アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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回想のヴァージニア・ウルフ”灯台へ” アリアドネ・アーカイブス

回想のヴァージニア・ウルフ灯台へ
2010-02-05 14:56:10
テーマ:文学と思想

灯台へ”は殆ど42年ぶりに再読したことになる。当時私は19歳か二十歳だった。これがあのとき読んだものと同じものかと思うほど、歳月はその細部を消滅させていた。イメージは流れるように印象派的”点”へと明滅し、具象は解体をする、要するに散文を超えた詩的言語だ、という印象を今回強く持った。

ウルフの文体は難解なわけではない。平易な単語と平易な文節で構成されている。しかしひとたびこれを10ページを単位として読み進もうとすると、なかなかに意味は取りづらく、初めてウルフの小説を読む読者には、一応事前にこの”灯台へ”の舞台となった北部イギリスの小島と、晩餐会を挟んだ24時間の間に生じたラムジー家族と来客たちの予備知識を持って読む進まれることをお勧めする。これは四十数年前いかなる予備知識もなくいきなり”灯台へ”の世界を垣間見た私の経験とは違うが、今回の伊吹訳ではそのことを強く感じた。二十歳の私はこれほど引っかかりながら読んだという記憶がない。それとも二十歳の感受性は柔軟だったのだろうか。

有名なこの小説のあらすじを簡単に紹介しておく。――登場人物は学者のラムジー夫婦と8人の子供たち。ラムジーの旧友ウィリアム・バンクスと画家のリリー・ブリスコ。老詩人カーマイクルとラムジーの崇拝者・若き学徒チャールズ・タンズリ。そして若き恋人たちミンク・ドイルとポールレイリである。あと家政婦や庭師、船の船頭など数名である。この14名のイギリス北部の別荘に集う登場人物たちの午後から翌日の午前に至る24時間の出来事を、三部構成で描く。

その描き方が特異なのである。そのソナタ形式にも例えられる形式美こそ、42年前二十歳の私を驚嘆させたものである。第吃堯描襦匹"明日天気だったら灯台に行けるだろうか”というラムジー夫人と子供たちのささやかな願いで始まり、夕餉の晩餐会で頂点に達する各人の揺れ動く意識が、所謂”意識の流れ”という手法によって複眼的に描かれる。人の願望などは無視して冷徹な事実のみをよしとしてきた哲学者らしい生き方が、妻には負担を強い、子供たちや友人たちを離反させる結果になっている。しかしこの日の終わりに眠りに就く二人を捉える意識は、二人が婚約を受け入れた人性の最も輝かしい瞬間の記憶であった。

42年前真に私を驚かせたのは、中間におかれたアダージョ楽章ともいえる第二部”時はゆく”である。この短い散文詩風の語りによって10年間の経過がさりげなく描かれる。ラムジー夫人の人間的な求心性によってかろうじて保たれていた一家とサロンに集う友人知人のその後の消息が語られる。

ラムジー夫人はあの日の後、灯台に行くことなく亡くなったらしい。母親の美しさを最も受け継いだ娘プルーは産後の経過が悪く帰らぬ人となる。嘱望された長男のアンドリューは第一次大戦で戦死する。ラムジー夫人が幸せな結婚生活を信じて疑わなかったミンクとポールの間には、離婚に至らないまでも結婚生活の紆余曲折があったらしい。老詩人は現代を代表する詩人のひとりとなり、若き学徒タンズリは今や講演会等でで愛国を叫ぶ今様の知識人の一人と成りおうせている。そしてラムジー夫人が密かに願った最高のカップルウィリアム・バンクスとリリー・ブリスコとの間には何事もおこらなかった。

第三部”灯台”は、十年後、ラムジーと二人の子供たちが灯台へ行くまでの午前中を描いている。登場人物はこの三人と、老詩人のカーマイクルと、無名のままの画家リリー・ブリスコの二人である。10年前、その思いやりのなさと独善性ゆえに、比喩ではあれナイフで突き刺したいとまで思った親子関係が氷解する様を、ボートの中から眺める小島の灯台と振り返りつつ明滅する”我が家のあたり”を描写しながら、”青年のような”軽さで小舟から岩礁に飛び移るところで、この300ページにわたるイメージの奔流と夢のような具体的明証を欠いた印象派のロマンは終わっている。

今回改めて感じたのは意識の流れと呼ばれるウルフの文体を追うことの困難さであった。訳者の作業も並大抵ではなかったろうと想像される。今回はっきりと感じたのは、通常日常生活を成立させる最小の単位である”事実”や”経験”と呼ばれるものが、それらを構成する原子レベルの要素へと解体されていることである。いわば意味形成以前の”事実”や”経験”が成立する原経験、”秘密”のようなもの、言葉が成立する以前の原イメージのようなもの、”意識の流れ”とは多くの解説者が言うような、作者を介在させない登場人物の生の独白形式によって小説を描く、ということなどではなく、言葉にならない日常性成立以前の先‐経験の世界を描く手法なのである。”内的独白”の技法とは、小説家の全能性を否定し登場人物を内面の文体によって直截的に描くというリアリズム論に沿った理解ではなく、日常性を超えた文体とはもはや散文ではありえないという含意なのである。

それからもうひとつ四十数年前には感じなかったもの、それは融合し合う個人を超えた集合的な意識である。次作”波”では6人の男女の幼年期から老年期に至る意識の流れと核融合をもっと大規模に展開しているが、”灯台へ”においても小舟に乗るラムジー親子とそれを岸辺の別荘から見送る老詩人と画家の芸術的とみいえる感受性を通じて、天啓のとき、ともいえる時の輝きを、まるでルネサンス期のイタリア絵画を思わせる豊饒性と華麗さにおいて”時の永遠”をとどめている。その重要な部分を引く――

”「上陸なさいました」声に出して言った。「完成しました」その時、老カーマイクル氏は、大波がたつように起き上って、少し息をはずませながら、リリーの傍らに立った。”

”この二人は言葉を話す必要ななかったのである。同じことを考えていたのである。そうして、リリーが何も尋ねなくとも、彼は解答を与えたのであった。自分の手を人類の弱さと受難の上に拡げて、そこに立っていた。人類の終末の運命を寛大に、憐みをもってしらべあげているようだと思った。今、あの方は、この灯台行きに冠を与えたのだと、リリーは彼の手がゆっくりとおろされた時、そう考えた。彼が高いところにいて、菫と水仙の花冠をおとし、その花冠が、ゆっくりとひらひらととんで、遂に地上に落ち着く有様を見たように思った。

そしてリリーは、急に何者かに呼び戻されるように振り返ると、

”ああ、そこにあったわ、私の絵が。”


ヴァージニア・ウルフ著作集 4 ”灯台へ” 伊吹知勢 1976年2月 発行 蠅澆垢砂駛