アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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村上春樹『風の歌を聴け』の意味するもの・下 アリアドネ・アーカイブスより

村上春樹風の歌を聴け』の意味するもの・下
2012-11-02 15:23:07
テーマ:文学と思想

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・ 小説の読むとは、作家が如何なる作品を書こうとしたかではない。表現されている限りに於いてその作品が如何なるものとして我々の前にあるか、と云う以外ではない。作者は自作の最良の読者ではあり得ない、とは昔からよく云われたことだが、その意味するところは極めて単純である。

 『風の歌を聴け』を初めて読んで、それに関する二三の論評を読んでみたのだが、発表当時賛否両論があったとは聞いていたが、それとは違った意味でこの作品は正しく読まれているのだろうか、と云う疑問を持った。『風の歌を聴け』を否定する側はもちろん、評価する側に於いても果たしてこの作品のメッセージが正しく受け取られているのだろうか、と疑問を持った。

 解説の多くが、小説の副主人公である”鼠”に作者・村上春樹その人の分身を見ている。鼠の過去は小説の中では明らかにされず、何か過去に手ひどい挫折か人間不信の経験があったのだろうと、察するばかりである。それは何だか、60年代の歴史的な経験であるようにも見える。

 例えば、鼠は自身の経験を語って、変革の時代が引潮に転じた時、自分の戻るべき場所が無かったと云う。戻って座るべき用意された椅子が無い、鼠は椅子取りゲームに例えて自嘲気味に言う。
 
 それなら、固有な経験を体験した鼠と仮初の関係を結ぶ”僕”の体験とは何だったのだろうか。経験の実質は何か。”僕”の経験にどのような固有さがあったのだろうか。
 この二人の関係は、何故か、活動家とノンポリと呼ばれた者の関係、そこまで云わなくても、活動家とそれに連なっていたシンパと呼ばれた同調者の関係を想像させる。これが案外、村上春樹の眼に映じた60年代の原風景かもしれない。

 多くの読者は、ここで大きな誤読をしている。歴史的経験に於いて”鼠”と同根のシンパシーの延長線上で物語を読みとろうとするのである。ちょうど、漱石の『こころ』と云う小説が、先生と主人公の恋愛感情と見紛うばかりの濃厚なシンパシーの上に成り立っているように。

 『風の歌を聴け』は、漱石の小説のような明治期の一部の知的な特権階級の物語ではない。村上春樹の特質は等身大であること、普通の人間の平凡性に於いて語ると云う点にあるのだから。
 『風の歌に聴け』は、漱石の小説のように読まれてはならない。

 整理してみよう。
 ここに、60年代の経験と呼ばれるものが二つある。

 一つは、鼠に代表されるような、過去の政治的挫折を彷彿とさせる、体験の「重たさ」、である。

 二つ目は、小説の語り手”僕”の、鼠たちに負い目を感じる同世代人の感情である。
 その経験は、彼がスナックバーのトイレで酔いつぶれた少女を介抱し、アパートまで連れて行って、半ば心配ながら朝の目覚めまで見届けて浴びる言葉である。
「でもね、意識を失くした女の子と寝るような奴は・・・・・最低よ」
 
 自分が、最低の男だと云われて抗弁もしない男とは何だろうか。弁解も誤解を解こうとする手立ても講じない無感動、無気力とは、逆に言えばあの時代の本質を案外正確に評価しているのかもしれない。
 過去を顧みて、自分に帰る場所はなかったと語る鼠の体験と、あなたは最低の男ね!と云われて、10年近くも経って少しも変わらざるものとして在る自分自身を思い浮かべる"僕”の経験をみ比べて、どちらがより自分自身に近いだろうか、と私なら考える。

 裏切ったのは皆で、自分は取り残された被害者だったのか?
 それとも、行きずりの女の子に、”・・・最低ね”と云われて、抗弁も出来ずに無気力な思いで、あの時代を思い浮かべる自分自身があるのか?
 自分自身を何時も被害者だと思う心情と、自分のためにだけは泣くまいとする等身大の経験のどちらの方にリアリティはあるか?

 挫折の経験すら、語れないほどの、固有さを欠いた経験、その等身大の凡庸さを『風の歌を聴け』は語ろうとしたのである。声高にではなく、もちろん内面性に於いて堂々と語るのでもなく、語る以前の気恥しさを籠めて語る、その語りが小説になりえる、あるいは小説でしか語れない凡庸さの非凡さとでも云うべきものを、この村上の処女作は達成しているのである。

 『風の歌を聴け』は、良く読めば幾つもの語り得ぬ小さき者の死について語っている。鼠のような半英雄的な挫折の物語ではなく、語るのが気恥ずかしい様な経験の貧しさと、無視さるべき小さき者の死を、声高にではなく、裏声で語った注目すべき作品なのである。

 また、多くの解説者が読み落としたのは、後に”オタク化”の原型ともみなせる、60年代の風俗に絡んだ固有名詞を頻出させる村上の手法についてである。曰く、エルヴィス・プレスリービーチ・ボーイズマイルス・デイビス等など。
 こうした手法は読者との濃密な関係を築くがゆえに、表現としての普遍性を持ちえない。固有名詞を介して繋がっていた読者層と云うものが存在しなければそのリアリティは霧散してしまうものであるからだ。例えば富岡多恵子の批判はかかる視角から成されている。
 彼女は、それを「≪親密な≫サークルだけに通じる符号性」と云う上手い表現を用いている。

 富岡は、文学と云う固有な領域があって、固有さに支えられた読書階級とでも呼ばれるべき共同関係を想定している。
 しかし、『風の歌を聴け』の登場が顕わに問うているのは、所謂「文学」と云う垣根を取り払った後の世界に誕生する、等身大の人間の詩と真実とでも呼ばれるべきものなのである。専門的な文芸・文学を知らないからと云って、彼らの表現行為そのものを咎めることが出来るだろうか、そう、村上は暗に問うているのである。

 だから、登場人物以上に雄弁な語り手であるラジオN・E・BのDJによって読み上げられる、難病の少年(少女)の手紙は感動的なのである。
 読み終って、この手紙に少し泣いたと告白して、DJはこう締めくくっている。

”・・・・・僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いていおいてくれよ。

  僕は・君たちが・好きだ。
 
 あと10年も経って、この番組や僕のかけたレコードや、そして僕のことをまだ憶えてくれていたら、僕のいま言ったことを思いだしてくれ。
 彼女のリクエストをかける。エルヴィス・プレスリーの「グッド・ラック・チャーム」。この曲が終わったらあと1時間50分、またいつもみたいな犬の漫才師に戻る。
 ご静聴ありがとう。”(全集P124)

 偉ぶったものいいではなく、その小さき者の死に奉げられた弔辞として私は聞く。小さきものとは、例えば六甲の山裾の療養所で一度でいいから海辺を散歩して潮の香りをかぎたいと願う少女である。あるいは場あたり的に生きて苦界の中に身を沈める指が四本しかない少女の物語でもある。英雄の栄光と挫折の物語ではなく、その傍らで密かに裏声で語られた、等身大の六十年代の無数の青春の物語として。

 文学と云う言説が、それが”学”としてあるかぎりに於いて持つ普遍性が不可避的に持つ、権力的ヒエラルキーの構造、言語を用いて語るとは、本来かかる権威・権力のヒエラルキーを前提にすることなしにはあり得ない。
文学や言語と呼ばれるものは、本来的に権威や権力に奉仕するべきものなのである。しかし、言語には二つの様態があるわけではないから、その唯一ともいえるべき言語を用いて、如何にして、語るのも恥ずかしい様な等身大の経験を語り得るか。これがひとまず、『風の歌を聴け』の登場を前にした村上春樹の問いであった。
 
 ここから60年代に固有の固有名詞やキャッチフレーズ、コピー、ファッションを”引用”する『風の歌を聴け』の小説文法が成立する。そして言うまでもなく、かかるホップアート的技法の最高の達成は、前記ラジオ放送N・E・BのDJの語りの”引用”である。寝静まった深夜、蛸壺のような安下宿の乏しい明りの中でそこだけが華やかな明るんだDJの語りと云うものは、60年年代と云うものの未だ貧しさと吹っ切れた訳ではないあの時代に固有の雰囲気を前提しないと理解できないものがある。
 村上春樹の卓越は、その雰囲気を丸ごとDJの語りを”引用”をすることで、普通の小説の内省的語りでは遠く及ばないようなリアリティの再現に成功しているのである。

 『風の歌を聴け』の最も成功しているキャラクターは、DJである。しかもDJの語りが持つ独特の雰囲気は、あの時代に青春時代を過ごしたものにしか分からない、言語の普遍的規則に則ってそう言えるのである。
 なぜなら、ここでなされているのは小説的文法の解体なのであるから。 

 纏めると、このようになる。『風の歌を聴け』は二つの意味で、今日に於いてもなお、誤読されたままである。
 一つは、鼠に固有な経験を読みこんではならないこと。
 二つ目は、この小説に於けるホップな言語技法の位置づけである。オタク化とすれすれのところで成立する、”引用”インターテクスチュアリティがもつ、圧倒的な異化的な効果、である。

 表現されたものとしての『風の歌に聴け』が切り開いた水準は、反対者にも賛同者にも共に理解されなかった。作者その人ですら、自作を誤読して、後に”ノルウェイの森”のような小説を書いてしまうのである。