アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

歌劇『薔薇の騎士』2017年 ルネ・フレミング最終――「愉しい時には終わりがある」

歌劇『薔薇の騎士』2017年 ルネ・フレミング最終――「愉しい時には終わりがある」
2019-08-23 22:22:45
テーマ:アリアドネアーカイブ



原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505565468.html
歌劇『薔薇の騎士』2017年 ルネ・フレミング最終――「愉しい時には終わりがある」(2017・6)アリアドネの部屋アーカイブ
2017-06-17 08:16:38
テーマ: 音楽と歌劇



『薔薇の騎士』より有名な三重唱です。日独対訳があります。
https://www.youtube.com/watch?v=1RlyIR4y4qI


ルネ・フレミングの最終公演のリハーサルの模様を
https://www.youtube.com/watch?v=hFQD8aEQ1gM

こちらも有名なオクタヴィアンとソフィーのフィナーレの二重唱、リハーサル映像から
https://www.youtube.com/watch?v=l1J6mSWaX7w&list=PLkQM-7_8lXllO37YbFL10bjLbBlQsatM9

同じく二重唱。こちらは第二幕から
https://www.youtube.com/watch?v=BJlDZqj8-GQ&index=2&list=PLkQM-7_8lXllO37YbFL10bjLbBlQsatM9




シネマヴューイングより概略の解説を。
http://www.shochiku.co.jp/met/program/0910/img/index/caption_05.gif
指揮:エド・デ・ワールト 演出:ナサニエル・メリル
出演:ルネ・フレミング(元帥夫人)、スーザン・グラハム(オクタヴィアン)、クリスティーネ・シェーファーゾフィー)、クリスティン・ジグムンドソン(オックス男爵)
上映時間:4時間17分
ドイツ・ロマン派の巨匠R.シュトラウスの最高傑作といわれるのが、この《ばらの騎士》だ。台本を書いたのは当時の文豪ホーフマンスタール。18世紀中頃、宮廷文化華やかなウ ィーンを舞台に、優雅な元帥夫人と17歳の美男の愛人、オクタヴィアンの不倫愛が繰り広げられる。しかしその奥には「時の移ろい」という深遠なテーマが隠されている。舞台はいきなりベッドシーンから始まる。元帥夫人とオクタヴィアンは昨夜の余韻にひたるが、夫人はいずれは彼が自分の元を離れていくのを予感する。オクタヴィアンは、元帥夫人の従兄オックス男爵と新興貴族の娘ゾフィーとの婚約を伝える、ばらの騎士としてゾフィーに会い、出逢ったとたんに恋に落ちる。元帥夫人はその事実を知り、毅然として身を引き、若い恋人たちを祝福する。1幕の夫人のモノローグや2幕でばらの騎士が登場する華やかな場面も見どころ。3幕の夫人、オクタヴィアン、ゾフィーによる三重唱も聴きもの。【石戸谷結子(音楽ジャーナリスト)】


(感想)
 今年の『薔薇の騎士』は解釈を施すと云う意味で、幾つかの変更点があるようです。それらのなかでも際立つのは、”よいことには終わりがある”と云う意味での告別を、惜別を詠嘆的に歌い、さり気ない身体性のなかに時の不易と永遠とを演じおえた点でしょう。
 時は世紀末から第一次大戦に至る前のウィーンの頽廃的な貴族社会の雰囲気、この大きな時代の変換点のなかでパプスブルグ的世界も崩壊していきます。人々は刹那的な快楽に身をゆだね明日の惨禍を知らないかのようです。名目だけとなり、もはや売り買いの対象になっている爵位について云々することの愚かさ、それは没落していく貴族社会に於いても新興ブルジョワジーの成金社会に於いても変わりはしないのです。こうした時代思潮のなかで何が真実かを描いたものだとは云えるでしょう。
 ヒロインである元帥夫人マリア・テレーズは若い燕の貴族の青年と夫が長期の狩に出ている間に逢瀬を愉しむと云う習慣がこのところ続いている。それは貴族社会に於いて婚姻関係が愛無くして行われるがゆえに、名門家門意識を大きく損なうものでなければ、夫も妻もそれなりの情事を愉しむと云うことが、非公式な形ではあれ上流社会の不思議な倫理観によれば認められていた、と云うこともあるのかもしれない。別の意味では、多くの貴族社会における舎弟たちがこの世のなかに巣立っていくために年功を重ねた貴婦人たちから生の手ほどきを受けると云うことがフランス風のエレガンスとしてあったのかもしれない。このオペラは、そのような歴史の大きな転換期を背景としながら、元帥夫人、伯爵家の若い次男坊の貴族、そして成金のブルジョワ家の令嬢と云う三人三様の人生の人生の基節点における別れと惜別を愛すると云う感慨のなかに描いている。
 それは例えば元帥夫人マリア・テレーズの場合は、愉しいそれぞれの時は終わった、何事にも終わりはあるものだと云う感慨である。そうして彼女と若い燕との間に”時”のテーマが二人を決定的に断絶するものとして登場する。自分はやがてお婆さんになり、何時までも現状を維持することは出来ない。若い燕も遠からぬ時節が来れば自分のもとを旅立っていくであろう。在原業平の、きのうきょうとは思わざりしを・・・・・、の心境に似ている。
 しかしマリー・テレーズが普通とは違うのはここからである。誰もが自分一人で終わりに立ち会わなければならないと云う意識は、孤独であることの根源的な意識に立ち返らせる。彼女は思う、――まだ世の中の何たるかを知らず僧院の付属の女学校で過ごした多感であるべきはずである日々を、そして世事のイロハも教えられぬまま仕来り通りに、他がそうすると云うだけの理由で家門や家柄意識だけの「相応しい」結婚生活に何の疑いもなく入って行ったことを。――しかし考えてみれば、ウィーンの上流社会やサロンや貴族社会の表裏に渡る世事を知り尽くしたと思っていた”年闌けた”筈の自分自身が、本当の愛とは何かを知らぬままに女ざかりの齢を経り終えそして過ぎつつあるとは、そしてついには未来の生涯の終わりをも予感しながら、彼女は近未来の若い恋人との別れの予感のなかで、皮肉なことに、恋愛ゲームと云う貴族社会のお遊びごとの終わりに於いて、愛と云うものが自分自身の履歴書のなかにはなかったと云うことに気づくのである。
 しかし、ソフィーと云う新興成金ブルジョワ家の令嬢との出会いが何故、ありがちな嫉妬や反感と云う感情と結びつかないのだろうか、彼女は不思議に思う。若い燕の心理的な離反は、長年培ってきた彼女の”正しい愛し方”、”正しい貴族社会としての矜持”ゆえに当然だとしても、彼女が古い貴族としての誇りゆえに嫌悪するはずの成金文明、ブルジョワ社会を代表する娘との間に親和的とも云える感情が芽生えるとは!
 彼女はこの時はまだ意識していなかったが、――愛に遭遇して、その尋常ならざる事態を”まるで教会にいる様な”と表現するほかはなかった若い娘ソフィーの心情を、そして自分の元を巣立って行こうとしている若い燕オクタヴィアンの震えるようなこころの慄き魂の旋律を自らの未完の生涯軸に接続し、若い二人のなかに自らの青春を再現し、手繰り寄せる様に重ね合わせ、再度自らの生涯軸を生き直してみてもいたのであった。
 その理由は、オックス男爵と云う滑稽で好色な貴族を懲らしめるために仕組まれた『薔薇の騎士』と云う名前の”茶番”の仕組まれた企みを見破ったとき、彼女はつくづく思ったのは、「男と云うものは・・・・・」と云う深い感慨に近い感情だった。自分が今までこのようなものだとしてきた男社会の仕来りも貴族社会のそれも、若いソフィー(叡智)の”教会にでもいる様な心持”と云う感情の前では何であるだろうか。男と云うものは・・・・と云う感慨は、この世と云うものは・・・・・と云う感慨でもある。男社会やこの世の全体が見えるようになるとは、それはそのまま、そのような世界との別れを意味している。なぜなら生が全体として見え始めると云うことは、半ば死者の立場から見たこの世の風景に類似していたからである。人は死者となる前に幾度か死のリハーサルを経験するものであるらしい。
 こうした三人三様の感慨を経て、名高い三重唱にたどり着くのである。
 元帥夫人且つ侯爵夫人であるマリー・テレーズは若い二人の恋人たちの前から潔く身を引こうと決意する。その理由は第一に彼女が常々言っているように、貴族としての矜持を保つためである。余裕ある度量の大きさを示して愛を譲ると云うことに於いて威厳を示すことである。しかし彼女は理解していないけれども、時の流れと移ろい逝くときの感慨のなかで、過ぎ行くものとしての愛の喩えを学んだ彼女の感慨と深層心理に於いては、まるで古臭い黴の匂いがするパプスブルグ家の経帷子のような華美で繊細な舞台衣装のなかから清冽な泉のような愛が、ソフィーの初心で素朴な愛が転位され、崩壊を予感しつつあるパプスブルグ的世界の内面性のなかに、目覚め始めていたのである。
 マリー・テレーズが最終的にたどり着いた感慨とは、何事にも終わりはある、楽しい時も悲しい時も苦しいときもまた。そして終わりあるものとしての全体が見える様になったとき人は、それらが一方では認識の高みを意味すると同時に、他方では決定的に自分が表舞台の部外者であることを意識せざるを得ない時期であり、認識とは手強い喪失感と運命的な挫折感のなかで、震えるような愛の認識と、恩寵の根源性なかに恢復されるものなのであろう、ということなのである。かかる愛の不易の認識を詠い歌うに当たって、ルネ・フレミングの銀色の声楽の情感豊かな音質は相応しいものと云えた。

 愉しい時にもやはり終わりがある!オペラ界に君臨し続けたルネ・フレミングにも『薔薇の騎士』のマリー・テレーズを演じ続けた時の至福の時間にも終わりが訪れる。確かに今一度歌うことは可能であろう。しかし『薔薇の騎士』のヒロインが教えているように、何事にも潮時と云うものがある。それは貴族としての、オペラ歌手としての生涯を生きたもののの矜持でもある。ルネ・フレミングは、そうした自分自身のオペラ人生の生涯を重ねて歴史の変換期に重ねて幾重にも歌った。それはやはり淵に臨んでの弾けるような生涯の感慨、絶唱と呼んで近いものがあった。
 同様に、若き燕オクタヴィアンを演じたスーザン・グラハムにとっても、いわゆる”ズボン役”の終わりを意味していた。若い娘の子育ての喜びをインタヴュー時に語る彼女にとっては、敏捷な動き、役柄についていけなくなりつつあると云うこともあろう。しかしまだまだ先がある彼女の場合は、自らの音質に似合った歌の響きをこれからも身に付けて行くであろう。
 舞台背景としての古き良き社会の崩壊、音楽は後期ロマン派の香り高い余韻と余香のなかに舁き消えていくだけでなく、今回の新演出は音楽の消えていく逝き方が優雅さのなかにではなく、軍国主義の無機的な軍靴の響きであることを、黙示録的音階の不協和音として音なき沈黙と静寂のなかに暗示を明滅しつつ鬼火のように揺曳しつつ終わる。世紀末の余韻から一世紀以上の長い長い時を経過を閲して、歴史の喧騒と分裂と混乱はいよいよ臨界点に達しているかに見えるが、時代の幕開けは徐々にわたくしたちの前に開けつつある。――もしかして地獄の窯を!そのような不吉な予感の時代にあって知ってか知らずか、自らの人生の基軸を歌人生に置いた、互いのそれぞれの歌の終わりを、METと云う歌の神殿の在りし日の面影のなかに、水の飛沫に銀色に輝いた盛んな夏の日の過ぎしころ、過ぎし日の前庭において、世紀の三人の首座の巫女たる歌姫は、夫々の想いを万感を籠めて、古きいにしえの神々への詩の捧げものであるかのように、身体を介して木霊させ、音韻的に震え響き合わせ互いの交歓のなかに万象を映し交響させながら、典雅な祭典を初夏の日の長き日永さのなかに消える白雲のように、古きいにしえの過ぎ去りし神話的世界の叙事詩ように、寿ぎ歌いおさめたのであった。


 今回は、愉しいことには終わりがあるものだと云う感慨が身に滲みて震えがとまりませんでした。