アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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古代の残照に照らされて―"愛の往復書簡”―アベラールとエロイーズ(2011.2)アーカイブスより

2011年2月のこの文章は四、五回目の登場です。愛の概念についてはアベラールとエロイーズが辿り着いた境位以外に知らず、それは私の愛の概念の達成であると同時にそこが私にとってはここが行き止まりとなっているという意味です。今日のいまでも変更する理由が見当たらずに、たぶん私はこの概念を持ってあの世に旅立つことになるのだと思います。アベラールとエロイーズの存在は私にとっての極限の道標のようなものなのです。

 

古代の残照に照らされて―"愛の往復書簡”―アベラールとエロイーズ(2011.2)アーカイブ
2019-08-25 22:15:16
テーマ:アリアドネアーカイブ

原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505535420.html


古代の残照に照らされて―"愛の往復書簡”―アベラールとエロイーズ
2011-02-11 00:06:47
テーマ: 読書2011

アベラールとエロイーズ ”愛の往復書簡” 沓掛義彦・横山安由美・訳 岩波文庫2009年 第一刷

冬の陰鬱なこの時期にもよるのか、余りいい話を聞かない。いつも心がふさぐ時、二人のことを瞼の裏に思うのだ。その二人とはアベラールとエロイーズのことだ。

紀元十二世紀のはじめ、いまから900年も近く前に書かれた二人の話は有名である。私には赤裸々な愛欲を語った中世期のセンセーショナルな書と云うよりも、偉大な古典古代のギリシア精神と現代とをつなぐ、二千五百年の時間に占める、ひときわ鮮明に屹立として佇む人影、愛の遠い記憶であるように思う。

良く知られているように、二人の往復書簡は行き違いに終わった、というのが一般的な通説であるようだ。自分自身の罪業と汚辱にまみれた、それでも誇り高き半生を回顧する愛の神学者アベラールと、古典古代の薫陶を受けた最後の教養人エロイーズの間に交わされた、比類なき人類史上屈指の哲学論争であるように思われる。エロイーズがローマ時代の文献に通じていたことは、訳者である沓掛義彦の指摘するとおりである。単なる手弱女であるわけがなく、修道尼院の院長でもあった当時少しは名の知られた思想界の論客のひとりであったことがもっと意識されて良いのではあるまいか。単なる男女の痴話話し、ではないのだ。
 
同時に、アベラール個人に関しても、公人としての、あるいは学者としてのアベラールの書として読まれてはこなかったようだ。言い換えれば、如何なる聖人、偉人であろうとも、こと愛欲に関しては自然主義的なリアリズムで事足りる、と云わんばかりなのである。

当時においてもなお、ロメオとジュリエットのように半ば伝説化していた二人の言動が一種の言説として公共的に空間化されていない筈がない。秘められた愛の物語であるとともに、中世の学問世界や読書会階級を通じて半ば公然化されていたのだ。ちょうど元禄期の赤穂浪士の最終的な意思を江戸八百八町の江戸市民が正確に知っていたように。 エロイーズの言説と言動が堂々としているのは、当時の公論ともいうべきヨーロッパの公共的空間を、ラテン語と云う普遍的な言語を媒介に彼女が代表していたからにほかならない。

第一書簡の最初の方に、地方から青雲の志を抱いてパリに上京してきたアベラールが、自身の論争好きの性格も相まって、自分の師でもあったシャンポーのギョ―ムをたちまちのうちに論破してしまう次第が紹介される。アベラールと云う人は自らの才を誇る余りに内外の敵を造らざるにはおれない性格であったようだ。こののちも終生この類のスキャンダラスな事件に巻き込まれることになるのだが、それがスキャンダルでは済まないのは、中世と云う時代の特殊さ、単なる学説や見解の相違と云うわけでは済まずに、異端の疑いを掛けられて火刑台の炎と消えた事例も多々ありえたのである。

ここで注目したいのは、当該のなにやらのギョ―ムという当代唯一の碩学が、実在論を踏まえた神学者で名をと轟かしていたらしいことである。この本の解説やジルソンの評伝などを読めば、中世と云えば有名な唯名論論争と云うのが延々、公然とあるいは密かに繰り広げたことで有名である。この間のことは概説書の類の受け売りなのだが、アベラールとエロイーズの愛そのものが、普遍の実在ではなく個物の優位性を説く、アリストテレス的な学の延長に連なるものであり、古典古代的学統の誇りを掛けた論戦の色彩を帯びていたことである。

かく読むならば、アベラールとエロイーズの愛の齟齬に終始する下世話話も、単なる痴話話しでは済まなくなる。”あの”事件からおよそ10年後、――あの事件とはアベラールが男性としての一物を失う事件だが――、すっかり行いすましたキリスト教神学者になり果てたアベラールの前に、エロイーズは諄々とした未だ変わらざる愛を説く。時の忘却と磨滅にも耐えた愛の記憶を武器に、現在時制として彼女は語る。神への暴言をも辞さず愛の絶対性を説くエロイーズに、女性に有りがちな愛の感傷性を見るだけでは不十分なのだ。古典古代期の最後の光芒を担った時代に棹さす者としての最大の哲学者の言説として読むべきなのだ。そうでなければ、愛欲を語って少しも臆するところのない彼女の高貴な姿勢が理解できない!

つまり、かっての師であったアベラールがギョ―ムの実在論と闘ったように、エロイーズは師の変節と妥協を詰っているのだ。アベラールとの間に見解の相違があるのではなく、アベラールが十分にアベラールたりえていない、とかっての愛弟子として言っているのだ。だから火消し役に終始するアベラールの説得が生彩を欠くわけである。

純化して話を纏めれば、エロイーズにキリストの嫁としての運命を指示するアベラールは、イデアは個物に内在すると主張したプラトンキリスト教神学の権威になり果てている。イデア(キリスト)ではなく、自分はアベラール(個物)ゆえに生きかつ死ぬのだと主張するエロイーズの姿は、恋愛が同時に哲学であり、彼女が固有の彼女自身ででありえた所以を雄弁に語るものである、と思う。

さて、アベラールとエロイーズの愛の物語の中に現れた愛の姿を論じて、かってアガペーとしての愛に対するエロスとしての愛、として論じたことがあった。やがて肉体なき愛としてのアガペーは、近代主義的なプラトニズムとして甦るであろう。例えばジッドの”狭き門”などはそんな悲劇として読むことが出来るであろう。

今日では村上春樹のように、愛は感情かセックスの問題だと思っている人間が多いから大変に困る。恋愛と云う行為は、同時に徹底的に知的な営為なのである。知的でなければ愛のラジカリズムは貫けるわけがない。

そういう気持ちでどうか以下の有名な文章を読んでみて欲しい、黒衣に身を包んだ当代を代表する修道尼院長・エロイーズの告発が持つ凄まじいばかりの哲学的ラディカリズム躍如である。――

” 妻と云う呼称の方がより尊く、面目が立つように思われるかもしれませんが、私にとっては愛人と云う名の方が何時だってずっと甘美に響いたものでした。御気を悪くされないなら、妾あるいは娼婦と呼ばれても良かったのです。 ”(同書)