アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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☆”ノルウェイの森” を廻る二人の悪党 その2 レイコさんの場合――社会事象としての村上春樹・第 アリアドネ・アーカイブスより

 
 小説というものには読み方が二通りあって、一つは作者の構想を ”求められる解” としそれを読者が再現的に構築しようとする場合ですね。これは作品と作者との間に一定の関係が認められる、近代に固有の読み方です。
 もう一つは、作者が知られていない場合や古典などに適用するよう方法ですが、作品もまた作者自身の恣意を離れた独立的存在であるならば、作品そのものに描かれたままを読んで行こうと云う方法です。
 そしてここに第三の読みという方法が可能とするならば、通常物語の外側に想定される語り手や作者その人をも物語の複眼的な語りの中に介在させて、登場人物が一方的に語られるだけでなく、作者その人や語り手そのものをも登場人物の一人とみなして、小説世界と現実の世界の相互貫入と相互批評を成立させようとする、メタレベルの読み方です。この読み方はテクスト批評の厳密性に関わる問題がありますので、学問やきちんとした文芸評論にはなりえないことは言っておかなければならないでしょう。つまり戯作であり、遊びと諧謔とユーモアと、そして一片の夢を秘めた読み方なのです。
 
 要はこの第三の読みを適用して、阿美寮のレイコさんが大悪党である由縁を証明してみたいのです。これは半ば冗談のつもりですからあまり真面目に取らないでください。
 
 京都北部の山間に方位が想定されている阿美寮なる精神保養施設が ”魔の山” であることは自明のことでしょう。事実ワタナベ君がこの場所に二泊三日の小旅行を企てて持参する書物は、マンの ”魔の山” なのですから。村上春樹という人は真面目だか不真面目だか分からにところがありますが、この場面がマンの高名な小説を踏まえていることについては自覚的なのですね。
 
 さて、この大悪党レイコさんなのですが、人の痛みが分かるこの上ない善人として紹介されるのですね。そこのところはこうです。――
 
”とても不思議な感じのする女性だった。顔にはずいぶんたくさんのしわがあって、それがまず目につくのだけれど、しかしそのせいで老けて見えるというわけではなく、かえって逆に年齢を超越した若々しさのようなものがしわによって強調されていた。・・・(中略)・・・年齢は三十代後半で、感じのよいというだけではなく、何かしら心魅かれるところのある女性だった。僕は一目で彼女に好感を持った。”
 
 ここには村上春樹特有の言い落しがあって、言外を読まなければなりません。ここでは二十歳前の青年が感じたことと、37歳の語り手が語る眼差しの即物性を同時に読みとらなければなりません。音楽に堪能なこの歌姫は聴かれもしないのに自らの秘密の過去を語り語り手 ”僕” を誘惑する。魔の山でヒロインの直子の死を確認したのちは、頼まれもしないのにワタナベ君の自宅に押し掛け立川流ならぬ秘儀を開陳するに至る。ここではレイコの全身を覆う皺が同時に女性特有の秘められた場所の襞と意図的に混同して語れいかがわしさは頂点に達するかのようです。つまりこの妖怪は全身が性器に覆われていた、というのですね。水木茂の百眼を思い出して不快感に身振るいしてしまいました。
 
 小説 ”ノルウェイの森” はレイコさんの ”東京初登場” を待っていよいよクライマックスである黒魔術ならぬ通過儀礼の夜を迎えます。ここでも二十歳前の青年の眼と三十代後半とされる闇夜に光る冷徹な視線を同時に読みとらなければなりません。後者の眼は同時に37歳の男の眼でもあります。このエピソードはフランス文学などでおなじみの年上の女性による性の通過儀礼というように読めます。つまり誰にでも好かれるエブリーマンとしてのワタナベ君はフランス文学風の仮構されたフィクションを可憐に演じるかのようですね。いっぽうその演技と重なるように37歳の視線の冷徹さそのままにそのものが即物的に演じられます。この二重性がもたらす頽廃というかおぞましさは類例がありません。何のことはない、この二人は最初の出会いの時から37歳の眼でお互いを確認しあっていたのである。そのありふれたレベルの低い行為を高度の文学的に華麗な描写や形而上学的な宗教的秘儀性において語る所に村上春樹の頽廃があるのです。
 
 例のレイコさんの打ち明け話にしても言外を読まなければならないのではないでしょうか。これは実際にあった話なのでしょうか。幾つかの”ノルウェイの森”論に目を通しましたが、レイコさんの嘘に言及した論考には見当たりませんでした。
 これは造られた過去であるという気がします。単なる嘘というのではなく、過去の傷口を舐めるかのように幾度となく繰り返された作為が、その人そのものの存立の基盤となって、人格を成り立たせる由縁、人格形成そのものと融合した状態の状態なのです。造られた過去が仮に実在していたとしても、奇妙に響き合う二つの存在の間に感じる、存在の近さというものは尋常のものではありません。自他の境界が失われ、それを自閉の文学とは言うのですが、それを標榜する村上春樹の文学において登場人物同士を繋ぐ、この存在の近さは、精神病理学で言う、他性、つまり他の人格が侵入して他性が自らを語り、自らの存在が外に筒抜けだと感じるあの感じ、統合失調症と呼ばれる事例に似た感じがするのです。
 
 統合失調症における、作為され妄想された幻想性を帯びた世界は、逆に荒唐無稽ではなく、一般向けのテレビドラマの水準に近づくといいます。まるで厚みのない安でのドラマのような感じがするのです。その薄っぺらな虚偽と妄想性が同時に統合失調者の置かれた抜き差しならぬ状況と併存する時にそれが示す奇妙な非対称性、深刻さと通俗性の併存と云う摩訶不思議さの構造があると云えるのです。精神病理の世界と云うと、何か常人とは違った途方もない幻想性を想像する方もいらっしゃるようですが、実際にはこの上ない通俗性と極端なリアリティの感覚が同時に感じられる奇妙な非対称性が齎すリアリティの二重性にあるのです。村上春樹の文学における通俗性と云う特色、と自閉や精神病理学的傾向とは、厳密とも云える関係があるのです。
 
 人と人との関わりが失われて自閉という段階にいたり、自閉が核の外殻をうしない自他の融合という状態にいたった時、統合失調症における、他性、が生まれます。いわば言語という外皮に覆われる何ものをも失われ、”ものそのもの” となる。”ものそれ自体” という発想こそ、如何に神秘めかして語ろうとも資本主義的な流通機構がもたらした思惟の冷徹さの表れなのです。
 
 ”ノルウェイの森”の小説としての卓越は、自閉の文学として評価された通常の一般的理解を越えて、自閉の世界の構造そのものの崩壊を、作者の意図に逆らって描き出した点にあったのかもしれない。それは限りなく不快でおぞましいものでした。神秘的であると同時に陳腐の極みとも云えるものでした。他性と自閉の世界においてはものごとは極端に単純化に向かうと云います。村上文学の平明さと語りの易しさはここらに理由の一半があるようにも感じられるのです。
 
追記: 村上春樹の小説に見られる語りの平易さや通俗性の秘密が、実は作者の恣意を超えた精神病理学的な構造に由来することを書いてみました。批評家によっては、村上春樹の小説を規定する精神病理的な現象を遂一最新の精神病理学的な学説を駆使して証明する労作?もあるようですが、痕跡があるのは当然なのです。むしろそれらの論者が思い違いをしているのは、村上春樹の小説が最新の精神病理学的な事実と整合し符号することを持って、なにかそこから文学固有の問題が帰結できたかのような錯覚に陥らせていることです。文学と精神病理学とは異なります。村上春樹の小説にある通俗性が精神病理学的な事象と密接な関係にあることをこの論考では証明したかったのです。精神病理学的な事象が同時にこの上な通俗性、平板さ、内容のないこけ脅かしの精神病理学的空虚さと極めて高い相関関係にあるのです。村上文学の語りの平易ざとは、必ずしも作者によって意図されたものではないのです。村上春樹の小説が通俗的であると云う理由で批判しているのではないのです。この点誤解なきよう!