アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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回想の遠藤周作”沈黙”と60年代 アリアドネ・アーカイブスより

回想の遠藤周作”沈黙”と60年代
2009-12-26 13:16:43
テーマ:文学と思想

遠藤周作の”沈黙”は発表された1966年という年が私にとって重要な意味を持っている。
60年安保闘争と68年のパリの5月革命をはじめとする世界的な若者たちの反乱、この事件は私の好きな須賀敦子のミラノ生活をも終焉させるほどの影響を持ち、この世では会うことができなかった彼女と唯一クロスする場面を演出するのだが、このことはさておき、60年代の二つの政治的かつ文化的な出来事に挟まれた66年という年が重要なのだ。この年わたしはまるで漱石の”三四郎”のように地方から東京に上京してくるのだ。もちろん私はエリートなどではなかった。

もはや歴史的事象の彼方に姿を消しつつある60年安保とは何であったか。今から考えると、当時繰り返し語られた複数の言説にも関わらず、この政治的事件は文化史上の出来事としては、時差を持った戦争体験であったと思っている。1945年8月15日正午、喧しい蝉しぐれと晴天の不思議な空虚観の中に、いままで神と教えられてきた人のどこかよそよそしい頼りない声を聞いた。もちろん私はこの年生まれていないわけであるから見たように描いているだけだ。この日を境に国民は帽子を脱いで回れ右をした。当時も不思議に思われたことの一つは、広島や長崎の犠牲者を追悼した歌が、繰り返しません戦争を、繰り返しません原爆をと、まるでまるで戦争で死んでいったものが戦後民主主義の理念とその背後のアメリカ合衆国にお詫びしているような感じを与えたことである。日本国平和憲法の有名な前文とともに主語のあいまいな文体は、その格調の高さゆえに今でも不思議な感動を与える。実はこの日、一億の国民がこころの奥底、意識下に封印せねばならなかったもの、60年安保闘争はようやく憎悪の対象がアメリカであったこと――過去形に注目!――支払われなかった自らの戦争責任をたった一人の人物岸信介に仮託して自らの心のうちの重さを語ったのだ。決して人間として共存できる存在ではないにもかかわらず、国民の憎悪を一身に受け与えらた役割を演じ切った岸信介という人物は偉大であったと思う。岸の政治家としての矜持は自分が国民の代表として罰せられていることを理解していたと思う。敵ながらあっぱれだと思う。

こうして”沈黙”の66年を迎える。国民の自己欺瞞と市民生活の安寧は、人民裁判じみた過程で自分たちが裁いた当の岸信介こそ国民の似顔絵であったことを生活者のレベルでは決して意識すまいという決意、集団忘却という国民経験において成立していた。この点についてはドイツも大きくは変わらない。60年安保は文化的な経験としてではなく、徹頭徹尾政治的事件として語られなければならなかった理由がここにある。この意識上の日常の日の光の世界では直視するに耐えられないもの、それを文化史的な経験として語りうるものこそ68年闘争をそれ以前の政治史において生起した様々な政治的事件や経験と鋭く分離・区分するものなのだが、実は”沈黙”の特異性とは数年後に日本の青年たちを見舞う深刻さを予感していたのである。

68年学園紛争は、当時の東大医学部のインターン制度における教授をヒエラルキーとして成立する家父長的な権威主義的な体質への改善運動と日大における学園民主化運動が連携することによって成立した。ここで注目すべきことは二つある。一つは戦後学生運動が党派のレベルではなく生活改善運動を同時に思想の問題として提起したことである。もうひとつは決して学生運動などは起こさないと思われていた非エリート系の学生たちにも一人一人の表情があるということを示したことである。自らの表情を取り戻す運動である以上、学生運動というものが常に敗北すべき運命にあるという一般則からすれば、政治的時期の終焉後に訪れる冬の時代は、あれやこれやの流行の学理学説の華麗な敗北や棄教劇というレベルでは済まなかった。遠藤の”沈黙”はこの事態を予感していたのである。

遠藤周作の”沈黙”は、日本という特殊な風土におけるキリスト教のような普遍主義的な思想や教義の根づき難さをとおして、東洋と西洋の文化史的な対立を描いたものだと理解されているようだ。もうひとつ突っ込んだ解釈をすれば、日本の特殊風土に見合ったキリスト教の問題を提起したものだともいえよう。さらに言うならば、西洋人の考えるような”普遍”という考え方で本当に良いのか、その普遍思想は本当に人間を幸せにしたといいうるのか、という問いである。

私の理解では心弱きものとしてのキチジローを通して現れてくるキリスト、モンゴロイドの顔をした慈悲そのものとも言えるキリストが主人公の前に立ち現われる”沈黙”の白眉の場面、――”踏みなさい、踏みなさい、あなたの心の痛さを十分に理解している”というように語りかけてくる場面においては、神なき世界においてはどの道正解と呼べるようなものは無く、そこにあるのは孤独な個人の実存と決断があるだけなのだ、ということで良いのではないかと思う。無理にこれを日本におけるキリスト教の特殊性と結びつけたところに遠藤の無理がある。

”沈黙”はキリスト者としての遠藤が自らの信仰の証として西洋と日本という相対する世界の狭間に生きた物語であるとするには脚色があると思う。遠藤はカソリック、教徒だから自らの意思で洗礼を受けたわけではない。幼少のころの自尊心の強い母子家庭という閉ざされた環境とこれも同様に日本の一般社会においては閉ざされたキリスト教社会という閉ざされた環境の中でなされた。

遠藤のキリスト教体験の複雑さは幼児の洗礼体験を、終生一種の”負い目”として、母親への愛情の証として理解していた節がある。幼児の洗礼体験は終生遠藤に付きまといトラウマとして作用した。彼は彼の留学生活を通して西洋と日本、普遍と特殊の対立として問題を”普遍主義化”しカトリック作家としてそこに何か固有な問題があるかのようにふるまったが、彼の信仰は当の昔に死んでいた。これがカトリック作家としては決して意識してはならないトラウマ、母親への”負い目”であった。わたしは遠藤のファンから殴り殺されるだろうか。

私は井上筑後の複雑な造形性の背後に遠藤の母親の影を見る、心強気人であった母親の面影を。そしてキチジローの中に、追放された神、心弱き人としての父親の面影を感じる。”沈黙”は遠藤の生涯で決して表立っては語りえなかった心弱き人としての父親、追放され得た神への愛を語ったものであったと思う。

遠藤が日本という風土の中で一般的に思想というものを問いうると思っていたのは、思想というものが学理や学説と同じようなものだと思っていたこと、教義や教説はそれ自体で成立しうるものと考えていたことも多分にあるだろう。思想は一般大衆から孤立した状況では成立しない。そこには普遍性を欠いた、それゆえにこそ切実な弧的な実存と決断が在るだけなのである。それに尾びれをつけて普遍や特殊を語ることは知的欺瞞である。もちろん許さるべき、愛すべき自己欺瞞ではあるが。