アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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愛のジャコバニズム――『危険な関係』(2018/7/16) アリアドネ・アーカイブスより

愛のジャコバニズム――『危険な関係』(2018/7/16) アリアドネアーカイブスより
NEW!2019-09-17 11:24:13
テーマ:文学と思想

フランス革命の黎明期が生んだ偉大なるフランス文学の高峰
※ アーカイブスは二度目の登場になります。フランス文学が何であるかを考えた場合に思い出される、愛が個人概念に基づく孤高で孤独な営為であると云うことを、これほど見事に、しかも果敢に描いたラディカリズムの傑作です。どうぞご味読くださいませ。
原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505576575.html
愛のジャコバニズム――『危険な関係
2018-07-16 22:01:02
テーマ: 文学と思想


 ラクロの『危険な関係』1782年、二人の好色で悪辣な愛欲の達人の二人組が、如何にして修道院を出たばかりの十五歳の処女セシルと、これはまた貞操の鏡とも云うべき信女さま、ことツールヴェル法院長夫人を誘惑し、誑し込んだかと云う言お話です。悪党の名前をヴァルモン子爵とメルトイユ侯爵夫人といいます。時はフランス革命が起きる直前の、王朝末期の貴族文化華やかなりし時代のこととされています。筋書きは大したことではないので、はやく言ってしまいますと、ヴァルモン子爵の悪しき企みで処女セシルは赤子をおろす羽目になり修道院行き、法院長夫人は二人に操りなぶられて最後は狂人のような様となって修道院の一室で狂気のなかに息を引き取ります。しかしながら当時の世俗教本としての収支決算もちゃんと考えて有って、悪党ヴァルモン子爵は裏切った友人に決闘を挑まれあえなくバンセンヌの森を血で染め、メルトイユ侯爵夫人は当てにした裁判にも敗れて無一文になり、天罰とも云える皮膚病に侵され片眼を失い、全ての悪辣さの実態が明らかにされ、居場所を失って化け物のような顔になって国外へ逃れていく、と云うのです。目出度し目出度し、と云うべきか。

 しかしこの小説を18世紀フランスの王朝末期のありふれたよろめきもの、姦通物語とするには、著しく際立つた特徴があります。つまり既婚女性との姦通や処女の誘惑を企てるとは言っても、情欲や欲情にによってそうするのではなく、ある種の明確とまでは言えないにしても、理念的に明確な性愛観の使徒として既存の道徳に挑戦し、結果として敗れていくという物語としても読めるのです。それゆえに私は表題を「愛のジャコバン主義」としたのです。

 それでは主要な登場人物を見て生きましょう。
 女たらしの悪漢ヴァルモン子爵、彼は一方では処女セシルに恋愛の指南役を装って、婚姻を破棄させ、初恋の青年との間を割き、自らの欲望を満たした上で彼女を捨て、悔いるところがまるでありません。しかもこの器用な男は同時に、他方ではより難度の高い、ツールヴェル法院長夫人の誘惑にもかかるのです。二刀流です。つまり絶対にこの種の言動や噂とは無縁であると信じられ、自らもそう信じている信仰心高き貴婦人を如何に口説き落とすかと云う点に、己を賭けるわけです。
 問題は既存の倫理性から裁定を下すことではなく、こうした悪徳や背徳がヴァルモン子爵にとって何であったか、と云う点なのです。つまり近代古典フランス文化には『クレーブの奥方』に見えるような貞操の概念があり、それへの理念的挑戦者として、ヴァルモン子爵もモルトイユ侯爵夫人もあるわけです。近代的な愛を知らないのではなく、後者(メルトイユ侯爵夫人)に於いては知っているがゆえにこそ、この小説には書かれていませんが何らかの彼女の経歴に固有な体験と云うものを想定することが可能であり、そこから翻って愛の理念性を憎むように仕向けたのです。彼女ほど人生経験?に富んでいるわけではないヴァルモン子爵の場合は、ツールヴェル法院長夫人を陥落させ愛の凱歌を歌ったのちに、愛の経験と云う未曾有とも云うべき未知の経験に驚きながら、その意味もよく吟味せずにメルトイユ侯爵夫人夫人の唆しによって、あっけなく彼女を絶望の底に鎮めてしまうこと――つまり愛を破綻させると云う作戦――に同意するのです。
 つまり二人の愛欲の人生巧者?を通じて分かるのは、フランス革命の直前の時期に於いて、文化の成熟の度合いは愛の超越性を理解しうる迄に完成していた、と云う点なのですね。それゆえにこそメルトイユ侯爵夫人は愛や恋と云う理念が持つ内容に嫉妬し、ヴァルモン子爵は自らの虚栄心によって惜しげもなく投げ捨て、かつ投げ捨てたものの真実の価値が失われたことによって不覚にも生じた意味の無重力の空白感のなかで、成す術もなくダンスに―の決闘の申し出を夢遊病者のように意志の外部で受諾し、成す術もなく正義の刃の前に倒れるのです。もともと武芸は特異ではない軟弱なプレーボーイであったのかも知れませんが、それにしても今までさんざん悪辣の限りを尽くしてきた大悪漢の終末としては、無抵抗とも呼べるほど気迫を欠いた人生のエンディングでした。何か彼の実存のなかから、生きると云う根本的な次元での活力が使い果たされたような、そんな感じさへ受け取れる終わり方でした。
 それではメルトイユ侯爵夫人はツールヴェル法院長夫人とヴァルモン子爵の何に嫉妬したのでしょうか。愛や恋と云う己の、どういうところに彼女は憎悪を抱いたのでしょうか。
 『危険な関係は』かなり長めの書簡体小説ですが、ヴァルモン子爵が口説き落としたツールヴェル法院長夫人については、不思議と、際立って魅力的であるとか、ひと際優れた美貌の持ち主であるとか、なよやかに流れる金髪や亜麻色の髪であるとか、通俗的恋愛小説につきものの外見的卓越について一言も触れられていないのです。書かれていることは彼女が単に貞淑な淑女であること、高い道徳心の持ち主であること、などです。あえて言うならば彼女は高い社会的身分を別とすれば、十人並みの美人のひとりに過ぎない、と云うことなのです。そして愛欲の達人メルトイユ侯爵夫人を極度の嫉妬と憎悪に駆り立てたのも、月並みな美人のなかに同盟軍であるべきはずのヴァルモン子爵が、彼女の国域や県内には決してあり得ない固有の美を見出した「らしい」と云うことなのですね。つまりツールヴェル法院長夫人は誘惑に屈しかかっていますから内面的に優れて且つ卓越した人格では「既に」ありません。つまり外面的にも内面的にも特異性のない、信心だけが取り柄の平凡な世慣れない女の一人にすぎないのです。その彼女が「苦悩によって」、恋の熟練者ヴァルモン子爵が未だかって経験したことのないような「経験の質」を与えたらしいい、と云うのです。つまりメルトイユ侯爵夫人が生涯を賭けても得られないもの、得られる見込みもないもの、得られることが決してないからこそ、軽蔑し、憎悪した経験の未曾有の「質」を手に入れていた、らしい――本人の意識することなく――と云うのです。
 
 ラクロの『危険な関係』は大変良くできた小説ですからそうしたことが論文のようい論理的かつ明示的に書かれているわけではありません。二人にとってかかる愛の超越性は、封建的世界の残滓として、愛の専門家としての矜持にかけても否定されなければならなかったのです。愛とはそう言う目に見えない不可視の宗教的残滓やプラトンのイデーの如き黴臭いもののことなどではなく、ウエットな感情や情緒を廃棄し卒業した近代的理性に相応しい透明な光の吟味に耐えることのできるものでなければならなかったのです。かかる歴史的な性愛観に向けて果敢な歴史的挑戦を抱き、そして敗れたという意味で、私は彼らのことを、愛のジャコバン主義と呼びたいのです。

 最後にこの小説と歴史的背景について若干語っておくと、僅か七年後にあのフランス革命が勃発するのです。ラクロは当初王政の批判的反対派であるオルレアン派に属し、ジャコバン派の論客として名を成そうと試みます。しかし彼の貴族としての出自や経歴はフランス革命の主流派とはなり得なかったのです(体制内異分子として二度投獄され粛清の憂き目を見ます)。むしろルソー主義の影響下に過激に理念を成就しようとして自滅していく世界史の大きな物語を、それよりもいち早く先見的に、滅びいく貴族社会の崩壊のなかに先駆的な人物群像を求め描き得たと云うことことにこそ彼の真面目があった、と言えましょう。

 フランス革命期以前のアンシャンレジーム末期が生んだ素晴らしい文芸作品と云えましょう。