アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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御言葉が言葉(文学)となり・・・――ゲーテ『若きウェルテルの悩み』その1(2014.6)

御言葉が言葉(文学)となり・・・――ゲーテ『若きウェルテルの悩み』その1(2014.6)
2019-08-24 22:13:40
テーマ:アリアドネアーカイブ

原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505539227.html
御言葉が言葉(文学)となり・・・――ゲーテ『若きウェルテルの悩み』その1
2014-06-30 20:40:10
テーマ: 文学と思想



  御言葉が言葉(文学)となり受肉化の思想の元で逆転した現実となる、あるいは反現実となる!――つまり言語は後追い的に事物に記される記号やサインのようなものとして名付けられるのではなく、観念が反対方向に不可視性としての反現実を形成する、なぜなら御言葉とは眼に見えない卓越によってこそ意義を有するのであるから。かかる日本人の常識的なものの考え方とは正反対の方向において語られるヨハネ書に代表される特異な言語観こそ、言葉の卓越を語るキリスト教の最大の特色ではないかと考えている。20世紀と21世紀における最大のキリスト教国家であるアメリカ合衆国が軍事外交において神の名における正義を語るのは偶然ではない。この問題はさておくとしても、キリスト教がどの段階で、かくも特異でもあれば異様でユニークな言語観を生みだしたのか、その起源はヘレニズム経由のギリシア思想にあるのかヘブライズムに元々備わっていたのか、それは簡単には詳らかにしえない。

 ヨーロッパ近代文学の先端を開く観念小説、――ゲーテの『若きウェルテルの悩み』の筋書きを紹介するのは今さら気が引けるが、フランス革命に先立つこと15年、その先駆であるアメリ独立運動とほぼ同時期に執筆されたドイツの文豪ゲーテの初期代表作の一つを読みながら感じたのは、将に、言語による卓越の典型であるキリスト教的世界観とヨーロッパの近代小説が生みの苦しさの中から生まれ出て来る姿であった。青年ウェルテルは単なる純情で世間知らずの青年と云うのとは少し感じが違う。小説の最後で、ベッド脇の子机の横で発見された遺体の描写は、作者の主観的な一貫して変わらない自らの小説のヒーロ―に対する無条件の好意にも関わらず、無残である。こめかみから銃弾によって貫通された頭部は破壊された脳が露出しており、苦悶のあまり床を転げ回った形跡がありありと認められ、しかも未だ完全には絶命していない、と云うのであるから早く死なせてやってよ!と言いたいほどである。ゲーテが生みの親として自らの主人公に対して子煩悩ぶりをを演じている割には作家としての文体は意外と冷徹でもあれば冷静でもある。

 人間ゲーテの眼を透してではなく、作家の文体の眼を透して読むとウェルテル青年とは、純粋だと無垢だとか言う決まり文句で云い尽される存在ではなく、「火のないところに煙を立てる」青年のひとりであったことが分かる。最後の決定的な自殺事件にしても、自分の意のままにならぬロッテのその夫に向けた、死んでやる!という子供じみた復讐であったとまでは言えないけれども、明らかに青年の死がこの若い夫妻に永遠に癒されることのない傷を与えたのは間違いないだろう。むしろこれから生きていく長い人生の頸木を引きずずられなければならなくなるのは、この善意の若い夫妻の方なのである。悲劇と云う形式で、預言者たちの受難の姿を通じて罪概念を捏造すること、御言葉が恩寵の中でおぼろげに輝く罪概念を誕生させて生き残った者たちを呪縛し続けること、そこにキリスト教固有の、或いはヨーロッパ文化の支配の構造を見たヴァルター・ベンヤミンの幻視者としての眼差しは的を外れたものではないだろう。

 この青年は口では子供の無邪気さを讃え、自然のおおらかさを賛美するけれども、実は言葉によって現実を否定し乗り越えようとした旧約の預言者たちの末裔なのである。この青年には学があるので色々に言うけれども、本当は世俗的なものの存在が我慢ならないのである。それが証拠に青年が新しい土地で出会う人間たちに対する評価の一様の冷たさはどうだろうか。特に某伯爵や村の孤独な青年を異常に持ち上げる時ですら、それは彼らに対する本質的な共感や好意ではなく、俗世間の下品さを攻撃するための口実、戦略的な扱いなのである。だからこの小説を読み終って、青年が自殺を遂げて多くの嘆き悲しむ人はいたと書かれているけれども、本当の意味で彼の味方をしてくれる人はいなかったな、ひとりぼっちだったな、という感慨を持つのである。

 この小説の最大の名文は本文には無くて、扉の裏に書かれた「編集者の言葉」、その中の、この小説を「近しい友達を見つけることが出来ない青年に捧ぐ!」とある個所だろう。ゲーテは近代の思想が多くの青年たちの魂を惹きつけたのは良いのだが、その挙句、多くの夢破れた青年たちの群像を生みだしたことを知っていた。ゲーテはそんな青年の世間知らずや常識知らず、純粋さや無垢さと云う宗教的情熱の如きものの裏側に隠された利己心や自尊心の冷酷さなども重々承知の上で、自分だけは見捨てないよ!と、暖かい眼差しを伝えているのである。それらの青年を死に追いやった陣営に彼自身が属していることを知りながら、時には人はとぼけなければならない、辛くて辛くてたまらない時はとぼけてみることも許されているのだ、と云わんばかりの居直り方なのである。時にゲーテ、25歳、大人びていたものである!

 『若きウェルテルの悩み』がドイツ文学史を超えて、ヨーロッパ精神史、もっと普遍化すればキリスト教の歴史の中に画期として位置づけられるとすれば、キリスト教に固有の思想である言語の卓越において御言葉を言葉に変じ、文学に変え、そして現実(あるいは逆現実)として受肉させると云う思想史的な過程を、封建的な遺制が残存する社会から近代社会に変貌する過程で、キリスト教がどのように受肉化の思想を変化させ貫徹させたか。つまりルネサンス以降の近世・近代とはキリスト教の衰退を意味するのではなく、世俗化現象とは反宗教的な事象であるるどころが新たな時代の変化に応答する世俗化と云う名前のキリスト教固有の言語の卓越に定位する受肉化の思想の自己展開であること、アメリカ独立戦争人民主権フランス革命の自由・平等・友愛の思想ですらも、キリスト教的言説からの解放であるどころか、新たな形で生まれ変わりつつある柔軟性に富んだ言葉の卓越による宗教の変遷の歴史の一齣でもあり得ることを示唆しているのである。もっと言うならば、近代科学や現代技術文明ですら、マルクーゼやイリイチらが主張したように、受肉化の思想の一様態なのである。ナチズムによるユダヤ人の最終的解決の思想と南京の虐殺が異なるのは、それが苦しめることなく大量の死を積算できると云う、温かい思いやりの思想めいた考えがそもそも発案者側にあったと伝えられていることである。核戦争と云わなくても、一連のテロや原発事故ですら黙示録的な風景の現代的再生、その受肉化であったかと、錯覚しそうなほどである。