アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

アンドレ・ジッドの『狭き門』と堀辰雄の『風立ちぬ』 アリアドネ・アーカイブスより

アンドレ・ジッドの『狭き門』と堀辰雄の『風立ちぬ
2018-07-29 09:42:05
テーマ:文学と思想


 ジッドの『狭き門』と堀辰雄の『風立ちぬ』、何が違うのか。本家のジッドと、日本の分家筋の傍流、堀辰雄、似ているようでいて、読後感は違う。『風立ちぬ』の爽やかさはどこから来るのか。
 早く言えば『狭き門』とは、読書会で誤読されたようには純愛の物語ではない。容姿や生気に地震がない年上の娘が青年の関心を永遠に引き留めるために、宗教を持ち出して、祭壇の囲いの中にエゴイズムを飼う。不気味な物語である。彼女の純愛についての執念は、死によっても中断されることはなく、反ってその永遠化に寄与する。むしろ死することによってこそ愛は永遠化の権利を得たと云わんばかりである。
 ジッドの意図は明白である。最後の一分はこうである。
 ”眼を醒まさなければいけないわ”(アリサの妹ジュリエットの台詞)

 『風立ちぬ』の堀は、愛が隠されたエゴイズムの要素を持っていたにしても、愛の絶対性は揺らぐことはない。その理由は、舞台が日本社会の日常からは隔絶した、仙境じみた避暑地軽井沢の療養所に設定していることからもわかるように、日本の社会からは切り離されていた。であるから、文学的理念としてこの作品を考える限りに於いて、世俗生活との妥協は最初から断念されていたと考えてよい。それゆえにこそ、吹雪のなかを見舞った語り手の髪の毛の鬢についたひとひらの切片を手で愛おしそうに払う仕草に見えるように、無私で、純粋で、美しいのである。彼女は美しいまま死んで逝く。愛の絶対性は、その背後に蠢くエゴイズムや所有欲などと云う猥雑物についての審議そのものを供しないのである。無私であえることは、当時の堀の文学観が置かれていた戦前の日本社会の実情とかけ離れていればいるほど、高く屹立し、純粋性の保全を保証したのである。
 アンドレ・ジッドの文学は、長いフランスのモラリズムの伝統を踏まえて書かれた。観念的であるとともに現実的だったのである。翻って堀辰雄の文学は伝統のないところに輸入された新奇性のある理念であり、世俗の間に最初から共存する謂れはない。堀の文学観が日本車期の世俗的実情と乖離すればするほど、純粋性は保たれたのである。
 この間の事情は、同作の最終章「死の影の谷」を読んでみるとよく分かる。一人の人間の一個の純粋さを醸成するためには当人の意思だけでは済まない。それを見守るものとしての語り手のなかに言葉として、言葉が保存されていなければならない。語り手はある冬の日夕餉を知人の家で御馳走になった帰りに山道を登りながら、谷合越しに自分が住んでいる山小屋の灯を他人の家のように認める。そのとき彼が思うのは、自分がとうに人間を辞めてしまっていたという寂寥感を伴った事実だった。つまり、残されて物語を伝えるものは人間であってはならなかった、と堀は言うのである。かって古代の殯の儀式に於いて、祭祀に携わる祭主は死者と寝起きを共にし、死者か死を生きて本来の死者となるまでのドラマを自らの現身に映し身体性のなかで演じたように。その死者か死者に成りゆく過程は同時に生者としての祭主が、死者の死を生き抜く過程でもあった。
 愛はそれほどにも強いものなのか。二人の命の消滅を貫いて愛は寂寥の荒野のなかを木枯らしのように音をたてて彷徨い、そして灰色の影を落として渡っていく!まさに風立ちぬ!なのである。

 従来、本家本元の文学の亜流的受容の在り方に於いては、所詮はエピゴーネンの文学に終わる、と云うのが常識的な理解の仕方であった。文学的な土壌があり、伝統があり、そこに文化や文芸が花咲く、当たり前のことだろう。しかし近代化の途上にあった日本のように、植民地のように伝統もなく、あっても近代と云う名の異質の文明によって破壊された近代以降の荒れ地に於いても、堀の文学に見るようにただ一人揺らぐことなく屹立する、それ自体に於いて自らの足で立つ、と云う文学も可能なのである。
 堀辰雄の文学は、西洋文化の受容と云う名の、もう一つの日本文学のジャンルを開いたのである。