アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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らためてシェイクスピア四大悲劇について・7 マクベス夫人とガートルード――『マクベス』と『ハム・・・アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 『マクベス』と『ハムレット』をひとつながりの物語として読むと云うことを推奨し提案していた。両作品をよりよく理解するためには、タイトルロールどうしを比較するよりも、隠されたヒロイン的な立場にある二人の女性を理解すると容易になる。その二人とは、マクベス夫人とガルトルードとである。
 ガルトルードは、マクベス夫人の末裔、である。意図せざる人間類型の継承者である。しかしながら最大の違いは、前者は欲望に憑りつかれた悪性の女、後者は悪性としての自分自身を理解し、それを悲劇と云う形式の中で受け止める実存的な人物である。この違いは、極端なほど大きい。
 マクベス夫人は、中世的な、道徳的な価値観から自由な新しいタイプの人物造形であるが、結局のところ、伝統的価値観の尾鰭背鰭に絡み捕らわれて自滅していく。彼女の破滅が、凡庸な旦那を滅びの道行きに追い立たせると云うだけの物語である。
 ガルトルードもまた伝統的な価値観からは自由ではあるが、彼女の性格を特徴づけるものはマクベス夫人のような個人的な欲望ではない。彼女はある意味では政治的人間であり、妻として母としてあるより以前の問題として無能な王を持った場合の王妃の在り方を考える、という存在である。つまり伝統的な、人間であることよりも国家や社会の在り方を優先させて考えると云う意味で古い価値観に生きる存在である。しかし他方で、政治的な判断が実存的な価値を満たすとは思っていない、知的な存在者の在り方をも併せ持っている不思議な存在である。だから彼女は、マクベス夫人のように、過去の亡霊や幻想のようなものに捕らわれて破滅することはできない。彼女の死を選び取る方法としては、悲劇と云う形式を自らの手で選び取ると云う対自的な行為でしかありえない。政治的であるとは、演劇的な存在であると云うことである。
 
 『マクベス』が抱えている問題は、精神病理学的に言えば離人症と云う症状に似ている。何をするにも自分でやっていると云う実感がない。だから、平凡で凡庸な男が次から次へと魔女と妻の欲望に突き動かされて殺人鬼のような生き方をしてしまう。リアリティが感じられないから、殺人でもしてそれを感じたいと云う欲求を押さえることができない。柄谷行人のように、ここに意味、無意味の問題、世界との非和解性の問題を読み取ることは過剰な文学的な反応である。
 『ハムレット』が抱えている問題は、あらゆる人間的な輪郭の手前にある非決定性としての人間が、自らの運命を悲劇として自覚的に理解していく道のりである。架刑台に向かうイエスのように、辛く哀しい道のりである。
 恒常的に非決定性としてあると云う人間は、マクベスを捕えた病理、離人症に似ている。しかし『ハムレット』に描かれているのは、あらゆることにリアリティがないと云うことだけではない。ハムレットの病理が、オフィーリアへの対応に見られるように、小さな出来事に無関心であると云う点に現れている。これまで一続きの論考で何回も繰り返し述べたように、あいまいなもの、ファジーなものが失われているのである。
 精神病理としては、統合失調症に似ていると云える。
 
 マクベスハムレットの違いは、前者の凡庸性に対して後者の知識人性である。かれは自らを呪縛して止まない運命を、劇中劇として上演し、可視化して観ると云う手段をとることが出来る、つまり言語を自在に操ることができる知的存在者なのである。しかし、言語的表現を介してみても、謎は明らかにならない。運命は知的営為によっては決して明らかにされることはない。
 演劇形式が駄目なら、彼もまたマクベスのように実際に暗殺者としての行為を実行する。この段階で、彼が異常であることが明らかになる。殺人を犯してもマクベスのような倫理的な反応が殆どないのである。
 ハムレットの非人間性!これは、これまでのはハムレット論で論及されたことがない。かれを文学青年の憂愁と自問自答に比するお目出度い解釈ばかりである。
 
 ハムレットが暗殺者であったことが明らかになった段階で、クローディアスに代表される体制側も、また肉親としてのガルトルードにおいても、無残な着想ではあるが、政治的判断をとらなければならない。
 一国を宰領する王妃であることと、狂人の母親でもあること、この拮抗する運命の諸矛盾のなかを、彼女は己に課せられた実存的な行為として受け止める。彼女が最後にとった自らの運命を、狂人の母親としてある種の諦観の微笑みとして受け止めると云う実存的な行為は、半ば政治的な行為なのである。母親としての行為が同時に国家の最高責任者の行為である限りにおいて、個人的なものと公的なものは一致する。
 『ハムレット』とはそういう物語なのである。
 つまり、イエスの受難の物語を踏まえた、キリストとマリアの物語なのである。受難の立場にあるものを香油で浄めたと云われるマグダラのマリアに比するものは、清冽な小川の泉と涙で浄めたオフィーリアとが千数百年を隔てた対面する構図になっていて、運命に奉げられた至高の二幅の祭壇画を、歴史と云う名の仄暗い聖堂の沈黙なかで時間の重みと練磨に淘汰されつつも消えきれぬ漆喰の下絵のように、悲劇の顛末を不気味に炙り出している。