アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

”ノルウェイの森”を廻る評論家たち 川本三郎の場合――社会事象としての村上春樹・第7夜 2011-12-25 11:05:47

ノルウェイの森”を廻る評論家たち 川本三郎の場合――社会事象としての村上春樹・第7夜
2011-12-25 11:05:47
テーマ:歴史と文学

川本三郎 ”この空っぽの世界の中で――村上春樹論”1991年

 川本三郎の名前は一般には村上春樹ブームの機縁を作った批評家としての方が知名度が高い。ということは、最初の頃は評価が低かったという事なのだろうか。同時代の文献では、川本の論評を境に「文壇」の空気に変化が認められるようになったらしい。まあ、このようなことは一般の読者にとってはどうでもよいことなのだが、加藤典洋が危惧していたのとは裏腹に、少なくともこの頃までは、「文壇」という奇妙な化石のような集団が残存していたという事なのだろうか、つまびらかに詳細をしらない。
 川本の村上春樹論は、作者がこのように読んでほしいと主旨に添って作品を読み解くという意味で、私の云う読書法のケース・1の代表例である。
 「村上春樹は空虚と闘っている作家である。おしゃれな都市小説の書き手でもないしクールな青春小説の作家でもない。村上春樹はここにあることの空しき人を人一倍鋭敏に感受しそれとひとりで闘い続けている」と村上春樹論を書き出している。
 同時に彼はこうも書いている。
「実際、村上春樹の小説にはなんと空っぽのイメージが多いことだろう。がらんとしたバー、オフシーズンの客のいないホテル、埋め立てられてしまった海、草原、プラットフォームを犬が歩いているいるようなローカル線の駅、修道院のあるギリシャの小さな島、トルコの荒原、北海道の人の姿のまったく見えない牧場」
 批評家川本が連呼する作家村上春樹のイメージは駅で見かける旅行社のポスターに似ている点である。もしかしたら、空っぽなのは村上春樹が「闘っている!」とされる ”風景” などではなく、メディア時代の背景から切り離された継ぎ接ぎ細工のモザイク作家、作家自身の空虚さそのものなのではなかったろうか。なぜ川本はそう書くことが出来なかったのだろうか。
 川本はまた村上が単なる都市のフィーリング作家ではない理由として60年代の革命思想と全共闘世代の追憶を語ったったものではないかと想像する。しかし別のところで書いたように作家・村上春樹の登場は、60年代の革命思想や自己否定の論理という恣意的でもあればエゴイスティックな怒れる若者たちの、自己陶酔と殺人の理論に国民全体がうんざりしていた背景の間隙を突くように、ほとんど満場一致で受け入れられたのではなかったか。もともと彼に、60年代問題を云々するような資質があるのだろうか。村上春樹のことを丹念に読んでいないので断言は避けたいが、当時の大学封鎖解除時の活動家学生に対するヒステリックな拒否的反応を見ると、とても深く時代にコミットメントしていたとは思われないのである。かれは 小説”ノルウェイの森” のなかでヒロインの緑の口上を介して全共闘否定論を述べさせているが、あの当時誰でもが言えるような安での論理を振りかざして状況を乗り越えたと考える、見識の低さと成熟度の低さには唖然とさせられるものがある。小説の世界であるのだから何を書いても良いし、登場人物が特段、知的でもなければ高尚な考え方を披露する必要もない。熊さん八つあん的な発想でよろしいのだが、作者その人が二十歳前の登場人物たちと知的レベルが一緒というのでは大変に困るのである。あの時代を追憶するにせよ、村上春樹でしか語れないことがあるはずだ。彼が彼自身である由縁を語ってこそ作家と云えるのではなかったか。
 川本はまた別のところで、高度に管理された後期資本主義社会における埋め立てられた海岸や人工島の風景に、破壊された自然の追憶と少年時代の村上春樹の原像を読み込もうとする。これは川本の深読み、川本自身のノスタルジックな原像の表出なのであって、村上は郷里や母なるものに対して冷淡なのは先述の学生活動家の自己矛盾に母なるものの存在を読みこんで拒否反応を起こしているところでも明らかである。 ”ノルウェイの森” の登場人物に永沢さんなる学生寮の先輩が登場するが、明治以降の日本近代が生んだ地方出身の立身出世型の末裔を代表する東大法学部の学生として紹介されるのだが、意識のレベルにおいてはかかる類型は故郷や共同体といういう概念の否定の上にしか成り立たないことは思いだしておくひつようがある。村上は一応は永沢のような立身出世型の人間類型に反発をしてはみせるのだが、同根の同一の由縁を持つ、これは逆に敗北者であるらしい ”突撃隊” の不在に対する冷淡な反応をみれば分かるように、村上自身が永沢的な系譜に連なる人物であることを語っている。作中永沢がワタナベ君に自他の類似点を得々と語る場面があるが、ワタナベ君には迷惑でも、村上春樹春樹にはその類動性を確認する上で相応しいのである。
 川本が村上に認めたとする、60年代以降において失われた原郷、アニメの”平成ポンポコ狸”や ”もののけ姫” ならぬ文明批評についても、当時誰もが言えるエコロジカルな時流に乗った発言のひとつと云うことができる。村上の60年代に関する政治的言説と同様、彼の前後の行為や行動、思惟形態の履歴を考えたとき、作者も強くは言っていないことを川本が批評家として語ろうとするのであるから、村上現象の演出者としての作為は明瞭である。
 こうして小説 ”ノルウェイの森” は「黄金の60年代」を追憶するノスタルジックなレクイエム小説としての評価が確立するのである。しかも、あの秀逸なエンディングの存在によって、ハッピーエンドを嫌い、80年代以降の高度管理社会下の「システム」的状況に対して踏みとどまり逃げなかった、「自閉」の時代を代表する作家とまで、評価されるに至ったのである。