アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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田中久文編 『九鬼周造エッセンス』――泉鏡花の世界を九鬼の「いき」論で解いてみる アリアドネ・アーカイブスより

田中久文編 『九鬼周造エッセンス』――泉鏡花の世界を九鬼の「いき」論で解いてみる
2012-04-04 13:29:51
テーマ:文学と思想

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・ 既に盛名を画しているかに見える九鬼周造についての解説は不要であるかも知れぬ。しかしこのアンソロジーが、どう云う内容であるかは興味を持たれる方のために、断っていた方が良い。
 「Ⅰ」において、”失われた時を求めて”と題して、その複雑な生い立ちが語られる。貴族の長子として、花柳界の母を持ち、その母を廻る三角関係から、実父と、精神的な父である、かの岡倉天心を持つと云う、豪華と云うか、日本人離れした経歴なのである。むしろマルセル・プルースト失われた時を求めての世界にこそ相応しいような人物なのである。
 「Ⅱ」において、”異邦にて”と題して、八年間に渉った長年月における海外生活が語られる。其の交友した師や友人たちも、リッケルトベルグソンハイデガーサルトル、と、多彩なものである。
 ここでは、名著『「いき」の構造』に先立つ先考である『「いき」の本質』、難解な『時間の観念と東洋における時間の反復』、そして『日本芸術における「夢幻」の表現』が紹介されている。
 「Ⅲ」において、”「偶然性」の思索”が紹介されている。これも九鬼の代表作とされる『偶然性の問題』の助走をなす先駆的な論文であるらしい。
 「Ⅳ」では、”日本文化へのまなざし”と題されて、日本文化の特質が論じられる。中心となるのは「風流に関する一考察」である。
 最後に「付録」として、未発表の草稿から、”「流行」の存在論的形態”、”井上靖卒業論文審査用メモ”が納められている。

 さて、一読して感じられるのは我が国におけるハイデガー受容のいち歴史、その極めて興味深い一齣、と云うことを実感した。一読しただけでは、九鬼の論ぜられる対象は多面的であり、しかも思索は深淵である。とても簡単に手が出せる相手ではない。しかし浅読みではあれ、ここから感じられるのは、戦前戦中期における知識人の印象的な生き方であった。特に「Ⅳ」の日本文化論などは、時節上、西欧文明に対する密やかなる事挙げを装いながら、偏狭な日本主義を否めている。これは先日読んだ和辻哲郎にも共通するスタンスであり、戦前の第一級の知識人たちによる、文化的抵抗の水準を象徴するものだろう。これについては簡単に云える事ではなく、これからも考えてみたい。

 今一つは論文”「いき」の本質”である。九鬼は「いき」を定義するのに三つの概念で代表させようとする。それは男女関係としての「嬌態」であり、武士道の「意気」であり、仏教の「諦め」であると云う。
 ここではたと思い当たったのは、昨日見たばかりの映画『日本橋』のことであった。鏡花によって描かれた花柳界の「粋(意気)」とは、真剣ならざるは単なる浮気心か技巧としてのアバンチュールであり、真剣になりすぎては「野暮」・「無粋」と云う、「粋(意気)」とは、浮気と野暮の中間域に生じる緊張であると説いた。この「粋(意気)」の考え方を、九鬼は同書で「嬌態」の本質定義として、異性の征服を目指して伺候する二元的緊張感であると語っているのである。
 次に「意気」であるが、単なる素人の腫れた惚れたではなく、芸妓の誇りに於いて生じる芸域としての愛を、主人公の稲葉屋お考において語らせたのであった。彼女こそ、粋と野暮の中間域に生き死にした、将にロマン主義的な存在なのである。なぜなら彼女の本質とは、束の間にすぎ去るイロニーの如きものであるのだから。
 そうしてもう一人のヒロイン、滝の屋清葉こそ、思い切りの良さ、世俗を達観する諦念ゆえに、九鬼の云う「諦め」をそのまま具現した、観音様のような存在なのである。云い代えれば彼女を観音様であるとするならば、お考はさしずめ、興福寺の阿修羅のような存在なのだろうか。そう云えば彼女には功なり名を遂げた花柳界の押しも押されぬ名義の一人でありながら、不文律を犯して転落する危うさと云う相において描かれていた筈である。九鬼ならが、前後の見境のない江戸っ子気質と形容しただろうか。

 つまり私の驚きは、九鬼の「いき」の構造論と、鏡花の『日本橋』とがぴったりと一致する偶然性のゆえであった。勿論、鏡花の方が時代に先行するわけであるから九鬼が鏡花に影響を受けたことは間違いないだろう。それにしても花柳界を故郷とも所感し、その花柳界から妻を迎えたと云う点に於いても奇妙な一致をみる二人ではある。

 さて、お考にしつこく付きまとう五十嵐は「野暮」と「無粋」の象徴だと云うことは誰にでも分かる。しからば主人公の葛木とは何だろうか。鏡花の自伝的要素をも取り入れられて造形されたかに見えるこの男は、「粋」が道徳性と宗教性の方へと傾斜した、「風流」に近い存在とは云えるのだろうか。勿論、『日本橋』に描かれた範囲では、葛木がそうした達観の域に達するのは数十年後のことだろう、と云う気がする。

 また、九鬼との関連を予想もせず、一月ほども前から総合図書館の資料室から借りていた『日本橋』を、観ないまま返却しようかと思いながら昨日思いきって観て、そしてそれらの関連も予想せず、今日、たまたま『九鬼周造のエッセンス』を読んで、私の内面に生じた先人の出会いのドラマ、九鬼の言葉を借りれば、遭遇、邂逅、これは九鬼の主著『偶然性の問題』ではどう解けるのだろうか。これは今後の私の課題である。