アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピア 「アントニーとクレオパトラ」 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 シェイクスピアは『コリオレーナス』において、一般には知名度が高いとは言えない、ローマ共和制初期の政治のドラマを語ってくれた。エンターテインメント性を持ちながら、物語作者としての深度において、なかなかのものがあった。
 そして今回の『アントニークレオパトラ』は『ジュリアス・シーザー』とならんでローマもののと云われるシェイクスピア戯曲群の中でも、著名な事件を扱っている。通常は著名であるがゆえの材料負けを危惧するのだが、このメリハリの利いた、愛あり戦争ありの政治活劇を、一流の歴史劇へと仕上げている。
 
 シェイクスピアの戯曲は、読みながらこれこそ第一位の作品であるのではないかとしばしば思わせる。しかし読み終えて彼の作品群を総覧すると、幾つかの峰々が連なり、どれが第一位であるかはどうでもよくなる。むしろ反対に、それぞれが比較できない固有な魅力を持つゆえに、その深さと高さと領域の広大さにおいて、その全てが同一人物の手になるとは思えないと云う、今まで何度も経験したあの感慨をこと新しく繰り返すことになるのだ。
 
 アントニークレオパトラ、卓越した軍事能力と美貌の持ち主でありながら、併せて人間としての欠点を持ち、その欠点ゆえに滅んで行く人間像としての彫拓が見事なのである。これならだれにも分かる。実に解りやすい。シェイクスピアの女性像はどこかヒーローに遠慮してか淡白に描かれることが多いが、クレオパトラが魅せる濃密な色気はどうしたことだろう。彼女の存在感に匹敵させるために、アントニーもまた男にしては女々しく、往生際の悪い死に方をさせている。英雄としての美点を剥ぎ取られ、あくまで人間として死んでいくところに、シェイクスピアの共感と云うものがあったのだろう。
 
 これと雰囲気が似ている同じローマものの傑作『ジュリアス・シーザー』との違いは、一方では政治的人間像のスケールの大きさを実感させてくれる。愚直正直一本槍の清廉潔白な士、ブルータスが、如何にして彼自信の理想に反してローマの逆族として滅んでいかなければならないのか。個人の政治的信念と、それが状況の中に生かされる事に生じる政治的意味の断絶と苦渋を実に一人の登場人物を通じて、濃密に、襞深く描かれたいたのが印象的である。
 その彫の深い人間の描き方――皮肉っぽい言い方をすれば、近代主義的な描き方と近代主義的な人物造形性に於いてもこの二つの作品は共通している。あたかも時空を二三百年ほど乗り越えて、お好みであれば現代の観客を満足させるような趣向を盛り込んだ興業を提供して、目と耳に美酒と御馳走をもってご覧に入れることだってできますよ!と云わんばかりなのである。シェイクスピアの多元性を今更ながらに見せつけられたような気がする。
 
 『ジュリアス・シーザー』との違いは、この作品に於いては誰一人ぶれることなく自らの信念を貫いた人物はいないと云うことである。まるで生き残りイゲームのように一人づつ悲劇のドラマから退場していくのだが、その一人一人が人間としての欠点ゆえに悩み、あるいは狡猾に生きることを選択し、そして自らの至り無さを、あるいは自らの卑怯さを理解しながら、死んでいく、と云うところにある。歴史的に有名な英雄と世開一の美女を題材としながら、あくまで血を這うような最下層の人間として死んでいくところに、シェイクスピア人間性への共感をみるような思いがするのだ。
 
 オクテーヴィアスがクレオパトラアントニーの死に見せる配慮は、実に周到であり、その滅びも生き様も全て含めての人間賛歌であったことが最後に歌われる。劇中一度も歌わなかった男が最後に不器用な惜別の歌を歌う。
 
クレオパトラアントニーのそばに埋葬してやることにしよう。地上の如何なる墓も、
これほど名高い二人を納めることはまたとあるまい。
このようなおおいなる出来事には、それをひき起こした
当の本人までも胸をうたれる。二人の哀しい物語は、
そのもとになったこの身の栄光とともに、永く
世人の同情を誘うだろう。わが軍は威儀を正し、
この葬儀に参列するように。それをすませてから、
ローマへ凱旋だ。ドラベラ、おまえに手配を頼む、
この大葬儀には最高の礼をつくさねばならぬ。」
 
 これだけを読むと、『ロメオとジュリエット』の結びとしてもおかしくないような気がするが、ロマンス劇とはそうしたものだ。若者であろうと中年であろうと恋の気持ちを描く場合に変わりがある筈がない。