アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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村上春樹の古風な性愛観――社会事象としての村上春樹・第3夜 2011-12-23 21:12:33

村上春樹の古風な性愛観――社会事象としての村上春樹・第3夜
2011-12-23 21:12:33
テーマ:歴史と文学

 先回は ”ノルウェイの森”を、黄金の60年代に殉じた人々をめぐるノスタルジックな物語として読んだわけです。これは竹田青嗣ならば愛の超越性とでも名付けるべきものでしょう。いっぽう、作者である村上春樹の場合はこのような読み方に対して両義的でした。彼は、60年代の通過儀礼として死者との別れを書きたかったのです。60年代への鎮魂とともに死と再生の儀式を演じたかったのです。これが自己否定であるとか大学の解体であるとかの過激な言説にうんざりしていた人々に数多く支持されたと云う面は否めないでしょう。これに加えて、意外とも思える古風な倫理観と性愛観がこの小説の基底にはありました。

 この小説は、近代的な性愛観の代表作ジッドの ”狭き門” とのアナロジーで語っても面白いと思います。”狭き門”は一言で云えば、宗教と云う擬制的なものの考え方が如何に純真な若者に対して歪んだ生き方を強いるかと云う物語だと思います。不幸なことに我が国ではこのように読むのではなく、愛の至純さ、竹田の云う愛と宗教の超越性を描いたものだと云う風に受けとられてきました。
 この間の不幸な事情が いっけんモダーンな ”ノルウェイの森” においても踏襲されているのです。”狭き門”のアリサとジェロームによって比類なき愛の純粋さと至高性が育まれたように、直子は当時の文学の影響で、愛と性は一致すべきだ、と思いこんでしまうのです。愛と性は現実態としてはずれてしまうものなのに、この思い込みの激しさがこの小説に出てくる一群の青年たちを狂気と死へと追いやるのです。この過程が、村上春樹自身は意識していないけれども、あの60年代の革命思想に関わって死と狂気の世界へと追いやられた青春群像のアナロジーにもなりえているのです。この小説が、聞くところによると全共闘時代の記憶と残響を伝える小説であると云われる場合は、実はこのような理由に寄るのだと思うのです。

 現実的現象形態としてはあり得る愛と性の不一を、まるで罪悪感のように感じて自らを死へと追い詰めていく憐れと云うよりも悲惨な生き方が帰結されます。現実的人間としての生と愛の当たり前のファジーな関係が、まるで性的な不能のように罪悪観化して描かれるのです。この間の事情は、革命思想の冷徹な教義の前でグロテスクな自己批判を加えて自らを処刑台へと追い込んで行ったスターリン時代の被害者たちの群像を思わせてグロテスクです。要は、こうした巧まれざるアナロジーに作者が気が付いていないと云うのが何ともアイロニカルなのです。

 このような性と愛の感違いは登場人物だけでなく作者その人にも汚染していて、その結果、やや無内容な露骨でもあれば下品な性描写の数々が展開され、これが性愛描写において卓越することがまるで文学的な前衛の証であるかのように受けとられた一昔前の記憶を引きずっていて、何ともも素朴な風景に見えるわけです。もちろん、これは言葉のあやで、軽く扱えるような問題ではないのです。

 再び ”狭き門” とのアナロジーに帰れば、至純なる愛と世俗的な愛の拒否は、年上のアリサが年下の従兄を何時までも引き付けておく手練手管、言いかえればエゴイズムの発露の一形態であることは否定出来ないことでしょう。同様に、意地の悪い見方をすれば、直子の性愛の不一致による罪悪感とワタナベ君との共生の拒否は、技巧の問題が全くなかったとは言い切れないでしょう。物語の後半においてもう一人のヒロイン緑が登場してから、直子は二人の関係を直感しています。ワタナベ君は自分の真意を直子のスポークスマンであるレイコさんだけに伝えるという巧妙な手段において語るわけですが、密封状態にある阿美寮の打てば響くような二人の関係を考えれば、秘密が言外に伝わってしまう事は精神病理学的な知見を用いずとも明らかなことでしょう。かかる超親和的な癒着的というか涅槃的な関係にある他方の人間をスピーカーと呼びますが、スピーカーにおいては本人が語る以上に増幅されて伝わる所にj特徴があります。いっぽうワタナベ君は自らの無知と感性の鈍感さの陰に守られるようにして、直子の死に対しても免罪符 のようなものを手に入れるのです。

 古風な倫理観の持ち主の代表は何と云っても、永沢さんの恋人のハツミ三の場合でしょう。ハツミの死が毅然として見えるのは、永沢やワタナベ君のような生き方の拒絶として、その死があるからです。彼女のまるで男のような毅然たる性格は、作中、ビリアードの場面で顕著です。このような女性が中身のない永沢のような人間に魅かれると云うのも、いかにもありそうな人生のイロニーなのです。
 古風な人間と云うよりも、古風な倫理観の発露は、死を前にした緑の父親の臨終に立ち会うワタナベ君を描いた場面にも表れています。この行為を通じてワタナベ君は大いに緑の内申を挙げることが出来たのですが、不思議なことに ”ノルウェイの森”  の中で珍しく人間が動いていてレアリスティックだと感じられる場面が、古風な人間なり古風な倫理観の発露なりを描いた場面であると云うのも不思議と云えば不思議ですね。
 最後に、何と云っても最大の古風な倫理観の持ち主こそ緑さんなのです。性的であけすけな言評にも関わらず、彼女の古風な倫理観が発揮されるのは、あの有名な最終段落における、”沈黙” の重さです。

 ワタナベ君の勝手な物言いを引き継いで引き受けた長い沈黙が意味するものとは何だったでしょうか。ワタナベ君は緑の沈黙によって、初めて被害者であるとともに加害者でもあった自分自身を理解するのです。
 幼少から苦労人であり、他人の多様な感情に無関心ではありえない、疑似欠損家庭の出身である彼女にとって、ワタナベ君とレイコさんが仕組んだ手前勝手の言説が意味する不潔さに気が付かない筈がないのです。それで彼女は愛から百万光年も離れたような遠くから、質問には答えずに、あなたはどこにいるの?と相手の動靜を思いやるほかはなかったのです。この相手への無限とも云える思いやりが深い断念に基づいていることは誰からも好かれてきたエブリーマンとしてのワタナベ君の思惟の外部に存在する理解不能の出来事でした。一昔前の言説をもじれば、小説の最後の一行において、世界の中心で愛を叫ぶ!ワタナベ君の孤独さを象徴するものこそ、60年代の透明なガラス箱としての電話ボックスという小道具が示す救いのない象徴性の隠喩だったのです。

 こうして、愛の観念性がもたらした悲劇としての ”ノルウェイの森” を読み返すと、登場人物たちの善し悪しは別として、作者の立ち位置が何とも気になるところです。ワタナベ君や緑さんが古風な倫理観の持ち主で、直子やハツミさんが古風な人間であると云うのは小説として少しも困ったことではないのです。彼らが古風な倫理観の上に観念的な信念を持って愛と性の一致こそ愛の理想形であるというイデオロギーを接ぎ木したとしても、それは作者の観点次第では第二のドンキホーテ物語として却って小説としての重層性を与えたと思うのです。しかし全能であるべき作者が登場人物たちと同じレベルであると云うのでは少し困ったことなのです。

 総評的に云えば ”ノルウェイの森” は、地上における人間たちの愛憎のドラマが、神々の恣意的な偶然性にか負けてか、全体の統制が失われる、ギリシア神話の放埓さと無邪気さが共存した不思議な世界のように、私には見えるのです。、