アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェラール・フィリップの『花咲ける騎士道』と『危険な関係』 アリアドネ・アーカイブスより

ジェラール・フィリップの『花咲ける騎士道』と『危険な関係
2018-07-18 21:57:54
テーマ:映画と演劇

 


 福岡大学の「映像に見るヨーロッパ文化・フランス語圏」は二週続けて、ジェラール・フィリップの『花咲ける騎士道』と『危険な関係』である。連続公演と云うのが面白い。
 7月10日の『花咲ける騎士道』1952は、時は18世紀、ルイ十五世の時代、王朝文化華やかなりしころのお話である。もっとも次のルイ16世の時代にフランス革命が勃発して一族諸共ギロチンの露に消えるわけであるから、滅亡を知らない王朝末期の者たちの夢の名残りとも云うべきだろうか。
 しかし映画はそのような詠嘆的な造られ方はしていなくて、最初の世界大戦とも後世語られることになる七年戦争を背景に、一見、フランスが勝ったかのような誤解を与える描き方がされており、それは娯楽映画であるから仕方がないともいえよう。
 若き日のジェラール・フィリップが、青雲の志を秘めて王妃との恋を夢み、散々のすったもんだの挙句に、身近な女性の良さを知ると云うものである。つまり王女を婚約者に選ぶと云う児童文学じみた発想があって、この段階では恋とか愛とは、環境や身分、経済的な力と同一視されて現れてくるのだが、身近な女性との恋物語で終わると云うことは、固有な性格をもつた固有の存在者の美しさを見出すと云う、アイデンティティの自伝的発展史であるとともに、フランス革命によつて個人の名が名指されるようになる、ジャン・ジャック・ルソーの時代の到来とも読めて面白かった。本質はチャンバラ劇に過ぎないのだが、そう云う風にも見える、と云うことである。歴史の全盛期を、それもフランス映画の第二黄金期を代表する映画スタージェラールが象徴的に、生き生きと演じていたのが印象に残る。後世この映画を観るもの達は彼が若死にすることを知っているだけに、歴史活劇の光彩陸離とは裏腹に、哀愁を留めて象徴的な映画である。
 『危険な関係』1959は、ロジェ・ヴァディム監督による現代フランス社会における翻案である。筋書き、登場人物の設定等、ほぼ原作を踏襲しているが、大きな違いがある。同作はヴァルモンと云う大変に魅力的な性的?悪党が出て来るのだが、同じような身内の暴力沙汰で唐突な死を遂げると云う意味でも同じなのだが、大きく違う。その違いは鑑みるに、映画のヴァルモンは普通の家庭のおじさんとなって死ぬのである。散々、大ぼらを吹いてこれはないだろう、と思う。
 結局ラクロの『危険な関係』1782はフランス革命を7年後に控えた時代に書かれた華やかなりしころの王朝の愛欲と頽廃の物語なのである。そういう内容であるから、かかる背徳ゆえにこそフランス革命は起きたのだと云う、実しやかな説明がまかり通るのだが、むしろ、主要な登場人物たちがルソーの本を愛読しているように、フランス革命を予見したと云うよりもジャコバン主義の末路を予見した作品であったと、二百年以上も経過した今日から見ると思えてしまう。貴族階級出身のラクロが王朝的ロココ的な体裁をとりながら、華やかな王朝文化に忍び寄るフランス革命の死と影を描いたと思えば良いのである。事実、革命が勃発するとラクロは革命の党ジャコバン派に属し、広報と軍事知識を通じて革命政府に貢献したいと望んだようである。しかしルソー理解に於いてもフランス伝統の理解に於いても平民派としてのジャコバンとは一体化できなかったであろうし、疑わしき人物として二度に渡って投獄されて嫌疑を追及されたようである。フランス革命の挫折後もナポレオンに評価されひと働きを夢みたようであるが、肉体の寿命が政治家としての大成を許さなかった。試みた人生上の作戦は多く、その多くが実を結ぶことはなく、結局、余暇に描いた唯一の書簡体長編小説『危険な関係』のみが文学史上に燦然と輝く傑作となったのである。後世の文学者としての評価を知ってもラクロとしては不満足なことだったろう。
 『危険な関係』とは、ルソーの子供たちの悪さ加減を書いた本である。悪漢ヴァルモンの師匠であるメルトイユ侯爵夫人とは、革命派におけるロベスピエールであると思う。ヴァルモンとは、革命劇の酷薄な過程で脱落していった修正派の象徴なのだろう。正統派たる教条主義とそれについていけない修正派との間に起きる過激な「内ゲバ」――つまり内向きのゲバルトがフランス革命を内側から蝕み崩壊させていったように、この映画もまたそれをなぞる様に、悪者たち――つまりルソーの子供たちの死もしくは社会的失墜と制裁によって終わる。
 映画は勧善懲悪的に、既存道徳の立場から指弾され、それを受け入れる形で――死ぬにせよ生き延びるにせよ、全面的敗北と云う形で終わる。しかし既存の道徳的価値の体系の裁定を受け入れると云うことは、戻るべき場所、魂の安全圏があったと云うことを意味する。
 しかし原作のヴァルモンは単純ではない。革命の正統派たるロベスピエールことメルトイユ夫人に宣戦布告し、かつ自分が人生を生きる上で最も大事なものを知ることなく下水に流したことからくる喪失感は道徳主義的な敗北と言う意味を超えて根本的な実存のレベルでの虚無感に直面させたようである。何か生存の根元のところにある生きようとする意欲を破壊してしまったようである。生きたいと言う意欲の欠落は、決闘の場であえない最期を遂げると言う唐突ともいえる悲劇的結末を導く。単に遊び人だから武芸は苦手であったという意味ではなく、何か戦闘意欲そのものがなくなるほどの根本的な喪失感があったと理解すべきなのである。
 もちろんブルジョワ道徳観の立場からの裁定をも受け入れる器量は持っていただろう。しかしそれだけであるなら思想的には帰るべき場所があったと云うことになる。と云うのも、映画では目に見えない裁判官として登場するブルジョワ道徳観こそ、結社としてのメルトイユ+ヴァルモンが共通の根本的な悪と措定し、且つ立ち向かった当の対象であると認識していたのだから。人間の自由には必ずしも基づかない、彼岸の超越的対称たるブルジョワ的道徳観や宗教的世界が持つ規範的価値観の前の跪拝するなどと云うことは、彼らとしては考えられないことだったである。
 既存の道徳観によっても、まして宗教的な倫理観に寄りかかって自分の生を、そして死を評価し総括することは許されない。
 ラクロの『危険な関係』に於いては、ヴァルモンもメルトイユもツールヴェル夫人も、さらにはセシルやダンスニーですらもも、少なくとも昔あった場所に帰ることは許されないのである。

 映画『危険な関係』について触れること余りにも少なかった。映画としてはそれなりによく造られた映画であるが、ヴァディムの文学理解の程度が映画の限界となっている。映画は映像の世界だから、と云う理由は通用しない。古典を読むとは、その古典自身の価値とは別に、それに係るものの実態が意図せずして滲み出てしまうものなのである。古典と云うものは残酷である。
 映画俳優陣について言っておくと、古い映画世界を代表するジェラール・フィリップの最後の映画となった。その彼がヌーヴェル・バーグを代表するジャンヌ・モローの唆しによつて自滅の道を歩み、最終的にはこれもまたヌーベル・バーグを象徴する男優、ジャン・ルイ・トランティニアンに殴り倒されて息絶える場面は、映画産業史の出来事としても象徴的である。
 ヴァディムの文学的理解の浅さの限界は、ヴァルモンの深さを捉えそこない、ツールヴェル夫人の背景にあるはずの古典フランスのモラリストの文化の重みを敬意をもって描けなかった彼の軽さにこそある。