アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映像と原作の間、映画と小説――『ドグラ・マグラ』のメタ文法の世界 アリアドネ・アーカイブスより

映像と原作の間、映画と小説――『ドグラ・マグラ』のメタ文法の世界
2018-07-14 08:35:29
テーマ:文学と思想


 限られた残された時間の中で、――例えば最近偶然から、六十年代の松本俊夫鈴木清順の古い映画を観て、そろそろこの時代のアヴァンギャルドや映像派と呼ばれた世界についても、少しは齧ってみるかな、と思ったわけです。
 鈴木には映像表現に於いて、モノクロームを活かした、カミソリのようなシャープさがあります。それが八十年代を越えると、混濁してきて、エログロナンセンスの歌舞伎的世界に近づく。これを良しとするかどうか、それは私には評価できない。ただ、鈴木の映画世界を一流のものとはしがたい、感受性の未発達も感じてしまう。こうしたマイナス点を評価に入れても、やはり鈴木の何本かの映像世界は、怖い!
 松本俊夫の映画世界は、鈴木と同様に、映画世界と云うよりも、映像世界と云う方が相応しい。つまり作家の個性や才能と云う次元ではななく、映画でこそ効果が発揮できるような作品作りがなされていると云うことだ。
 鈴木清順については、前に書いたから省略する。
 面白いのは松本俊夫の夢野作『ドグラ・マグラ』の映画化である。映画を先に見て原作を読んだが、原作の方が世界は多面的、多元的で、知識や幻想の豊穣さを経験できるが、映画の方が優れているように感じた。原作の方では、最後に、ミステリー物の常套手段として、作者による謎解きがあるのだが、これが案外つまらないのである。
 夢野の同作を散々に貶したが、最後まで分からない疑念点は残る。それは大方の読者の予想に反して、語り手「私」は明らかに精神異常者なのであるが、その「異常さ」について作者がどの程度自覚的であったかが分からないのである。
 誤解のないように言っておくと、「私」が精神異常であると決めつける理由は、小説で語られたような「物語」で語られた事象や事実の「異常さ」の故ではない。つまり語り手「私」の基調としてある、リアリティに対する不感症が分からないのである。分からないとは、物事の自然さに対する不感症と云うべきか。物語作者は、ロマンと云う荒唐無稽の形式で何を語ることも自由で、空想的世界も奔放かつ自由、無責任でよろしいのだが、かかるリアリズムであるにしろロマンティスムであるにしろオカルティズムであるにしろ、サド・マゾ・グロテスクの世界であろうとなかろうと、かかる表現的世界を根底で支えている感性の自然さについて語ることは、これとは根本的に次元の異なる世界なのである。
 こうしたメタレベルの感性の感じ方や不感症のレベルが夢野の作家としての基本姿勢としては読み取れないのである。
 他方、松本の映像世界に於いては、母親を「もの」として見る無機性は小説以上に表現されている。これは映像的世界と言語的記述的文学の世界の違いであって、松本の作家的感性の枠を超えて、「表現されてしまう」のである。
 その結果松本の映画世界は、作者による謎解きがないだけに、夢野が知らない夢野の怖さを表現しえていたように思う。

 夢野の伝記的事実を調べてみればもう少し分かると思うのだが、家庭人としての夢野にはある種の発達障害、感情と情操教育の不全があり、それが彼の意図せざるところに於いて作品世界に反映しているようである。それが彼の長所にも短所にもなっているように思う。
 天地開闢曼荼羅鏡のようにも見える夢野の『ドグラ・マグラ』の世界、複雑怪奇であるのはその描かれた精神病理の世界ではなく、それが描かれた作家の根底にある感性の不自然さについての評価なのである。

 この点は、大衆芸能や大衆文藝に於いて、作品がどの程度人格を反映するのか、と云う問題になるのだが、私には手に余る問題である。例えば勧善懲悪ものを無批判に受容する感受性の在り方も、やはり精神の偏り方の一形態と読み取れるからである。夢野の感性には規範的な倫理的な意識と、通常親和的な関係性になかに育成された感性の自然さの不在と云う、二極が交じり合っているように見える。


(余談)
 夢野久作は福岡に生きた作家である。『ドグラ・マグラ』には、私が住んでいる西新を中心に、姪浜、鳥飼、今川橋、それから中州、箱崎など、いずれも私の徒然に逍遥する場所や地名が頻出して、懐かしいことこの上ない。ドラマのクライマックスのひとつである件の場所を歩くたびに夢野の作品を思い出すかもしれない。
 あと二三作、郷土的な関心からも、読んでみようか、と思っている。