズキ君や直子さんという登場人物の過剰な感情移入があったりで思わず貰い泣きしてしまうところなど、これも春樹的と云えば春樹的と云えるわけですね。あとでこのことを知人に何かの事のついでに話した時に、一様に私の文学のスタイルとは合わないと云って、笑われてしまいました。しかし笑事ではないのです。映画は実によく造られていて、小説のエッセンスを上手に要約したものだと直ぐに直感しました。その時の驚きについては、イロニーも交えて他の記事にも書いています。今回、小説の方も併せて読んで、小説もそれなりに興味深いのですが、映画が原作よりも優れている事例を一つ加えることが出来たという感慨を持ちました。映画が春樹的な関わり合い以外には評価されなかったことが可哀そうなくらいです。しかし今回は映画のことはこれだけにします。今日は、原作そのものについて語りたいのです。

 始めに、村上文学に向き合う私のスタンスを明らかにしておきましょう。村上春樹の小説を文学ではなく、社会事象として捉えようと思うのです。社会事象として考えると云っても、社会学者のように上側から社会の現象として俯瞰的に論じるのではなく、一方では外側の歴史的・分節的な理解として、他方では内側の小説の構造や論理の組み立て方を通じて双方向側からの村上現象と呼ばれるものの本質に迫ってみたいのです。この社会学的な観点の根底には、村上春樹の小説は文学ではないという私の認識、確信があります。文学であるのかないのか、賛否両論はあると思います。あるいは、それ以上に村上春樹の読者にとっては文学であるかないかと云う議論はどうでもよいことでしょう。要は、物語として面白く読めれば良いと彼らは云うでしょう。しかし文学であるかないかは、1948年生まれの私にとってはどうでもよいことではなく、実存の条件に関わる問題なのです。同時代に生きた人間として何時かは雌雄を決せなければならないと思っているのです。その経緯についてはこの一連の複数の断章群の中で徐々に明らかにされていくと思います。

 ことのついでに、刺激的な言説を吐いてしまいましたので、文学であるのかないのかと云う場合の、”文学” なるものの定義について一言述べておきたいと思います。
 村上春樹の小説に限らず、言葉で書かれたものは全て文学と見なせます。そう云う意味では、文学だと云う事がもちろん云えます。
 また、文学とは、植民地での文学、文芸でもない限り、伝統や広汎な社会的慣習の約束事の上に成立します。そうして如何なる個別文学も、こうしたバックグラウンドを離れたてはあり得ないわけです。いっけん新開地に移植されたアメリ現代文学の再現であるかにみえる村上春樹の文学においてすら、このことは云えるのです。黒白反転したネガアルバムとして、消極的な受け身の事象として、逆説的な事象として云えると思うのです。
 他方、文学であるとは、こうした村上春樹の小説に見るような、無意識的、先‐言語的な状況における事象を云っているのではなく、文学自身の問題として自覚的に捉えきっているかどうかを、文学であるかないかと、この場合云っているのです。
 芸術家が、己が行為について自覚的であるかないか、これは近代芸術の必須の条件として自明視されたことではあるのですが、これ以外のものを芸術でない等と云うつもりはありません。現代社会においては、現代芸術やサブカルチャーとともに古典や民俗芸能と云うものも立派に併存しているのですが、これを非芸術としてあるいは職人技として貶めることはできません。近代的な意味での芸術ではないかもしれませんが、広義の意味での芸術です。芸能、技芸は近代主義の意味での芸術概念よりも広いのです。もっと云うならば、近代的な意味での芸術概念が果たして芸術と呼ばれるのに相応しいかという原理的な設問の可能性も考えられるわけなのですが、ここではこれ以上論議の主旨上この問題に深入りするわけにはいきません。ここではスタート地点に一人立つものとして、論評者の手の内を最初に明かすと云う意味で、私自身がどのような芸術観を抱いているのか、何を持って文学と云い非文学と考えているのかを述べておくことが、今後深まる議論の前提としてフェア―である、と云う気持がするのです。

 さて、徒然なるままに取りとめないことを述べてきたのですが、私の本断章群の表題についてなのですが、”事象”と書いてしまいましたね。なにゆえ ”現象” ではいけないのでしょうか。社会 ”事象” であって社会 ”現象” であってはいけないのでしょうか。
 現象とは、本質との対概念です。現象の背後に本質が潜んでいると云う考え方ですが、この考え方は因果論などとして近代自然科学に固有の考え方であるとともに、二千数百年に渡る三大世界宗教(仏教の一部を含まず)と云うものがも齎した思惟の形でもある、と云う事には案外言及されておりません。なぜ、現象は現象そのものであってはならないのでしょうか。現象は本質に先立つとは実存主義の有名な定義ですが、この考え方は流派に関係なく普遍的なあり方となって流布されています。私の立場も、この流布された一般的な立場に立脚しているのだとご理解ください。