書記性と口承性と・Ⅱ アリアドネ・アーカイブス
書記性と口承性と・Ⅱ
2010-10-08 20:13:47
テーマ:文学と思想
矢向正人先生の後期の”東洋における舞台芸術”の授業は歌舞伎座の演芸場としての機構や各階各部位の客席からの見え方の紹介から始まり、主要な舞台機構回り舞台、セリ、花道等の役割を演目のビデオを通じて紹介するわかりやすい授業である。先生は東工大で学位を取られたのであるからバリバリの理系人間かと思いきや、解体前の現歌舞伎座に100回以上も通われたとかで、日本芸能の理解者でもあるらしい。さらに経歴をあとで調べると後期ヴィトゲンシュタインの思想に準拠した美学を構築されたとかで、流石にこの問題には現在は踏み込めない。
国立劇場の舞台機構の紹介に始まり、次は出雲阿国に始まる歌舞伎史の簡単なお浚いのあと、立ち役、敵役等の役回りの紹介、時代物と世話物の類別はまるでオペラ・セリアとオペラブッファの区別のようである。衣装や髪型、隈取と呼ばれる化粧仕方の紹介で終わった。ただ、所々に散見する先生の見識、――歌舞伎を江戸三百年の平和が生んだ国風文化の華であったこと、また表現の過剰、また延び縮みする登場人物の自在性などという歌舞伎の特性論には、あっと声を上げそうであった。
するつもりはなかったが、先生の講義への敬意を表する意味で、少々ピントの外れ気味の質問をさせていただいた。表現の過剰性といういう意味でのオペラとの類似性と共時性、登場人物も含めた演劇的空間の自在的伸縮性についての、オペラとの奇妙な一致点について感想を求めた。
ちょうど時間になっていたので、1600年代初期の出雲阿国とモンテヴェルディにおけるヴェネツィアオペラの開始に言及されて終了となった。まずは目出度しの思いで帰路に就いた。
さて、前書きが長くなったが書記性と口承性という問題の視覚で考えていたことは、近代の書記性言語の卓越によって失われた、話し言葉の可能性についてであった。去年の芦川紀子先生のオペラ史の授業で私を最も驚愕させたのは、見る―みられるという二元性において語られた言語を超えた、話される言語、あるいはそれを超えて歌うことの人間にとっての意義についてであった。
大学院の授業の一環として進めているコンサートにおいて用意したリード文に、私は次のように書いた。
”なにゆえいま、モーツァルトのオペラなのか。三大オペラ”フィガロの結婚”、”ドン・ジョバンニ”、”コジ・ファン・トゥッテ”を例にとって、市民社会勃興期のモーツァルトオペラが意味するものを論文執筆中です。
また人が歌うことの意味、オペラではなぜ人が歌う劇なのかと言う当然の問いを、長らくオペラファンは忘却してきました。モンテヴェルディの最初のオペラがオルフェウスの記憶に奉げられた様に、フィレンツェ郊外のアカデミアに集まったルネサンス人の脳裏には古代ギリシア人の神ならぬ会話は通常の言葉ではなく、きっと歌うように話されたに違いないと言う確信がありました。そうしてこの世ならぬ出来事を歌うためにオペラがヴェネツィアに誕生したのです。
モンテヴェルディのオルフェウスが歌の力によって死に拮抗しえたように、この世ならぬものを表現するためにモーツァルト三大オペラによって西洋音楽は頂点に達するのです。”
オペラは総合芸術であるといわれる。それは規模においても、また人間的な五感の全てを用いるという意味でもそうなのだが、それだけではあるまい。言葉か書き、語られる以前の、言葉が生きられた局面における知の臨場性ということに我々を導いていくような気がする。これは知性に対する感性の優位などということではない。総論的な言い方に単純化して言えば、プラトン以来の二千五百年に及ぶ”みること”の卓越性において準拠した西欧的な知のあり方に対する反措定なのである。
認識論、つまり西洋において固有に発達した知の技術とは、対象の全容を知るためには、対象との間で生きられた経験が終了し、過去のものとなった後でなければ厳密には成立しないのである。マルセル・プルーストは恋愛を例にとって、我々が愛や恋を現在進行形の時制で生きているとき対象の全容はぼやけ詳細は不鮮明であることを不思議な述懐を込めて述べている。換言すれば恋する対象の容姿を正確に思い浮かべるようになるのは愛の終わりを経験した後である、というのである。端的に言えば、西洋的認識における知とは何がしか時制が過去形になった時の知、現在時の卓越において成立した知に過ぎない、と言っているのである。愛を生きているとき客観的な知などは成立しない。ここから知性が手に入れることが出来るのは生きた生の対象ではなく、対象性の抜け殻だけである、というプルーストの有名な言説が導かれる。
言葉が生きられるとき、その言語は普段我々が使っている日常言語とも学的認識における言語の厳密性とも異なった言語が成立しているのではないだろうか。かかる経験の固有さは今までも幾たびか芸術的経験や愛の経験として語られてきはしたが、論理や知性に対する感情や感性の優位という通俗的な言説でお茶を濁してきたと言ってよい。しかしそれは臨床的な知というという新たな知性の成立を意味しているのではないのか。個という人間の実存と肉体という”この日、この時”の固有な時制的・局在的あり方に準拠した具体的な身体的な知、つまり肉体もまた一個の高次化された知性の一種であるという理解が必要な段階に来ているのではないのか。
精神病理学における心身の互換的反応、これは肉体的疾病に対する精神的要素の卓越性を指摘するだけでは十分でない。精神的な疾患が身体的な震えや外的な皮膚病もどきの外傷として現れるとき、単に精神の補償的な意味を認めるだけでは不十分なのだ。肉体はより高度の知性をもって精神の衰えに関して、震え、脱毛、肉体的な痛みやかゆみといった強力な信号を通じて、衰え行く精神に叱咤激励を与え励まし続けるのである。キリスト教や西洋的理性の名によって何千年にもわたって貶められた肉体こそ、最高の叡智だったというイロニーがここにはある。