アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『ヴェニスの商人』と資本論 あるいは若きアントーニオの惑い アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
 
 「ヴェニスの商人」は経済学者の岩井克人の見事な資本論的解釈によって云うべきことはないように見える。つまり、
 ローマ的な理念と云うか、共同体の論理の体現者としてのアントーニオと、資本主義――と云うか金融資本主義の象徴としてのポーシャとの婚姻を目指すバッサーニオによる、資本主義の目覚め。彼とポーシャの間に果たすべき「指輪の誓い」とは、貨幣と資本への忠誠となる。一方、ローマ的あるいは中世的理念、要するに資本主義以前の同志愛的な友愛を基本とする共同体主義的なアントーニオにとっては、せいぜい時代の趨勢による強制力としての貨幣と資本との出会いは、せいぜい重商主義――つまり海外への投機的な冒険主義による一喜一憂する成功と破綻の繰り返しであり、かかる共同体主義的なあるいはせいぜい重商主義的な貨幣経済的な動向の終焉と見える。このへんは、重商主義的な理念も含めて一括して資本主義対共同体と対比させる岩井の論旨とは少し異なる考えを私は持っている。
 それゆえシャイロックとは誰か?かれこそ貨幣経済の中に埋め込まれた内部の他者、つまり金融と法の論理なのである。アントーニオの重商主義とは他者を海外の異国の地、つまり異界としての超越的次元に求めることに於いて徹底性を欠くものであり、資本は日常性から精神性の全領域を網羅するものとはなっていない。これがシャイロックと云う貨幣経済の内部性と出会うことによって、彼自身の内部崩壊を齎すのである。つまり資本主義的なあり方は有史以来何千年の歴史の中で幾度もありえたにしても、それが人間と社会の全領域を貫徹する論理として現れるのは、確かに近代資本主義に於いてのみなのである。その出会いが、というか触発が、ユダヤ金融資本主義と云う、因循姑息名一見封建制の残滓としか思えない律法主義と厳格性との出会いを触媒として成立するところに、資本主義誕生の本質的にアイロニカルな性格がある。このへんのシャイロックの捉え方、重商主義の「ヴェニスの商人」における位置づけも、岩井の論旨とは少し違うので正確な解説となっていないことは御了承願いたい。
 それではポーシャが婚約の条件とする三つの宝石箱の意味は何か。金銀そして鉛の箱に婚約の約束が仕込まれているの云うのだが、ヴァッサーニオがたまたま幸運の女神を引いたからよいようなものの、このことは資本主義とは愛や理想と云う人間を人間としてあらしめる価値ですら偶然性の運命の元に委ねられなければならないことを意味している。冒頭に出てくるアントーニオの有名な理由なき「憂鬱」の根拠は其処にある。彼のみが大団円で皆が浮かれ騒ぐ中で一人取り残されるのである。いや、正確に言うともう一人の重商主義的資本主義者兼厳格な律法主義者シャイロックの落胆があるにはあるが。
 岩井のヴェニスの商人論を敷衍して述べると、ローマ的な友愛の論理とシャイロック重商主義貨幣経済が世代交代するお話し、つまり老兵は去るのみ?と云うお話なのである。
 
 しかし、ことヴェネツィア共和国一千年の歴史を中心に於いて「ヴェニスの商人」と勃興期の資本主義との関係を解いたらどうなるだろうか。資本主義とは当初に於いては、常に金策に苦慮する生活不能者(バッサーニオ)と豊裕な貴族(ポーシャ)たちの不可解な結合過程であり、それは指輪(貨幣と資本)への絶対的な帰依によって完成する。一方、シャイロックの娘のジェシカとロレンゾーの駆け落ちに見られるように、それは資産の持ち出しであり、秘匿されたユダヤの現金主義からの纂奪であり、早く言えば方と云う名の公的権力を用いた暴力的な盗人猛々しい行為なのである。シャイロックを廻る法廷陳述の場面は爽やかであればユーモラスでもあるのだが、本質は水晶の夜以降のナチによるユダヤ資産の纂奪の予言的な描写になっている。資本主義は本質上それを定義あらしめる貨幣と資本の幻想的な性格ゆえに無節操であり、「ヴェニスの商人」にみるようにそれが旧体制であろうと新規の権力であろうと自らを貫徹するためには法や権力に擦り寄り結託して暴力的な破壊行為に走る、運命の善意なき女神なのである。ローマ的な教養に貫かれたアントーニオが一人だけ婚約から疎外され、今後も一人独身者の道を歩むことになるであろうことは暗示的な結末によっても理解することが出来る。
 ヴェネツィア共和国千年を支えた理念とは、一つには海外貿易によって支えた国民的富の構造であり、国内的にはルネサンス期のマキアヴェリズムに基ずいた権力闘争からは己が存在をのみ特権化し、政治抗争の舞台の外部に配置しえた外交技術であり、政治の機構を極力人間の恣意性からくる影響を排し偶然性が齎す許容差を管理する、つまり法令の厳格な適用の管理下ににあった社会である。ヴェネツィア共和国の理念とは中世に於いてここのみが異端尋問の嵐から間接的に守られていたように、自由な気風と云うよりもイデオロギーなき最大公約数的な社会であり、唯一為政者や権力機構こそ体制にとって狂気ともなりかねないことを理解していた、人類史上初の複眼的な思考をする社会だったのである。それゆえアントーニオのようなローマ主義的な人文主義者もシャイロックのようなユダヤの厳格な律法主義者のような存在も排除することなく、一律に自らの共和国成形の構成要素として内在化する有機的な都市国家でもありえた。そうして、ヴェネツィアの悲劇とは、共和国を支えるユダヤ資本を始めとするルネサンス期の貨幣経済が自らの論理を情念の前に屈服させ、つまりシャイロックは怨念と激情のあまり利害を度外視して「一ポンドの肉」に拘った時破綻の兆候を見せる。あるいはアントーニオに代表される重商主義つまり「ヴェニスの商人」の論理をローマ的な人文主義や安っぽいルネサンスの友愛のイデオロギーによって粉飾しようとするとき、つまり資本の論理にあからさまに反抗の気配を見せたとき、アントーニオは悲劇に巻き込まれざるを得ない。あるいは偶然性による運だのみのみと人柄が良いのだけが取り柄の生活不能者(バッサーニオ)が、旧体制の資産と財貨と結託することによって見事に近代人として変質する。つまり余計な理想などに拘泥しない平凡な人間が主役になるであろうことを新たな時代は予告する。かかる資本主義と云うマルクスの云う幻想的な神秘の構造を、同時に論理の明晰さとして(ポーシャの場合)あるいは纂奪の構造(ジェシカとロレンゾー)を法と権力が後ろ盾になって保証する国家資本主義の20世紀的なあり方を予感させられることに於いて、ヴェネツィア共和国千年の歴史は幕を閉じようとしているのである。つまり貨幣と資本と剰余価値と云う名の幻想的な体系を信奉する新奇の宗教の前に、イデオロギーからも権力の恣意性からも最も遠い存在であったヴェネツィア共和国千年の歴史が屈服しようとしている瞬間に意識せずしてシェイクスピアは立ち合っているのである。
 結局、シェイクスピアが他の戯曲で語っていたように人生とは舞台である。そしてアントーニオが語っていたように、誰しもが歴史の舞台の中でそれなりの役割を果たさなければならない。バッサーニオやロレンゾーのように能天気に生きるのか、それともアントーニオのように古典古代の憂愁の中を彷徨うように生きるのか。この場合戯曲「ヴェニスの商人」の中で最も爽やかな役回りを演じる聡明な女性「ポーシャ」と云う名前がローマ共和政の象徴的存在だったブルータスの妻に与えられた名前であったことに言及する場面があるが、なかなかにシェイクスピアは意味深長である。
 「ヴェニスの商人」の貨幣と資本と云うキーワードを使った岩井のなぞ解きは、単に次善主義としての資本主義を是認することに終わるだけで良いのだろうか。シェイクスピア死して三百年、資本の暗躍はその中に百数十年にすぎない。ヴェネツィア共和国の歴史は一千年の長きにわたった。我々は悠久の時に何を学べばよいのだろうか。