アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピア 「コリオレーナス」 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
  衆目の観るところ傑作であることは間違いないだろう。その完成度に於いて四大悲劇を超えるかどうか、と云うことになると難しい面もあるだろう。悲劇としての性格が四大悲劇ほどくっきりとした輪郭をもっては描かれていない、と云うこともあるだろう。テキストとして読んでいる場合と実際に劇場の舞台の向こうに見る場合の劇的性格を勘案すると、四大悲劇に比べてメリハリが利かないと云うことはできるかもしれないが、読み物としてだけ考えるならばこちらの方が面白いのである。つまり演劇の舞台効果を超えた魅力が、つまり文学としての魅力がこの本にはある。四大悲劇に勝るとも劣らぬ、というのが読後の私の印象である。
 
 物語はローマ共和政の初期、護民官を中心とする共和派と元老院派の対立を背景としている。ローマ貴族性の尚武の薫陶の中に育った無骨一辺倒の男の自作自演的なあるいは自暴自棄的な破滅の物語である。悲劇としての原因はないのに、自らが創り出してしまう愚かさと純粋さその哀れさを描いて、シェイクスピア悲劇の中においても忘れ難い人間像である。個人に内在する悲劇と云うよりも、一途で愚直な性向が眠っていた共和制と貴族性の歴史的対立を呼び覚まし、歴史的な事件としてしまう点である。かかる意味で悲劇の主人公はコリオレーナスと云うよりも、歴史そのものなのである。
 
 いつの世にも存在する、愚直で融通の利かない男と云うのは存在する。問題なのはそのような真っ直ぐな性格の純情が、時代と時代の変換期に於いて歴史的要因と結び付くことによって壮大なドラマとなる。この本を読みながら森鴎外の一連の悲劇、とりわけ『阿部一族』を思い出した。あの場合は、江戸封建制初期の戦時から太平の世に移り変わる時代における軍事組織の清算、縮小と云う時代の背景があった。その大きな歴史的背景の中で、一人の男の意固地さが時代の問題性を選びとってしまうことに、つまり時代の象徴性を獲得してしまうところにその悲劇の基本的な性格がある。そう云う意味では時代性に捕われない象徴性を目指した四大悲劇とは根本的に異なっているのだ。つまり当時も今も、『コリオレーナス』は現代劇であったし、そのように読まれうるのである。
 
 『コリオレーナス』が提起した問題は実に重い。コリオレーナスの背後にある政治哲学は、単に貴族性か共和制かと云う事だけではなく、アテネ民衆制末期のデモクラシーの在り方をも提起している。単なる古武士の意地ではなく、政治は民衆的、多数的であればよいのか、民意!民意!と云うけれども、時と所を変えてコロコロと変転する民意と政治との関係を問うているのである。時あたかも日本に於いても小泉政権以降民意と迎合することなしには政治が成り立たなくなった事情がある。そしてその傾向は石原都政から橋下大阪府政に至るまで選挙民の七割以上の共感を得て現在進行中である。これを多数派の暴性、衆愚政治と云ったのでは、平成のコリオレーナスのような立場に追い込まれてしまうだろうのだろう。孤立し、「民意」あるいはその代表機関メディアなるものによって指弾を受けることになろう。アテネ民主制がどのようにして滅んで行ったのか。民意!民意!と云いながら一貫して理念のないその時々の施策に迎合したり反発したりして見る単視眼的な政治が、如何に時の熟性と云うのを怠り政治的感性を育てると云う地道な義務を怠るのか、国内の状況にのみ条件反射的に反応する即物性が、あるいは女性票におもねる家政婦的感性が、対極的な状況や海外の対外的な状況を次第に読めなくなり、外国の干渉を許し、蛮族の侵入を許し、政治の冷徹な力学の犠牲として歴史上から消えていく運命にあることを何ゆえ理解しないのか。橋下君、石原君、君たちはアリストテレスを読んだのか?
 
 政治的凡庸さが20世紀以降に於いては政治の重要なテーマになったと云うのは、ドイツの女流政治哲学者ハンナ・アーレントの指摘である。凡庸さが、それと意図することなく如何に巨大な悲劇を生みだすかを、ドイツの悲劇としてナチズムの興亡の歴史の中に見ている。その大合唱には、あろうことか彼女のかっての先生であり愛人関係にあったとされる、かのマルティン・ハイデガーその人が含まれていた。哲人としての深淵さと人間としての凡庸さを同時に彼の中に見ていた。
 
 凡庸さとは平凡であると云うことではない。例えものごとの道理を弁えているとしても、思っているだけでは駄目なのだ。それを目に見える形で口に出して行ってみてこそ言葉は生きる。言葉が環境的世界との関係の中で果たす機能を理解し、人間とは表現であることを理解できない人間の在り方をこそ凡庸とは云うのだ。言葉は『葉隠れ』精神のように秘め事であってはならないのだ。口の端に出してこそ、言葉は人と人とを繋ぐものとしてこの世に生きた形を現わす。ハイデガーに於いては言葉のこの二つの機能がグロテスクなほどに乖離していた。学者としての深淵さと人間としての俗悪さの同居、は勝れて20世紀的問題なのである。そして、人嫌いの書斎人、愚直なまでの引きこもり型知識人の典型とされるあのインマヌエル・カントが、意外にも言葉の単純性を理解していた。学問に集中する態度のゆえに極力外部的には波風の立たない隠者のような生き方を選択してきたカントが、最晩年において自らの学者的活動にプロイセンが政治的干渉を加えたとき、言語の名に於いて、言語が持つ今公共性の名に於いて彼は根強く抵抗した。カントにとって言語とはコリオレーナスと同様に人間存立の固有な意義を有していた。その経緯は『啓蒙とはなにか』などに熱く語られている。その結果、多くの彼の書物が発禁処分になったこと、このことは余り知られてはいない。
 
 『コリオレーナス』は、愚直な軍人の悲劇ではない。かれが大衆迎合の言葉を云えないのは、彼の言語観にある。彼の言語教育を育成した母親と母国ローマの伝統にある。彼は母の名に於いて、そしてローマの名に於いて言語の本来の機能はどうあらねばならないのかと云う意味で抵抗したのである。言葉を単なる手段として、便利な使い走りのように考えたとき堕落が始まる。
 
 つい、現代日本の政治状況に筆が及んでしまったが、『コリオレーナス』の魅力はコリオレーナスだけでなく、その周辺部に配置する魅力的な配役群にある。特に母親であるヴォラムニア!このような人が出てくるだけでローマとはどのような時代だったのかがわかる。そして友人のメニーニアス・アグリッパ、中間派とも云うべきこのような人たちが意外にも多くローマには存在したのではないのか、ローマとは素晴らしい時代であった、そう思う。
 『コリオレーナス』の魅力は、英雄も愚者も出てこない現代劇としての等身大の人間像にある。どの人物も一人として顔見知りであるかのような既視観に捕われる。しかもどの人物像も存在することの固有さを感じさせて、腑に落ちる。人間としての欠点ゆえに、如何に人間の欠点をシェイクスピアは愛したか。人間としての最低の資質を備えて全ての登場人物を造形しえたことは、敵役のヴォルサイの将軍タラス・オーフィディアスの最後の語りに於いても例外はなかった。
 
 ところで語りとは何なのか。語りと人が話すこととはどう違うのか。語りと近代の小説家や歴史家が叙述することとは何がどう違うのか。
 その違いをお伝えするために、シェイクスピアに於ける語りの代表的な場面を、最後に引用しておこう。
 
オーフィディアス「おれの怒りは消え去り、
悲しみだけが胸を打つ。遺体をかつぎあげよ、
武将三人の手を借りたい、おれが四人目になる。
太鼓を打て、哀悼の心をこめて打ち鳴らすのだ。
ほかのものは槍の穂先をさげ、葬列に加わってくれ。
この町には、彼のために夫を失い、子を失ったものが
あまたあって、いまなお嘆き悲しんでいる、だが、
彼の高潔な生涯は人々の心に長くとどめねばならぬ。
さあ、手を貸してくれ。」(コリオレーナスの遺体をかついで、一同退場。葬送の音楽)