アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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神谷美恵子”ヴァジニア・ウルフ研究” アリアドネ・アーカイブスより

神谷美恵子ヴァジニア・ウルフ研究”
2010-01-22 16:26:40
テーマ:文学と思想

ヴァージニア・ウルフについてもそんなには知らない。二十歳のころ”灯台へ”と”ダロウェイ夫人”を翻訳で読んだだけである。40年も昔のことになる。私には、偏執的なところがあるくせにマニアックなところがなくて、この分野にかけては、ということがついになかった。

神谷さんの本はウルフの業績と病跡を関連させた晩年の壮大な計画があったらしい。この書は彼女の早すぎた死によって中断されたスケッチブック集のようなものである。わたしはほかに”生きがいについて”などを読んだが、高名な精神医学者としての彼女に畏敬の念は抱いても、肉声を聞けたというところまでは至らなかった。この書は対象が文学ということもあって、一気に、何度かの休憩をはさんで読み終えることができた。

最晩年において、最後には自分自身の死と競争するような形で残されたウルフへの覚書はそれだけで感動させる。私の僅少な神谷さんの人生への基礎知識からは、なぜ最後はウルフだったのかは分からない。神谷さんのような偉大な人間は、一種のノブレスオブリージュ、社会的役割を果たすこともまた自然なあり方だった。そして最後は鴎外が一個の森林太郎として死ぬことを望んだように、青春の記念碑ウルフに辿りついたということなのだろう。

灯台へ”などは作者について何も知らなくてもその美しさを味わえる高度の完成度を備えた作品である。ウルフに青春を感じるのはその完成性故にである。完全無欠なものは死と隣り合わせで生きるという代償の果てに得られたものだった。”ダロウェイ夫人”は生と死が”昼と夜”のようにめまぐるしく交叉する。”灯台へ”は虚無の中に一条の光を照らしだす。

神谷さんはこの書の中で、精神病者は”異常か”と問うている。正常と異常という区分が客観的にあって、天才は善の極大化した姿であり、精神病者やらい患者は正常が異常へと極小化され”悪”へと転落した姿なのであろうか。神谷さんは正常なるものを中心において、両側に展開するものを異常なるものと定義する。ここには善悪の価値判断は繋がらない。

神谷さんはウルフの生涯の中に、病理を異常と理解しながら、辛抱強く病根と付き合っていった軌跡をみる。ウルフにとって作品を書くとは昼と夜が交替する正常と異常の境界域にしか人間性は生じてはこないことの証明であった。神谷さんはヴァージニア・ウルフというひとりの天才を描くことによって、社会的制度によって隔てられた精神病者やらい描写の隔離性と人間的”正常”の関係を問うたといえる。


ヴァジニア・ウルフ研究”神谷美恵子著作集・4 みすず書房 1981年3月発行