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日本近代文学に描かれたデカダンスの諸相(上)――耽美と唯美主義――谷崎(2016・12)アリアドネアーカイブスより

日本近代文学に描かれたデカダンスの諸相(上)――耽美と唯美主義――谷崎(2016・12)アーカイ
2019-08-23 22:37:29
テーマ:アリアドネアーカイブ


原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505558490.html

日本近代文学に描かれたデカダンスの諸相(上)――耽美と唯美主義――谷崎
2016-12-03 15:52:40
テーマ: 文学と思想



この文章も定期的に読まれている。
学校の長期休暇の時期が近づいてくると
浮上してくる傾向からすると、
学校の課題や読書週間と
関係があるのかもしれない。

これを書いてから
こちらのも心境の変化があって、
森鷗外永井荷風樋口一葉についての
エッセーをそのあと書いた。
併せて読んでいただければ幸いである。

上記の作家たちの中で
二三指摘しておきたいのは、
森鷗外の『渋江抽斎』などの史伝を
今後どのように評価するのか。
世界文学にも類例のない業績
であることについては
、もっと声高に称賛の声を上げてもよい
のではあるまいか。
近代的個性的個人を
「生き生きと描く」という
近代小説の常道
とは全く異なった次元で、
一登場人物とその周辺をある程度の
厚みと幅を持ったものとして
描くと云う、途方もない
文学的達成なのである。
個人を描くに、父子三代において描き、
さらに縁故知人、親戚や交友関係
のレベルにまで敷衍しつつ
時代と歴史そのものを地層として
描くと云う試み、
と考えてよいのではあるまいか。

樋口一葉については、
たけくらべ』などの小説も優れているが、
『日記』を読むに至って、
作家その人が小説のロマネスク的な世界を
遥かに凌駕した存在であったことだろう。
しかも彼女は江戸後期の
文化的素養に連なる人であって、
そこから垣間見えてくる和漢の素養において、
今日のわたくしたち近代人からは
思いもかけない姿を
彷彿と想像されてきて、
近代主義的な評価のみでは語りつくせない、
一葉研究もいまだし、という気もする。

永井荷風については、西洋を経験しながら
それには反時代的に背を向けた骨董的趣味人
という印象を持っていたが、
西洋文明との出会いの衝撃を
これほどヒリヒリするような、
血の出るような感性で受けたのは
彼のみではなかろうか、
そんな感想を持っている。

更に想像を逞しくするならば、
一葉と国木田独歩との間に
交渉関係があって、
本郷上野を舞台として活躍した一葉と
当時の渋谷村などを起点として
武蔵野の方向に広がっていた詩人、
国木田独歩との間に
真剣勝負にもにた恋愛関係を
妄想逞しく想像してみるのである。

封建的道徳と美徳との間に
規範的に生きた一葉と
近代的な感性が瑞々しくも
花咲いた自然詩人、
国木田独歩との抜き差しならぬ関係、
独歩はともかくとして
一葉は独歩の感性をよく見抜いたであろう。
また、一葉と漱石との間には
実現はしなかったが
一時、縁談話が持ち上がっていた
と云うことも伝えられている。



2012年の原文は以下の通りです。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/takata_hiroshi_320/23332443.html





http://blog-imgs-19.fc2.com/k/o/b/kobeevent/20081015172614.jpg
谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)


川端 康成(かわばた やすなり、
1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年)4月16日)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f1/Izumi_Kyoka.jpg/180px-Izumi_Kyoka.jpg
泉 鏡花(いずみ きょうか、
1873年明治6年)11月4日 - 1939年(昭和14年)9月7日)

三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、
1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)


 表題は壮大だが、竜頭蛇尾に終わることを許されたい。第一にこの四人の作家たちは好きなのだが、部分的にしか読んでいない。第二に文学研究者として広く資料を渉猟すると云う根気に欠けている。第三に昔読んだ記憶が不鮮明で、その後読み返していない。あくまで、私の読みえたかぎりでの近代日本デカダンス論である。

 例によって、先に用いたフランス文学のデカダンス表?を採用してみる。

(1) 対象的世界がデカダンスである:作者の視線もデカダンスである。 
(2) 同上                : 作者の視線はデカダンスではない。
(3) 対象的世界はデカダンスでない: 作者の視線はデカダンスである。
(4) 同上                : 作者の視線はデカダンスではない。

 ここで私が言うデカダンスとは何かを、簡単に定義しておこう。
① デカダンスとは近代に固有の現象であると定義する。この意味に用いる場合の日本語を「頽廃」とし、それ以外の用い方を「退廃」とする。
② 私の持ち入るデカダンスの定義は通常とは少し異なる。広義に於いては不健全な生活態度、狭義に於いては小説技法上の作家的視点の清濁度、つまりデカダンスとは鮮明度の濁りの程度を表す。
③ デカダンスとは凡-広義において、デカダンスとは思っていない人間にのみ起こる固有のイロニックな現象である。以上。

 谷崎潤一郎の『春琴抄』・『蓼食う虫』そして代表作『細雪』を取りあげる。
 谷崎は果たして近代的な意味での作家なのだろうか。この問いに答えるのは難しい。初期の『春琴抄』は明らかに江戸期の荒唐無稽な戯作の範囲にあるように見える。しかし主人公である下男の、関西で云うこいさん(お嬢さん)に対する自己犠牲的、被虐的な純愛は近代との出会いがなくては描かれえなかっただろう、そういう意味ではまぎれもない近代の小説である。しかしこれを取り上げた谷崎の作家としての趣味は、近代的というよりは遥かに江戸期の歌舞伎や怪奇趣味に近い。
 よって判定は、(2)である。

 近世日本の残照を浴びた体質に自覚的であった中期の谷崎は、『蓼食う虫』以降に於いて、伝統的な世界へ意識的に回帰する。近代の問題は男女の恋愛感情に於いてこそ典型的に現れるのだが、谷崎はそれを意識的に回避し、様式美の中に心理的な平衡を見出そうとする。谷崎は意図的に近代との遭遇を回避したかに見えるが、その迂回の仕方が谷崎なりの近代という時代との遭遇体験であった。
 『細雪』の偉大さは、近代などにかかずらわなくても固有の芸術的な達成が可能であると云う事を意味した日本文学史上の画期である。『細雪』の現代小説としての際立った特徴は、ドストエフスキーのような個人の孤独な内面を描くでもなく、またトルストイのような集団的な俯瞰的叙事詩的描写をするのでもない、人間を描くことなく、様式の持つ客観性に注目した点である。近代芸術の鉄則は、人間が生き生きと描かれているかどうかを論議することをもって自明視する芸術観があるが、谷崎の打ちたてた美学はグローバルな世界標準に対してびくともするものではなかった。
 しかし『細雪』の、伝統的であるとは云っても、生気を欠いた儀式主義、公式主義は少なくとも近代化の無慈悲な歯車の底で呻吟する弱者を救うものではない。そうした生命に対する無関心もまた、「退廃」なのである。
 谷崎潤一郎は、近代が齎す「頽廃」の問題を、巧妙に芸術至上主義と耽美性の間に於いて見事に交わし、時代の変遷に左右されない己が芸術家としての矜持を保ったのである。
 谷崎の描く『細雪』の世界は、平板でそこには近代人が生きる術がないほどに閉塞的な世界である。それは「退廃」である。巧妙に「頽廃」であることを回避した「退廃」である。

 私の谷崎に対する評価は、(2)となる。
 あるいは『細雪』の世界が、西欧文明そのものの美学に対抗したと云う側面を評価するならば、異なった文明観をl主張した非デカダンス的世界観を表明したものとして、(4)となる。

 谷崎潤一郎とは大局的な位置に居るのが川端康成である。世代的にも谷崎らの後に続く世代としての川端は、どうしても谷崎的な生き方を対自化し、相対化した処から生きなければならなかった。谷崎が江戸趣味に迂回することによって回避しえた近代の問題は苛烈な経験として川端を撃った。

 ここでは、『伊豆の踊子』・『雪国』・『千羽鶴』・『山の音』を取り上げる。
 通常、日本的な抒情の代表的な書き手とされている川端の美学に私はかねがね疑問を感じてきた。川端が描く日本的抒情の美の世界の苛烈さは、単純に日本的とは云いかねる面があるのだ。何かガラスの破片のような、近づくと血が吹き出そうなそんな薄気味悪さが川端にはある。その非情の美学は、近代という時代を経由したものに固有の経験であるよな気もする。
 また、川端に固有の美学が持つ透明性は、白磁のような非人称的な美しさを持つ。それは百済仏と呼ばれる一群の仏像が示す神秘的なアルカイックスマイルと呼ばれたものをも連想させる。百済仏と呼ばれる一群の仏像に現れた微笑の透明性は、明るく迷いがないようでありながら、何か決定的な絶望を経験した者のみが持つ、平明さなのである。
 『伊豆の踊子』は、旅芸人の踊子に対する青年の純粋な思慕を枠組みとして、太古以来の流転する神々の末裔、諸国を旅して至福を授ける巫女たちの活躍の最後の姿を留めた。そして他方では、純愛小説の良くある枠組みを利用して、大人の視線から、見る視線としてのデカダンスを浄化する禊の儀式として描くと云う、多層性がある。あえて言うならば、一高生の制帽を被った青年は、化けの皮を被った中年の川端なのだが、なかなかに見破られないように上手く書かれている。『伊豆の踊子』は、かかる古代から現代に至る種々の物語的世界の枠組みを利用しながら、巧みに現在形としての作家である川端の自縛的感性を禊的儀式によって浄化すると云う、巧みな2重構造に立脚した現代小説なのである。

 『伊豆の踊子』の判定は(3)となる。それは作家としての川端が堕落していると云う意味ではなくて、身を持ってデカダンスを生きざるを得なかった川端の自覚的な生き方ゆえになのである。この点の評価を忘れてはならない。

 『雪国』そして『千羽鶴』・『波千鳥』・『山の音』の世界は日本近代文学が開いた最も薄気味の悪い世界の一つである。ある種の蝶にも例えられる巨大な蛾が、炎を求めて死に場所を選ぶように、『雪国』の駒子も葉子も倫理を超越した世界に生きる。人間ではなく、天使の位階に近い存在の人々なのである。
 しかし川端の怖ろしさは、かかる宗教性にも似た至高の精神性と美が、おぞましき醜美へとメカニズムを克明に描く。『千羽鶴』・『波千鳥』の人格の崩壊、あのフランスの作家マルグリット・デュラスが描くことになる人間性が崩壊する世界を、それに数十年ほど先だって川端は日本的様式美の基に描く。老人の、密かに愛する息子の嫁に対する性的な関心は平穏さを装いながらも、美を崇拝するがゆえに密かに彼女の死を願うと云う倒錯した美の世界へと誘う。反倫理的である事の極致は川端の描く世界の事を云うのであろうか。その非人間的で無残な頽廃美は、言語を絶するものがある。
 
 川端の描く頽廃美の世界は、評価としては(1)が相応しい。
 僅かに、『雪国』は、その真摯さ、作品としての感性度ゆえに、あるいは(3)の評価が相応しjのかもしれない。


 泉鏡花の描く世界もまた、谷崎と同じく「頽廃」ではなく、「退廃」である。谷崎潤一郎が如何に巧みに近代との遭遇という事態を回避したかの次第は既に書いたが、谷崎にとって「回避」として現れたものが鏡花の世界に於いては「対抗」そして「反感」そして近代文明への「復讐」となる。

 泉鏡花からは『高野聖』と『歌行燈』を選びたい。
 『高野聖』のもつ精神性の高さ、清冽さは、ヨーロッパ的な近代に汚染された事の無いもののみが持つ無垢の純粋さなのである。鏡花が願った神々とは、天照の神道以前の古代の山や海の神々であって、心の清さ、明けらかさを何よりも尊んだ。ところで、鏡花が生きた明治から大正、昭和に至る時代とは、夏目漱石が描いたごとく、金権が恥ずかしげもなく闊歩する世界であった。金権は同時に権力と色恋を愛した。純愛を商品として弄ぶのが至上の悦びと考える不心得者が幅を利かせる世界であった。鏡花は、そのような近代の汚辱にまみれた世界に対抗すべく、古き神々の美しき面影を求めて花柳界に沈潜した。こうして『滝の白糸』・『日本橋』のような旅芸人あるいは芸者に題材を取った世界が出現するのである。

 しかし、日本の近代化の過程にあって、鏡花と彼が信奉する古き神々の世界は狭まる一方であった。そこに滅びて行く民族としての、恨みと諦念があった。鏡花に「頽廃」はない。かれの評価は(4)である。

 泉鏡花怪奇小説花柳界に題材を取った人情ものだけの作家でないのは、例えば『歌行燈』などをみれば明らかであろう。ここでは谷崎に似た様式美の独自の達成が見られる。ここでは男女の愛を取り持つのは、身に付けた自らの分身とも云える技芸なのである。男女を近代主義的美学の観点から「生き生きと」して描き出すのが唯一の美学であるのではなく、より普遍的な様式と技芸の至聖的高揚感のうちに描くと云う技法を鏡花は編み出した。谷崎の様式美が「月並み」であることを基本とした、おおどかな平安的王朝的な美学であるとすれば、鏡花の世界は至芸に達したプロフェッショナルなもののみに受肉化される、この世ならざる超越の美なのである。

 泉鏡花に於いても、日本における近代とどう遭遇したか、と云うよりも、近代とは異なった、あるいは西洋近代を相対化してやまない、価値の多様性の問題を提起したと云う意味でも、近代を超えた泉鏡花は海外に紹介されること少ない国際的な観点を備えた偉大な作家なのである。

 泉鏡花の評価は、デカダンスに関しては(4)である。
 彼の、魂と精神性の純度の高さは、西洋文明の汚染を寄せ付けなかった。彼には微塵も頽廃の影はない。