アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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モーツアルト三大オペラに見る人生の諸相(上)(2009年7月)”アリアドネの部屋”アーカイブスより

モーツアルト三大オペラに見る人生の諸相(上)(2009年7月)”アリアドネの部屋”アーカイブ
2019-08-23 22:15:50
テーマ:アリアドネアーカイブ



原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505535008.html
モーツアルト三大オペラに見る人生の諸相(上)
2009-07-23 07:08:26
テーマ: 音楽と歌劇

1.追放された神――”ドン・ジョバンニ

オペラ・ブッファとは喜劇的なドラマの荒唐無稽ともいえる展開の果てに、”悪者”は追放され、目出度く全員がステージの前に人生を寿ぐアリアを歌って、目出度し、幕となる。

モーツアルトが生きた時代とは、古いルネサンスの記憶が実情と齟齬をきたし始め、本格的な市民社会を迎えようとする過渡期であった。”ドン・ジョバンニ”の描く風景は実に荒涼としたものであって、ここではルネサンスの”神”は単なる好色性ゆえに地獄に落とされ”ドン・ファン”となった過程が天才モーツアルトの透徹した音楽性ゆえに、かくも華麗に、かくも残酷に描かれている。いわは、観念的に夢や理想を歌う抒情詩人の時代は終わったのでる。――”ドン・ジョバンニ”とは、もう一つの”ドン・キホーテラ・マンチャ”の物語などである。

ドン・ジョバンイがなにゆえかくも華麗な高音域のテノールによるアリアを幾度となく観客い向けて披露するのか、またなにゆえにまるで結婚式の披露宴ででもあるかのようにドン・ジョバンニの衣装は豪華絢爛かつ優美であり、そのたち振る舞いは、哀感を感じさせるまでに華麗であったのか、それは去りゆく近代史の男たちの最後の光芒を寿ぐ、モーツアルトのはなむけの詞であったのだ。

それに引き替え、ドン・ジョバンニを取り囲む人間像は、その主要な三人の歌姫たちの衣装を見ても地味である。とりわけドン・ジョバンニに父を殺された娘は終始喪服で登場し、執拗に許婚者に復讐を迫る姿には幽鬼せまるものがある。ドラマでは伏せられているのだが、この娘にはドン・ジョバンニ都合の悪い真実を知られてしまったものの情念の暗さが終始付きまとう。二番目の貴婦人は社会的ステイタスと軽く袖にされたことへの恨みと、傷ついた自尊心をどうすることもできない。このような人間はドラマの終末にもあるように、修道院にでも入るしかないのである。三番目の田舎娘の精神性のなさと打算そのままの生き方は、これからの時代はこうした種族の時代になるであろうという予言を込めて、モーツアルトの人間観察は実に辛辣である。モーツアルトの女性観が現れていて、とても興味深い。

――”ドン・ジョバンニ”のフィナーレがなにゆえかくも美しいのか。それは近代とという手前勝手な人間どもが、自分のことはともかく全ての罪を古い神々――ドン・ジョバンニに背負わせ、”道徳的”な判断によって造られた”近代的罪概念”なる高みから地獄に追放する呵責のなさ、近代市民社会の厚かましいまでの非道徳性と無精神性を、じつに天才のみがなしえる芸術の持つ力によって描きつくした点にある。
かくて古い神々は黄昏をむかえ、近代人はそれぞれの思惑を込めて、禊ぎの儀式にも似た”思いやり”をこめて、奇跡ともいえるエンディング、つまり複雑極まりない七重唱を生みだしたのである。


2.時の変容、時間の腐食について――”フィガロの結婚
時間性と心理の論理学についてもモーツアルトは透徹した人間観を披露している。このオペラの登場人物の代表格ともいえる伯爵は中世的理念の権化のように描かれているが、実は黒を白と言い籠める厚かましさと精神性のなさにおいて市民社会の象徴となっているのだ。フィガロはその反面教師であって、毒には毒をもって制する、というわけである。ことかように”フィガロの結婚”が描きだした世界は実に寒々としたものであって、各人が全て人を信用せず各自バラバラで、それゆえにこそ各人がもたらす浅はかな勘違いや思い違いが奇妙奇天烈なドタバタ劇を、つまり定型的オペラ・ブッファを生みだしているのだ。

とはいえ、モーツアルトの透撤したリアリズムを逃れている、二人の例外的な人物、それ場伯爵夫人とその小姓ケルビーノの存在である。ケルビーノの特性は、女とみればどんな女性にも愛を感じてしまうという単機能型の人間造形にある。それは言い換えるならば純粋性ということであって、音楽を歌うこと以外の世事においては落第であったモーツアルトその人の天使性というものを暗示していてとても興味深い。

フィガロの結婚”伯爵夫人を迎えることにおいてこのオペラは、とてつもない精神性の高みに達することができた。それは時の腐食、というテーマである。人間の本質が何かの完成に向かうのではなく、絶えず失いつつある何かであったことを、時の嘆きとして伯爵夫人は深い内面的なアリアに託して歌う。

伯爵夫人の高み――すなわち人生の終わりに立ってみれば、愚かしい人間達のことどもが、失い続けた人間性の本質をも含めて、哀しさと懐かしさの対象になり果てるのである。なにゆえ最後に夫人は、伯爵の手前勝手さを”許す”のか、実はこれが次回に書く予定の、モーツアルトの最高傑作”トウシ・ファン・トゥッテ”のテーマなのである