アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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山田五十鈴の ”婦系図”――いのちの輝きについて(2011-12-10 )

山田五十鈴の ”婦系図”――いのちの輝きについて(2011-12-10 )
NEW!2019-09-21 07:54:09
テーマ:アリアドネアーカイブ

アリアドネアーカイブ
★印 2011年12月の泉鏡花作『婦系図』の、山田五十鈴による映画化によるものです。18世紀の近代という時代の到来と啓蒙主義の時代以来、愛や恋や恋愛もまた自然であることが尊ばれました。泉鏡花樋口一葉の素晴らしさは、ある意味での人間の不自然――花柳界や廓社会と云う特異で人口ウ的な社会的制度の特殊な枠踏みを利用して、――大げさな表現になりますが、玄人としての恋、プロフェッショナルであるがゆえの恋を描いた点にあるのだと思いました。――鏡花先生には、この寸評、怒られそうですけど!
原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505536282.html

山田五十鈴の ”婦系図”――いのちの輝きについて(2011-12-10 )
テーマ: 映画と演劇


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泉鏡花の有名な ”婦系図”――お蔦と早瀬主税の悲恋物語である。知名度の高さから云えば、先の”歌行燈”は及ばない。監督にマキノ正博、主演に山田五十鈴長谷川一夫を迎えている。

 花柳界がどういう世界であったかはしらない。幼馴染のお蔦と主税は――この頃はまだ名前を隼としていたが、お互いを憎からず思い何れは添い遂げたいと自分たちも思い、周囲もまたそのように思っていた。このへんは伊勢物語の,筒井筒の世界のようである。

 未成年の男女がもじもじせずに、好きだという率直さは花柳界と云う世界ならではのことだろうか。花柳界とは職住一体の世界であり、そこでの生業は色恋の他はないわけであって、子供のころから好いた惚れたそして別れたを見知って成長するわけであるから、それで良いのである。未成年と云うとなまじ純情だということで、うじうじ描かないところが気持ちよい。

 そしてこの世界にも堅気の世界とそうでない世界がある。環境ゆえのスリを生業としていた少年隼は、大学教授の財布を取り損ない、そこで却って温情を掛けられて西田家の書生となる。西田と云うのは大学教授の苗字である。このへんはジャンバルジャンの物語をも彷彿とさせる。西田家には妻と娘がいる。

 隼は、いまは主税と名前を変えて西田教授の愛弟子となる。つまりこの世界では”堅気になる”と云う表現が度々出てくる。つまり主税は、庶民の世界から明治の立身出世の世界に配置換えになる。ただ泉鏡花の描く若き書生は森鴎外のような厭味ったらしいところがなく、きちんと別れる理由をお蔦に説明する。その場面が梅の咲き誇る湯島天神の境内であり、現在も記念碑が掛かっているという。――これからは、伝説の部類に属するのかもしれない。

 ”切れるの別れるのって、そんなことは、芸者の時に云うものよ。私にゃ、死ねって言ってください”

 こんな格好の良い啖呵を切られたのでは、立つ瀬がありませんね。下働きとは言っても、流石、花柳界の女ですね。恋愛とまでは云わずとも色恋が金銭でやり取りされる世界であるがゆえに、却って純情さが、まるで特別保護区の絶滅貴種や国宝のように残されている、というわけですね。だから、命がけで愛した時、女は死ぬほかにないのです。

 ただ、このセリフは鏡花以上に鏡花的とも云える場面なのですが、原作にはなく、舞台化との相互作用の中から生み出されたものと云われています。山田五十鈴演じるお蔦は、こういう江戸前の気風のよさよりも、前途を案じて訪ねた主税の問いかけに対して、今宵までは夫婦として飯田の家に帰れることを聴いて安堵する、身分の違いを受け入れる健気なところを見せます。あるいはそれ以上に、今夜を限りに命と観念して、それが決然とした命の輝きを与えるのです。

 泉鏡花が創造したお蔦と云う女性の素晴らしいところは、別れ話を切り出された時何一つ抗弁せずに、ひとしきり泣き腫らした後、このようなことを凡そ言うのですね。

 ――その西田先生と云うお方が、親とも恩人とも云えるほどの大事なお方であるのなら、自分にとってもそうなのだ、と云うのですね。恋する相手のとって死活に係るほどの大事な人であるのであるのならば、それは自分にとっても同様の意味を持つ筈だ、そう女は言うのですね。

 こうしてお蔦は、主税の立身出世を陰ながら見守りながら死んでいくのです。多分彼女は、やがては主税と西田教授の一人娘が添い遂げることになるのを死の床で予感していたと思います。
 春まで生き延びられない自身を湯島の白梅に例えるお蔦はどこかプッチーニのオペラ ”ラ・ボエーム” を彷彿とさせる。世俗と純情の拮抗する深淵の中に身を滅ぼすという意味では、”椿姫” にも似ているというわけで、古風な日本情緒を描いたように見えながら、流石文明開化期の衣鉢を継ぐ鏡花ならではですね。古今東西の文献の ”引用” が仄見えて趣のあるところです。

 西田教授や主税の男社会の手前勝手さを指摘しても仕方がないのです。ここでは明治期の格差や差別の社会構造を前提としてこそ、お蔦の、まるで人形浄瑠璃のような女の命は輝くのです。あるいは例え花柳界と云う特殊な世界に培われた奇跡のような至高の純情であろうとも、ただ一人凛呼として俗塵を払い美の世界に屹立する、そういう意味では如何にも泉鏡花の世界の人物と云うべきでしょう。

 ただ、”歌行燈” と ”婦系図”較べてみれば、同じ鏡花でも作品としての強度の違いがあるようです。監督をした成瀬巳喜男マキノ正博の違いとも云えるし、花柳正太郎以下の新生新派の演劇人の重厚な支えのあるなしも関係していようし、一方は恋、他方は能楽と云う技芸の世界を主題に選んだところにも、関係があるのかもしれない。

 何れにせよ、山田五十鈴を始めとして、芸妓たちの命運を見守る沢村貞子演じる髪結いの女将をはじめ花柳界に生き死んだ人々、置屋の魅力を味あわせてくれる映画である。若き三益愛子の姉さん芸者を演じる格調ある演技もまた見どころのひとつです。

 湯島天神に詣でた日のことが懐かしく思い出されます。

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