アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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”建築の哲学”――身体と空間の探究 アリアドネ・アーカイブスより

”建築の哲学”――身体と空間の探究
2010-01-10 01:22:13
テーマ:文学と思想

理工系大学図書館の片隅に、忘れ去られてように大冊の間に挟み込まれていた小冊子、A5の小版の150ページほどの内容は”建築”に分類されていたが、立派な哲学の本なのである。

四日谷敬子”建築の哲学”2004年5月20日第一刷 世界思想社

四日谷敬子は1944年の生まれ、京都大学大学院人間・環境学研究科教授である。専門は近・現代のドイツ哲学、特にハイデガーの研究者であるらしい。私自身が建築の出身であることと、近年のハイデガーとの係わりから興味を持った。
目次は次のようである。

 第1章 場所から空間へ――「空間」表象の歴史的変遷
 第2章 身体・感情・空間――カントとハイデッガーを手引きとして
 第3章 建築と身体
 第4章 ヘーゲルの建築理論
 第5章 意義の担い手としてのドイツ建築
 第6章 生きられる空間

哲学が専門ではない私にはこの書の公平な紹介は無理である。しかしこの書に共感する理由は、内的・外的に、二つの理由があった。

一つは成熟した市民社会大衆社会に退落していく過程で、アトム化した一単位としてハイデガーの”世人”概念を読んだこと。ハイデガーが哲学を象牙の塔の高みからではなく、手近な道具概念に基づいた平均的一般人から出発したことは首肯できるが、どこの誰ともつかない、無名性を帯びた”世人”に準拠することが、戦後の彼の政治的無責任さと無関係ではなかったのではないか。アトム化した個人概念は行き止まりではなく、それらを突き抜けて、”人称性”を確保すること、固有な人としての表情を回復ことこそ先決ではないのか、という私個人の問題意識である。

他方、哲学者である四日谷氏がドイツの古教会建築に興味を持ったのは、この書のまえがきにこのように書かれている。――”2000年春に「感覚とロゴス――ハイデッガーギリシア的思惟」を刊行したあと、ハイデッガーの思惟には身体性の問題が抜け落ちていることをあらためて痛感するとともに、ハイデッガー自身もしかし、この問題にまったく無関心というわけではなく、むしろ中期のニーチェ解釈や後期のメダルと・ボスとのツォリコンでの演習を通して、何とかこの問題と取り組もうとしていることを知ったわたしは、このテーマをやはりハイデッガーを着手点として採りあげることにした。”(同署”まえがき”)

つまり、ハイデガー問題の一つを身体性に関する問題と特定する過程の中から、建築の空間性こそ現存在(人間)の身体性の論理を展開するに場にふさわしいと感じた、ということなのだろう。
この考え方は、使用目的に従属する建築とは非芸術ではないのかという一般的には存在する冷ややかな通念と先入観から一部開放するものであった。

こうして無記名の”世人”概念を特定化することによる人称性とは、かけがえのない個体の存立なのであるから、それをより一層適切に表現する場としては”身体”と措定するのがより適切であるような気もする。こうして人称性の問題は差異を孕みつつも身体性の問題に最終的には円環するのである。これは人称性の問題が身体性の問題と対峙するというよりは、側面から強力な支援を受けている、というふうに理解したい。


さて二つ目の問題とは、この書で述べられている”ドイツ建築”、いわゆるゴシック的なものの生成をめぐる建築史的歴史的考察、特にカロリング王朝と古代植民都市ケルンとの関係である。

ふつうケルンといえばラインに並ぶドイツ西方の諸都市、ゴシックの大聖堂が知られている程度であるが、歴史を紐解くとローマ帝国末期のゲルマン地方における東方の一大政治・軍事の拠点でもあった。この間の事情はソフィア・ローレンの映画”ローマ帝国の滅亡”の中で、高邁なマックス・アウレリウス帝が陣没する経緯やその前の騎下の将軍たちや蛮族の王たちの臣下の儀礼の様子は、盛大な閲兵式の模様でも間接的に描かれている。もはや真のローマは皇帝とともにゲルマン圏と接するこの都市にしか純粋な形では存続しえなかったかのように。

それゆえ帝政末期のケルンには多くのローマ式の神殿や倉庫類が建造されたという。四日谷氏が明らかにしたのはその打ちこぼたれたローマ時代の神殿跡にゲルマン人イスラエルのキリストを夢見て、伝え聞くラベンナの聖ヴィタール教会を基本形として多くのロマネスク様式の教会堂を建設した。四日谷氏によればその数、今日でも大小合わせて24棟もの数を擁するという。もちろんこの時代にはそもそもロマネスクなどという建築様式が存在したはずがない。ロマン派のシュレーゲルの時代においてすら、前ゴシック様式という意味合いで使われていたらしい。言い換えればそれらの名を持たない建築群は、文化文明の恩恵に初めて遭遇したゲルマンの人々が、主として耳知識において、キリストの荘厳とはああでもあろうかこうでもあろうかと模索した、その道筋の試行錯誤の過程なのであった。今日見るケルンの大聖堂とは、そうした民族の試行錯誤の果てに完成した様式、すなわちゴシックとは目的として追及された概念であったのに対して、ロマネスクとはゴシックを生みだすに至る過渡的、遷移的な中間的なものだったと、四日谷氏は言うのである。

さらにこの間の事情を複雑にしているのは、ヨーロッパ――主として北方諸国が生みだしたゴシック概念が完成する過程で、これと対抗する意味で南ヨーロッパを代表してイタリアで主としてルネサンス以降独自にロマネスク様式というものが完成された歴史的経緯がある。つまりロマネスク様式と前ロマネスクは理念を同じくするものの、歴史的には別物なのである。

こうしてケルンの大聖堂を中心とする教会群は近隣のアーヘン宮廷礼拝堂――神聖ローマ帝国の首都――とともに、ギリシア・ローマの古典古代の精神とゲルマン的キリスト教精神の出会いという、ヨーロッパ精神の黎明、運命的な場所になりえたのである。