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プラトンの”饗宴”を読む――プラトンにおけるエロース論の諸相とギリシア民主制の終焉 アリアドネ・アーカイブス

プラトンの”饗宴”を読む――プラトンにおけるエロース論の諸相とギリシア民主制の終焉
2010-10-10 22:28:57
テーマ:文学と思想


プラトンの”饗宴”を読む
――プラトンにおけるエロース論の諸相とギリシア民主制の終焉――

 
1.背景:紀元前416年、アテナイの悲劇作家アガトンの作品が上演され、コンクールで優勝したので、アガトン邸で祝宴が開かれたことがあった。この年はペロポネソス戦争開始から15年目で、アテネ、スパルタの軍事的均衡による“ニキアスの講和”から5年目であり、かの悪名高き“三十人委員会”に先立つこと12年、ソクラテス裁判に先立つこと17年前である。“饗宴”が演じられたときプラトンは11歳、ソクラテスの死を見送った時は28歳程度と考えられ、アテネ民主制はペリクレスによる全盛期を過ぎ、独裁制衆愚政治へと頽落の道を辿る多感な時代に青春期を送ったことが想像される。プラトンの高名な“饗宴”を単なる観念論的な論議に終わらせないためにも、時代背景の確認は重要である。

2.“饗宴”におけるプラトンのエロース論の諸相:
ことは何故プラトンは対話編に拘ったのかということにも関連するが、中立的な対話形式に託して様々なエロース論が開陳されている。
パイドロスの語るエロースとは出生に関して最も古き神であり、カオスが生じたのちにガイアとともに生じたとい言う意味ではオリンポスの諸神に先立つ偉大な神なのであり、生と死の根源に位置するラディカルな神なのである。それゆえ一旦この神性が人間に宿るとするならば生と死を超越する。ここから“神がかり”現象が説明される。恋されている人間よりも恋する人間の方が“神がかり”の精神にあるといえそれゆえ、神の如き人、と呼ばれるのである。エロース賛歌の起源論といっても良い。

一方、パウサニアスのエロース論は、エロース賛歌も無条件ではなくウラニア・アプロディテとパンデモス・プアプロディテの両者があり、前者は天上に由来する高貴な女神であり、後者は万人向きの低俗な人間的欲望の別称にほかならない。プラトン哲学における精神的なものと肉体的なものの二元論的な構図の萌芽的原型を見ることができる。

他方、医師エリュクシマコスの意見はパウサニアスの言う様に、エロースに例え二つあるとしても、音楽に措けるが如くそれを階調に齎すような存在、つまり医者のような相互を監視、誘導するものの存在、中間者が不可欠、ということになる。
次にアリストパネスのエロース論であるが、これは古来より想起説としてイデア論まで影響を与えた有名な言説である。人間の愛の起源を、切り離された自らの半身を求める“自分探し”の物語の、歴史上最も早い時期の事例なのであり、この言説が優れているのはエロースの根拠を、人間自身の自らの実存の根拠としても語った、ということなのである。そういう意味では遠く20世紀の実存主義の最も早い時期の先駆現れとも言える。

アガトンのエロース論は次のソクラテスのエロース論への繋ぎと考えて良い。パイドロス以下の各自のエロース論を総括しながらエロースという技術を芸術として、芸術という名のポイエーシスとして語る。エロースの根源性に比べるならばアポロンもムーサもペイパイトスもアテナもそれぞれの技術に関しては弟子であるという先‐後関係が成立する。

さて、そうしていよいよソクラテスのエロース論の登場となる。ただプラトンはここでもひと捻り加えてそれをソクラテス自身の、ましてやプラトン自身の言説としては語らなかった。所謂ディオティマのエロース論として語ったのである。

ディオティマのエロース論の卓越性は、それを死すべきものと不死の者の中間、ダイモンとして語ったことである。エロースは愛の神アプロディテが生まれた祝宴の日にポロスを父に、つまり才能の神とペニア、つまり貧困を母として出生を受けた。エロースは単に美的な対象ではないのである。エロースとは美しいものへの恋なのである。エロースを対象論としてではなく、主体的なモチーフとして語っている、ここに注目すべきである。

さらに驚くべきは次の点にある。ディオティマも持ち来らす秘儀とは、美そのものを観取する技術のことだというのだが、美そのものを観取する奥義とは、ソクラテス自身にも身につけることができるかどうかわからないほどの秘儀中の秘儀であり、超人間的な技術と感性が必要とされる、とされる。ここでは詳述されていないが後年の壮大なプラトンイデア論の展開を彷彿とさせる論議であることは明らかであろう。

3.もう一つのエロース論――語り終えられなかったアルキビアデスのエロース論
 “饗宴”のプラトンの全著作中に占める位置の特異さは、それが後年の想起説やイデア論を端緒の形で語っていることにだけあるわけではない。この著作は後段に至って、アルキビアデスの登場を待ってエロース論の諸相を相対化して止まない起爆剤を準備して、沈黙と酩酊の余韻嫋嫋のうちに終わる。結局語り手アリストデモスの言うところによると、このワルプルギスの夜とも言うべき一夜を明かすことができたのは、邸主アガトンとアリストパネスソクラテスその人の三人だけであったという。宿主アガトンを別とすればこの悪魔的に破壊的な夜を通過し得たのはソクラテスを除けば、終始ソクラテスを相対化して止まなかった批評の人アリストパネスだけだったことは、如何にも象徴的である。

 ところでアルキビアデスとは誰なのか?古来“饗宴”においてプラトン思想の痕跡を求むるあまりプラトンの研究者たちは何かを読み違えて来たのではなかったか。ソクラテスを論告・論述において徹底的に追い詰め、その絶対的とも言えるソクラテス流観念論を相対化して止まないアルキビアデスとは誰か?従来ソクラテス=プラトンとするあまり見逃されてきた視点とは何か?“饗宴”を書いたプラトンは当時43歳前後と考えられ、もはやかっての無傷な純粋無垢の哲学青年ではない。この作を著述した年とは第一回シケリア遠征の時期に重なり、彼のライフワーク“哲人政治”の理想を、単に観念的にではなく実践上の課題として実行に移しつつあった時代である。いわはペリクレス時代以降のギリシア民主制の紆余曲折を極めた時代の証人として、無残な政治的挫折と思想家としての無能さを骨の髄まで味わい、なお且つ自らの政治的理想を熱く追い求めて止まないギリシア哲学史上の稀有の天才が渾身の力を籠めて、自らにとってのソクラテス体験とは何であり何でなかったかを語ろうとしているのである。

 ソクラテスの自己認識に関する誤りとは、自らが当時顕在化しつつあったデマゴギー衆愚政治の観念的反対物に反転することによって恣意的補完物と化し、デモクラシーの崩壊に対して有効な防御策となりえなかった点にある。アルキビアデスは酔いに任せて勇気ある行動人であるとともに清く正しき人でもあるソクラテスを”非難する”のだが、素面では決して言えないソクラテス門下生としての苦渋が滲んでいた。しかもソクラテシズムとも言うべき純粋無垢ともいえる思想の絶対性を、“ソクラテスの弁明”や”パイドン”にあるような死と実存を持って証明されたとき、それは若きプラトンの心の中で訂正することのできない存在論的絶対という苛烈な姿を取った。プラトンの著述が何故“対話”という技法を取らなければならなかったのか、その理由がいま初めて明らかにされたのである。