野外シアター『怪物はささやく』 アリアドネ・アーカイブスより
野外シアター『怪物はささやく』
2018-07-26 11:13:16
テーマ:映画と演劇
米英風のアングロサクソニカルなお話、古典的児童文学の定型の韻を踏む、と云えば大体お分かりのことでしょうが、癌を患っている母親の死と云うドラマティックな設定を別にしても、子供の母親からの自立を描いたという意味でも、自己発達史を描いたと云う映画ですね。母親は必ずしも死ななくても良いのです。
とは言え、そうしたほうが伝わりやすいでしょうし、子役が出てきて一生懸命演技する映画ですから、結局泣いてしましますね。
都心はアスファルトとコンクリートジャングルの熱気冷めらやぬ夏の黄昏時、海の中道の風の通い路に潮風に吹かれて、気温もニ三度低いのでしょうか。海から浸透してくる冷気に晒されて、体感温度はそれ以上の心持の良さです。
恒例のように、夏の二か月間、リゾートホテルの芝生広場の上で屋外シアターが始まりました。日没は七時半を大きくうわまる頃、花火が上がって、拍手があっていよいよ映画が始まります。各自持ち寄ったシートの上にクッションやバスタオルを敷いて、寝転がっても観ることができます。映画は『怪物はささやく』、原作はA Monster Callsと云うのですが、上手く訳したものですね。実際はささやくなんてものではなく、脅かすようにどすの利いただみ声なのですが、観終わってみれば「怪物の囁き」と云う感じが相応しい映画と言えるでしょう。
先ほども言いましたが、末期がんを患った母と子がいます。子供は10歳頃でしょうか。学校ではいじめられていて、病気の母親と二人暮らしでは落ち着いた子供部屋も与えられていません。狭い家なので場所もないのでしょうけれども、心にも余裕がないのです。それで、つい心のなかの世界へと逃避し、想像の世界と現実の世界を行ったり来たりしています。
そんな彼の生活に変化が起きます。母親の治療が限界に達して、これ以上を望むのであれば自宅療養を諦めて入院して先端的な治療を受ける必要があると云うのです。それで母親は病院へ、子供は祖母の家へと引きとられて行きます。その祖母と云うのが、普通のお婆さんと云うのではなく、キャリアウーマン上がりのやや神経質そうな老婆で、少年としては昔から好きになれないでいるのです。このお婆さんを演じているのが、シガニー・ウィーパーと云う一世を風靡したことのある女優さんで、少しもお婆さんらしくなくて、演技もしなくて、淡々と戸惑いと躊躇いの所作だけが映像には写されているだけなのです。この巧みなる演技を俳優が殺すと云う無演技が、もう一人の子役の最大限パワフルで喜怒哀楽をもろに出す演技と釣り合っているのです、静と動と云う感じで。通俗的な内容なので、二人とも過剰な演技をしていたら観る方も疲れるでしょう。
少年の心の中に生じる変化だけではなく、お婆さんの躊躇いの表情に浮かぶ感情の変化だけを見ていても、この映画の大体のことは分かります。この母親は、生活や態度が全て秩序だっていなければならないのです。ですから画家になることが夢だった娘のとの間に相性と云うものはそれほど強くはなかったのかもしれません。また娘が選んだ父親と云う人も、映画に少しだけ出てきますが、家族のありふれた幸せを望む人間で、夢やファンタジーとは無縁だし、秩序正しきことを良しとする老婆の知的な雰囲気とは無縁で、気に入られてもいなかったのでしょう。いまは別の女性と結婚して遠いロスアンジェルスに住んでいると云うのです。彼が映画に短期で登場してくるのも、母親の死が間近いという理由だけであるからにすぎません。
現実主義的な老婦人は、今は末期癌を患い、若い頃から夢想癖のある娘から孫を切り離したいと思っている。夢想癖は追いつめられた母と子の共通の絆になっているのだから、それから切り離すことは大変に難しい。その難しい役割を、かって美大志望の母親が自分のために造った絵本のなかに描かれた、櫟の木の精霊であるモンスターが救ってくれる、と云うお話なのです。
私生活上においても見捨てらえれたかのような母と子の侘しい生活、加えて少年は学校にも祖母をはじめとする親戚知人の間にも関係性を気づけないである。いじめられることも辛いであろうし、無視されることも辛いであろう。少年が選び取ったのは、被虐的な性格を是認することで、苦痛のなかに自らが生きていることの証を求めようと云う、倒錯した子供なりの論理なのである。その被虐性は、家庭内の離婚や、頼りにしていた母親を何時は見失うと云う苦痛が根本にあって、彼の精神的肉体的、社会の内外における彼の行動パターンを規定しているのだが、他方ではよい子であらねばならないと云う中産階級のモラルも潜在的に働いている。
怪物君が語ってくれる三つの物語とは、勧善懲悪的な物語とモラルからの離脱である。死に逝く母親もまた、気兼ねなく喜怒哀楽の感情を爆発させても良いと、子供に示唆を与える。少年は通過儀礼の如く、破壊活動に身を投じ、そして最終的には破壊活動の極限である母親の死を受け入れる。
少年に付き添い、彼の感情教育をしてくれた怪物とは、かって母親が自分のために書いた絵本のなかの登場人物、病室として利用していた家の窓から見える教会脇の櫟の木の化身であった、と云うのである。
人と人との間に関係性を築くことができなければ言葉は非力である。言語を補うものとして、この映画ではイマージュ、色彩感覚、想像の世界が水先案内を務める。
言葉の回復は、祖母の揺蕩う感情のなかに少しづつ現れて来る。祖母の家の居間の大事な調度品を破壊した日、夜なかに聴こえてくる微かな音が昔の娘が孫に絵の具の使い方を教える映像であったり、そして、家出して不明となった孫を探し当て今わの際の母親に併せるために車を急がせる中、無情にも降りてしまう鉄道線路の遮断機前のつかの間の会話であるとか。
お婆ちゃんと云うものは人生の大先輩として何でも知っていなければならない、と思われている。しかしこの老婦人はあけっぴろげに人を愛することができなくて、また一家の孫の上に生じた悲劇についても成す術もなく、途方に暮れるほかはない。悪のファンタジーに囲繞された時、非力であるがままに運命を受け入れ、母親の死後はたったひとりで支え続けるほかはない人間の非力さを描いて、この映画それなりの作品になっていたと思う。