アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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モーリアックとジッド、グレアム・グリーン アリアドネ・アーカイブスより

モーリアックとジッド、グレアム・グリーン
2013-07-07 22:01:11
テーマ:文学と思想

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 『テレーズ・デスケルー』と云う小説はよく分からないと云えば、わが国では、それでは文学が分からないのだな、と思われてしまう。分からないことでも分かったことにしてしまうのが日本の流儀かもしれないが、分からないことは分からないと云う方がよい。
 地方の地主階級に属し、ソルボンヌの法科卒の狩猟のほかはこれと云った趣味もなく、倹約を通して先祖から代々引き継いだ資産の保全より関心が無いベルナールと云う名の、凡そ無害で申し分ない夫を殺害しようとして事件が露見してしまう。犯行が露見した後も裁かれるどころか犯罪よりも家名第一と考える田舎の家父長的旧来型の保守主義に支えられて、告訴取り下げと無罪を勝ち取ってしまう。全てを昔に戻すと云うテレーズの虫のいい願いには夫も流石に同意できかねて、せめて最期に犯行の動機だけでも聴かせて欲しいと云う夫の願いに応えて言うセリフが凡そ可愛いげが無い。

”「もしかしたら、あなたの目の中に不安の影を、好奇心の色をみたいだけだったのかもしれませんわ、――つまり心の動揺を」”(本分13節)
 テレーズは現実の不動性と恒常性が我慢ならないのである。ベルナールの何が?と云うよりも、お腹が出ているとか食べる時の癖がどうあると云うのが我慢ならないのである。生理的な嫌悪の根底には、存在に対する病がある。

 これでは、いくらテレーズの側の最終弁明が真摯なものであったと言っても、興醒めしてしまうのは明らかだろう。もともとこの物語は、フランスの伝統的な心理小説のように男女関係の心理的な綾などと云う機構では解きようの無い物語なのである。先ず一見してモーリアックのこの小説を特徴的だと思わせているのは、テレーズの倫理観の無さ、なのである。この場合文化の先進国フランスでは芸術的価値と道徳的価値は区別して論じているなどと云う講義をしてもらう必要はないのである。端的に、なにゆえ『テレーズ・デスケルー』の作者は一度としてヒロインの倫理的な動機について言及しないのか?プルーストのような作家ならばわかる。しかしモーリアックと云う作家はいやしくもカソリックの文学と云うことを公然と宣揚している作家なのであるのだから、その彼がテレーズの犯行と倫理的な動機について語らないと云うことについて、なぜ読者は疑問を呈しないのだろうか。そう云う疑問を口にするとわが国では文学の初心者や入門者と同類にされてしまうと思うのであれば、そう云うのを杞憂と云うのである。

 これを理解するためには、要は、われわれが対決しようとしている相手である西洋人の精神構造は二階建てになっている、と云う点に言及すべきである。日本人の精神構造は平屋建てであるから、目に見えないものは存在しないのである。この点は近代以降の西洋文明に於いても同様なのであるが、違う点は、目に見えないからと言って存在しないと云う断言もここからは出てこないと云う特徴がある。なぜなら西洋文明が伝える明証と明晰の伝統は何事によらず独断をこそ戒めるからである。神は存在しないかもしれない、しかし神は存在しないと断言することは独断なのである。

 つまり二階建ての精神構造に於いては、平屋的領域(世俗性)を超えると聖性と背徳性が見分け難く混沌としてくる領域がある。つまりこの世の安穏さを「荒野の荒ぶる者」としての預言者が弾劾告発すると云う定期的に出現する預言者の事跡については、ヨーロッパは長い歴史を有しているのである。近世ではルネサンスを終焉させたサヴォナローラなどはその事例だろう。それで凡そ言動、品行の何をとっても同情に値するとは思えないテレーズのような女と預言者の区別がつきにくいのである。この点は、もしかしたらテレーズのような女でも聖性が宿っているのではないのかと云う疑義はヨーロッパの文学に於いては最後まで残るのである。
 ちなみにキリスト教美術における磔刑図に於いては三本の十字架が立つ。一本は神に祝福されたイエス・キリストのものである。後の二つは当時の重犯罪者のものであって、当時に於いても聖性と背徳性が見分け難い紛らわしさを有していたことの象徴的な表現と解することができる。

 『テレーズ・デスケルー』においてヒロインが一度として自らの犯行について道徳的悔悟や反省めいた科白を口にしないのは、ドストエフスキーの個性的な主人公がそうであるような意味で、確信犯的に理念として現実世界と対峙しているからではない。テレーズの生きる世界が、この世の規格と云うか生きる仕組みから逸脱すればするほど押し出されて行った世界が、聖性と背徳性が見分けにくくなるような次元に属していた、と云うことを端的に語っているにすぎないのである。テレーズは道徳を軽蔑しているのでも軽視しているのでもない。ジャン・アゼヴェドと云うニーチェ型の登場人物が出て来て「善悪の彼岸」と云う観点から、盛んにテレーズを悪の世界に唆すのであるが、テレーズには彼の云うことも彼が読んでいるような本も本当は理解できないのである。

 モーリアックの宗教思想家としての限界は、カソリックの作家として単なる回心の物語や殉教の奇跡については語るまいと云う潔い決意は良いのだが、その結果、あらゆる意味でモーリアック当人とは正反対の人間像、いっけん如何なる神の許しや恩寵にも価しないような無意味で空疎な人間像を創造したとしても、無限なる神の御前では全てが許される、と云う楽天性が予想もしない形の過ちへと彼を導いたのである。
 テレーズが最終的に到達した世界を病的と云わずして何と云うのであろうか?
 神なき世界の荒涼は、ドストエフスキーのように理念として自らを対自的にとらえるようにも、ニーチェのように善悪の彼岸に立つ超人の意思によって齎された世界の何れとも違っている。モーリアックの描いた世界は、単に道徳的な判断が無い世界であると云うにすぎない。換言すれば道徳的判断を成しえないと云うことは、モーリアックが描く人物は、凡そ人間ではあり得ないと云う意味なのである。つまり道徳的判断を欠いた存在としての人間であってもなお人間たり得るか。
 むしろモーリアックの文学の功績は、カソリックの普遍性と云う大型の看板を背負うことで、あらゆる意味での恩寵と同情に価しない極限値としての人間像を描き得た点である。あれこれの悪事を行った犯罪者と宗教的な回心のドラマについてはヨーロッパ社会は一定の寛容さの歴史を持っている。悪事や犯罪のあれこれではなく、道徳的な判断そのものが無い場合でも神の恩寵はなお残っているのであろうか。そのような人間にとって究極の救いが閉ざされているとすれば、宗教が存在することの意味は何だろうか。りかかる不吉な人間像を白日の元に提示することによって、却って教会が存在することの意義を逆説的な形で問うているのである。

 モーリアックと同時代を生きたプロテスタント系の作家、アンドレ・ジッドの場合はどうだろうか。『狭き門』はキリスト教の教義を余りにも純粋に理解しそれを実践に移した場合の、青少年ゆえの悲劇を描いている。ご覧のようにジッドはモーリアックにおけるほど教義や教会の組織への寄与度が全面的ではないために、モーリアックのような極端な人間像は描き得ないのである。わたしたちはジッドの断罪にも関わらずアリサやジェロームと云った登場人物が好きである。いくら悪し様に描こうとも『背徳者』のミシェルがジッドの場合、悪役の限界となるのである。

 同じエンターテインメント系ではドーバー海峡を渡ったイギリスのグレアム・グリーンの『情事の終わり』と云う小説はどうだろうか。戦時中のロンドンを舞台に、国民の困難を他所に、不埒にもホテルで情事に耽る有閑階級の男女二人の頭上にドイツ軍の弾丸が落ちる。信心深いヒロインはこれを天罰の啓示だと受けとり、生き残った自分と死んだと思われる恋人との狭間に立って、自分の越し方の不埒さを犠牲の羊として神の御前に捧げることで死んだ恋人を甦らせて欲しいと祈願する。ところが死んだと思われていた愛人は瓦礫の僅かな隙間に助けられて結果として生きていたのである。
 これで目出度しめでたしなら良いのであるが、自分と神との間に交わされた無言の約束ゆえに自分たちの愛を断念し、ヒロインは自らを痛めつけ、自死に持っていくような形で氷雨に打たれて虚しく死んでいく。死んでしまった恋人の内面を思いやることも出来なかったことに気づいた男は、神への荒々しい敵意をむき出しにして神を呪う、そうしたお話しである。
 イギリス人・グリーンはカソリックの文学者であるが、わたしは今でも時々グリーンがプロテスタント系の作家であったならばこんな悲惨な結果にはならなかったのではなかろうか、と思うことがある。